月明かりの下、一人散策する彼女を知ったのは。
 ただの偶然だった。
 それは、道具屋へ一人行った時。
 紳士好きで変わった男、ゴードン。
 奴のふと漏らした言葉だった。
「……本当に、あの方は美しい方ですね」
 ビュッデヒュッケ城にいる女は多いが、美しい方と言えば、クリス様だろう!!
 だが、この男に言われるとクリス様が汚れるような気がして、面白くない。
 しかし、ゴードンの次の言葉に、俺は驚いた。
「本当に。月の光に溶けてしまわれるのではないかと、そう思ったほどです」
 月の光→夜。クリス様。
「キッ 貴様!! クリス様に何をした!!!」
「は、離してください。何もしてませんよ」
「本当だな!!」
 そうでなければ、その首へし折ってやるところだ。
 俺はゴードンが女神に誓ってと言う言葉に頷き、奴の胸倉から手を引いた。
「……まったく、乱暴な方ですね。そんなことでは紳士のオーラが消えてしまうばかりですよ」
「紳士のオーラなどいらん」
「ふぅ……。わたしはただ、クリス様が夜の散策をされているのを偶然目にしただけです」
「…………どこでだ」
 それからだ。
 俺が月の美しい夜に、ここに来るようになったのは。
 空が晴れて、月の美しいこんな夜、彼女はたいていこの湖畔が見渡せる丘に一人座っている。
 しかし、今日は来ていないようで。
 俺は少し息をついて、そこに腰を下ろした。
 湖から吹いてくる風は、少し冷たすぎるほどで。
 彼女はいつも、ここで何を思っているのだろうと、胸が痛む。
 月の光に照らされる彼女は息を呑むほどに美しいが、その姿は孤独で。月光も風も冷たく。
 彼女を冷やしているように思える。
 俺はといえば、情けないことに。
 いつも、声をかけることもできないでいる。
 まるで彼女は、全てを拒絶しているようで。俺は、動けなくなるのだ。
 けれど心配で。
 護衛の意味で彼女を影ながら見つめるだけしかできず。
「……情けないぞ、ボルス・レッドラム!」
 俺は自分の頭を殴った。
 本当は、痛々しい彼女を、この腕でなぐさめたい。
 彼女の苦しみの万分の一でも俺が引き受けられたなら……。
「ボルスか?」
 かけられた、声に。
 俺は驚いて振り返った。
 そこには、長い銀の髪を風に揺らしたまま、俺を見つめるクリス様の姿があった。
「ク、クリス様!?」
 俺の心臓は跳ね上がる。
 クリス様は、俺の隣に腰を下ろした。
「どうした? 眠れないのか?」
「クリス様こそ、大丈夫ですか? お悩みが深いのでは」
 しまった!
 思った時にはもう遅い。
 クリス様の表情が曇った。
 俺は、最近クリス様がここで何かに悩んでいるのを見ていたせいで、つい言葉が出てしまったのだ。
「す、すみません! 俺、余計なことを……」
「……いや、いいんだ」
 クリス様は少し笑って、息をついた。
「そんなに私は表に出ているか? ……ダメだな」
「そ、そんなことは」
 そこで言葉が続かなくなる、俺は自分が情けなかった。
 こういう時に、パーシヴァルあたりならもっと気がきいたことが言えるだろうに、と思う。
 彼女は、暗い湖を見つめている。
 今は下ろされている銀糸の髪が、風に揺られてサラサラと揺れ。
 月に照らし出されるその横顔は、ただ美しく。
 しかし厳しい顔は、彼女自身を戒めているようで。
 この、暗い湖を一人で見つめている彼女を思い出して。
 俺はどうしようもなく切なく、悲しくなる。
「……俺では、ダメですか」
「……ボルス?」
「俺では、頼りになりませんか? 貴女の重荷を少しの間でも、楽にして差し上げることはできないのですか」
「………………」
 長い、沈黙の後に。
 彼女は俺を真っ直ぐに見た。
「…………甘えた英雄に、お前はついて行こうと思うか? 情けないリーダーでは、誰も安心できまい」
「俺は、貴女にならついて行きます。甘えた英雄だろうが、強い英雄だろうが、それが貴女なら着いてく」
 反対に、どれほど立派な英雄だろうと、俺はクリス様以外に従う気はなかった。
 その俺の答えは、彼女には予想になかったものらしく。
 その目は驚いたように俺を見ていた。
「俺は英雄と共にいたいわけじゃありません。貴女と共にいたいだけです」
「単純明快だな」
 彼女は、クスリ、と笑っていた。
 俺は顔が熱くなるのを感じて、目を伏せた。
 たしかに、単純だ。
 俺が好きなのはクリス様で。大切なのもクリス様で。共にいたいのもクリス様で。守りたいのもクリス様で。
 彼女を、ただ愛している。
 それだけだ。
 だから結局、彼女の言う通り、俺の考えはいつも単純になってしまうのだと思う。
「――そこに、救われるのだけれど」
「えッ」
 俺は、思わず顔を上げる。
 俺は自分の鼓動がはやくなっているのを自覚した。
「ク、クリス様……」
「…………」
 彼女は、そんな俺に、たぶん微笑もうとしたのだと思う。
 しかし、俺の見る前で彼女の笑みは上辺だけ形作って消え。
 零れた、涙に。
 俺が手を伸ばすよりはやく。
 彼女の身体が、俺の胸に。
 胸の、中に。
 飛び込んで。
 驚くほど柔らかく、軽い重みに。
 俺は、眩暈が、して。
 夢中で彼女を抱きしめていた。
 彼女の小さな嗚咽が、胸の中でする。
「……今だけ、で、いいから……っ」
 そう言って謝りながら泣く彼女に。
 感じた切なさは確かなのに。
 自分の胸で泣く彼女に、俺の胸は喜びに震える。
 神が見ているならば、罰を受けるに違いない。
 世界中の誰よりも愛しい女性が苦しんでいるのに。抱く肩は悲しみに震えているのが分かるのに。
 痺れるほどの歓喜に打ち震えている俺は。
 どれほど罪深いのだろう。
 やがて、彼女の嗚咽は小さくなり。
 聞こえるのは、虫の鳴く小さな音ばかりになった。
 それでも俺は、彼女を放さなかった。
 かすかに、笑む気配に。俺は彼女への拘束を緩くする。
 けれど、彼女は俺の胸に顔を埋めたまま。静かな笑みを含んだ声で、言った。
「………お前の胸は、暖かいな」
 情けないことに、俺はきっと耳まで赤くなっているだろうと思う。
「ク、クリス様こそ……」
 俺は胸に抱きしめている彼女にうっとりと応えてしまう。
「暖かいし、柔らかくて、抱きごこちが」
 最高です。
 と言う前に。
 俺は自分の失言に青ざめた。
 彼女が、俺の腕の中から飛びのいてしまう。
 しかし。
 キッと俺を睨んだ彼女は。
 俺は、よほど情けない顔をしていたのか。
 俺の顔を見て、くすくすと笑い出した。
 それは、いつも見る彼女の凛とした笑顔ともまた違って。
 とても自然で、優しい笑顔だった。
 ああ、俺は、やっぱり彼女を愛しているのだと、今さらながらに思った。
「ボルス、ありがとう」
「いえ! 俺こそ、ありがとうございます」
 言ってから、何か変な気もしたが。
 クリス様が楽しそうに笑ったので、それでもいいと思った。
 彼女は俺を見る。
「そろそろ、部屋に戻ろうか」
「あ、はい。では、お部屋まで送ります」
 そして、少し頷く彼女の後を、俺も歩き出す。
 彼女は、俺を振り返らずに、言った。
「ボルス。……この戦いが終わるまでは、私を見限らずに側にいて欲しい」
 お前がいてくれれば、何があっても立っていられる気がするのだ、と。
 そう続けて言う、彼女の背中に。
 俺は駆け寄って今すぐ抱きしめたい衝動にかられた。
 けれどそうしてしまったら、彼女を部屋まで帰せなくなってしまいそうで。
 俺はなんとか理性で止める。
「この戦いが終わっても、俺はクリス様のお側にいます」
 声だけなら強くしっかりしていた。
 しかし胸に湧き上がる喜びに、どうしても口元が緩んでしまって。
 もし彼女が今俺を振り返ったなら、また笑われてしまったことだろうと思う。
「ありがとう、ボルス」
 そう優しく零す彼女の後姿が、もう俺を拒んではいなくて。
 それがとても、俺は嬉しかった。

END