西遊記

序幕・旅立ち






 ――尼に、なるつもりはないかの。
 それは命令ではなかったけれど。
 それはいつもと変わらぬ、優しい声だったけれど。
「・・・・・はい、なります」
 その時、玄娘にはそれ以外の言葉を持てなかった。
 陳玄娘は、捨て子だった。赤ん坊のころに、金山寺の長老に拾われた。
 初めは女子ということで里のごく普通の家に預けられたが、すぐに金山寺に戻された。その後も幾度か里に養女とされたが、やはり長続きはしなかった。
 ――邪を、呼ぶのである。
 玄娘が意図して――そもそもまだ一才にもならない赤子の時である――呼ぶのではない。だが、泣く赤子に邪の闇が霧のように纏わりついているのを、里親たちは何度も目にする。その闇は特別な力のない村人でさえ、鳥肌がたつほどの邪を感じる代物だった。
 そして、玄娘は女子でありながら金山寺で育てられることとなった。
 長老は邪を呼び寄せる玄娘を厭うことなく、庇護した。寺では邪は滅多に侵入できず、またもし入っても長く留まることはできない。それでも時々彼女を襲い、物心ついた彼女が怯えるのをその膝に抱いて眠らせてくれることもあった。
 自分は幸せだと、玄娘は思う。
 長老は本当に彼女を可愛がってくれたのだ。
 寺では多くの若い僧が、修行に励んでいた。彼らに女を意識させないようにと男装で育てられたが、彼女が女子であるのは誰もが知っていることだった。今まではそれでもよかった。
 だが、玄娘も16を過ぎた。
 長老は悩んだ末、ここからさして遠くはない尼寺に彼女を託すことにした。
 どれほど隠そうとしても女性らしい肢体、その柔らかな顔を男装で消すことはできなくなっていた。玄娘を気にしだした若い僧たちを、修行不足の一言で断じるのは酷なことだった。
 その尼寺には長老の妹もおり、安心できる。若い身でと憐れに思い、悩んだのだが、里に下りて幸福になるには玄娘は普通ではなさすぎた。邪は周りのものを怯えさせるだけでなく、彼女自身も苦しめるだろう。
 長老はそう決断してからも、玄娘に切り出すのに半年近くかかった。
 そして玄娘を呼び、言ったのである。
「――尼に、なるつもりはないかの」
 その長老の言葉に娘は頷いた。
 その、夜。
 金山寺の長老は、夢を見た。
 眩い光を纏った観音菩薩が、静かに語りかけてくるのだ。
 ―――「玄娘を、天竺へ」と。
 金山寺の養い子は、夢を見た。
 眩い光を纏った観音菩薩が、錫杖をさし出し語りかけてくるのだ。
 ―――「これを手に、天竺へ」と。



 世に天災が続き、時の皇帝の夢枕に観音菩薩がたった。
 ―――「金山寺の養い子を、天竺へ」と。
 使者はすぐに金山寺へ出された。



「今日からそなたは三蔵と名乗りなさい」
 そう、旅立つ玄娘に長老は言った。
「特別な修行をしていないとはいえ、菩薩様の使命を受けたそなたは僧侶の一人として相応しい」
 三蔵法師。
 旅をするのに、法師の名は助けになる。多くの街や村で、僧侶は歓迎される。
 長老の親心だった。それに、菩薩様のお告げで旅立つこの娘に、法師の身分を与えたとしても仏様はお怒りにはなるまいとも思う。
「旅を終えて戻った後、あちらの大尼様が相応しい名を授けてくれるはずじゃ」
「はい」
 三蔵は、頷いた。
 その手には金色の錫杖が、しっかりと握られている。
 法師の格好の三蔵は、華奢だが男子に見えなくもない。法師を名乗る以上この格好でなければならないが、男装のほうが旅し易い。
「行ってまいります」
 不安を表に出さないように気をつけながら、三蔵は長老に頭を下げた。
「うむ。・・・必ず、無事に戻るのじゃぞ」
 天竺は遠い。旅は死と隣り合わせの危険なものだった。
「無事に、戻るのじゃぞ」
 繰り返す長老に、三蔵の傍らに立つ二人の屈強な男が胸をはった。
「おまかせ下さい。我らが、かならず三蔵様を無事天竺へと送り届けます」
 彼らは皇帝より使わされた、護衛兵だった。
 三蔵は見送りの僧侶と長老に手を合わすと、ゆっくりと門の外へと足を踏み出した。
 三蔵は旅をしたことがない。それどころか、寺を離れたことが殆どなかった。
 不安は大きく、そして恐れも大きかった。
 けれど。
 ・・・・天竺へ。
 行かなければ、と思う。
 今まで自分は寺の厄介物だった。長老や僧たちが庇護してくれればくれるほど、自分のせいで彼らが他の人たちに悪く言われるのが苦しかった。
 ―――あんな悪霊憑きを、寺に置くなんて。あれは化け物の子だよ。あの寺は化け物に憑かれちまってるらしいよ。あそこの僧は皆、邪憑きなんだ。―――
 口さがない者たちの言葉は、長老たちが聞かせないようにしても嫌でも三蔵の耳に入ってきていた。ほとんど村や町に降りたことのない三蔵でさえそうなのだ、他の僧達がどれほどそんな言葉を聞かされているかと思うと、言い表せないほど辛かった。悔しかった。彼らは何も悪くない。悪いとしたら、こんな身に生まれた自分なのに、と。
「三蔵様?」
 そう言われて、ハッと三蔵は我に返った。
 護衛の一人が、心配そうに彼女を見ている。
「どうか、なさいましたか?」
「――いいえ。ご心配おかけして申し訳ありません」
 三蔵はそう、柔らかく微笑んだ。
「さあ、行きましょう」
「はい」
 三蔵の瞳に残る辛さに気づくはずもなく、男はその三蔵の笑顔に頷いた。
 三蔵もまた、再び歩き出した。
 
 ―――西へと。