| 西遊記 |
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| 男が二人殺されるのを、彼らのすぐそばに聳える岩場から見ている者がいた。いや、正確にはその一番頂上にある大きな岩の中から、である。 斉天大聖孫悟空である。その炎のように真紅の髪は、チリチリと抑えられない感情に揺れている。岩の中にありながら外の様子が見られるおかげで、ここ数十年悟空はここで、同じようにあの山賊たちに殺される旅人たちを嫌になるほど見せ付けられてきた。 (相変わらず、クソみたいな奴らだ) 岩の中に封印されていなければ、彼の発する怒りの炎気だけで辺りの木石は灰になっていたに違いない。 僧の格好をした娘の、悲鳴が届いた。その悲痛は、悟空の胸まで響く。 (チッ) 舌打ちするしかない自分の状態が、悔しくてならない。 別段悟空はあの娘を助けたいというわけではない。だが、山賊どもにはいいかげん頭にきていたし、弱いものをいたぶるのをただ見ているのは真っ直ぐな気性のこの者には合わない。 『――悟空。―――孫悟空』 悟空は聞き覚えのある声に、必要以上に嫌な顔をした。 (なんでえ、観音か? オレは今機嫌が悪いんだよ!) 苛立ちながら言うが、お前がなんとかしろ、とは言わない。天界の神仏はこちらで直接奇跡の力を振るうことができないことを悟空は知っていた。それを今苦しく思っているのがこの観音であるだろうことも。 『悟空、お前の封印を三蔵が解くことが出来ます』 (え!? マジかよ!) 三蔵ってたしかあいつがそう呼ばれていたような? そう思って、悟空は急いで三蔵に意識を向ける。 まだ殺されてはいなかったが、あの囲まれた状態でとてもここまで来れるとは思えない。 (でもよ、あいつ、ここまで―――) 『そのかわり悟空、三蔵を守るのですよ』 悟空の言葉を聞かず、観音の気配は消える。 悟空は慌てた。 (お、おい!) 「どうして、こんな酷いことができるの!?」 彼女の叫びが聞こえた。 (・・・・・・・・) さっきの自分を食べろと進み出たことといい、弱いくせになんて人間だ、と思う。上手く言えないが、変わっていると、悟空は思う。 「―――どうしてよ!!」 その時。 シャラン、と錫杖が高い音をたてた。そこから、爆発的な光が放たれた。 何故かと考えている時間はなかった。 悟空は、娘に向かって念を飛ばした。 痛いほどの光に、誰もが目を覆った。 『―――おい! そこのお前、三蔵ってんだろ!?』 突然頭に響いた声に、三蔵は辺りを見回した。 錫杖から放たれた光は眩しいだけのものではなかったのか、山賊たちはまだうずくまってうめいている。 三蔵の頭に、苛立ったような声が再び響いた。 『三蔵なんだろ!?』 「あ、ええ」 わけもわからず、三蔵は頷く。 『よし! お前、そこからすぐに岩山が見えるだろ』 声のままに、三蔵は岩山を見上げる。 『その1番上の岩に、オレは封じられてんだ。お前なら、オレを封じている札を外せる』 「札・・・・?」 繰り返す三蔵の傍らにうずくまる山賊が、うめきながらも立ち上がろうとしているのを認めて、悟空は怒鳴った。 『はやく来い!! ―――死にてーのか!!』 だが、三蔵は躊躇する。封じられているとは、どういうことだろうか、と。 何故自分がこの声の主を解き放てるのかも分からなかったが、助かるためとはいえ勝手に封じられているものを解いてよいのだろうかという不安がよぎった。 『チッ! ――何してんだ!!』 (こいつがいなくちゃ、今度はいつ出れるか分かったもんじゃねえ!) そう、悟空は焦る。 『お前、こんなトコでこんな奴らに殺されちまうつもりかよ!? お前を助けようとした奴らを無駄死ににさせちまうのか!? ――助かる努力もしねーつもりか!!』 「!!」 その悟空の声は、三蔵の胸に真っ直ぐ刺さった。 ぐっと、錫杖を握りなおす。 三蔵は、起き上がりかけた山賊達の間を縫って、岩山へと走り出した。 「く、そ。なんだ今のは・・・」 山賊は頭を振る。 そして、駆けて行く三蔵に気づいた。 「―――坊主を逃がすな!!」 『――はやく来い!!』 三蔵は、岩山にとびついた。 (――っ) 真下から見上げると、離れた場所から見ていた時とは比べ物にならないほどの勾配があるのが分かる。だが、その急な勾配と高さに息を呑んだのは一瞬だった。 (まだ、死ねない!!) 三蔵は、錫杖を背にくくりつけると必死に岩山をよじ登る。 天竺へ行く使命がある。死んだ二人にも、送り出してくれた寺の皆のためにも、安穏とあきらめて死ぬことなど許されない。 殺されるのが避けられないとしても。あがいて、あがいて、最期まで生きようとしなければ。 腕の感覚がなくなる。足が、自分のものではないように重い。岩場についている手が、ちゃんとかけられているのかも分からなかった。 『――がんばれ!』 (うん) 三蔵は荒い息以外に言葉がでず、だが心の中で声の主に頷く。 何度も足を滑らしかけ、意識さえ遠くなりそうになる。そのたびに響く強い声だけが、彼女を支えてくれていた。 彼の声の心配は彼女自身に向けられているものではない。ただ彼女がたどり着けないことによって、自分が出られないことを焦っているだけだった。しかし、それを隠そうともしない、真っ直ぐさ。――迷いも悪びれもない、底抜けの強さを感じる。 この声の主を解放してもいいのだろうかと、最初に迷った自分が信じられなかった。 彼は陽だ。 そう、三蔵は頭よりももっと深い所で理解していた。 人間ではないかもしれないが、人間よりももっと――いや、比べ物にならないほど、陽の気配に満ちていた。言うなれば、鮮やかな混じりけのない炎。それも、夜闇に浮かぶものではなく、太陽の下で負けずに輝く明るい炎である。 「――殺せ!!」 予想外の抵抗に合って生け捕りにする気が失せたのか、山賊たちは口々に叫んで三蔵の後を登ってくる。ぐんぐんとその差は縮まる。 はらはらと見守る悟空のすぐ前の岩だなに、彼女の手がかけられた。 (あっ!) がくん、と三蔵の身体が反りかける。追いついた山賊の一人が、彼女の傷だらけの足を下から掴んだのだ。 男の力に、もともと力のない三蔵が抗えるわけがない。――しかも、すでに彼女は力尽きる寸前だった。すぐに、ひきずり落とされかける。 『――三蔵!!』 悟空の声が、彼女を支える。三蔵は歯を食いしばった。 「・・・あ、あ・・・・っ」 最後の力で。 三蔵は体勢を崩しながらも、身と腕を精一杯のばして――岩の札に、触れた。剥がすまでは届かず、ただ、指が一瞬触れただけだった。 それでも、札はその瞬間を待っていたかのように灰と消える。 岩に亀裂が走る。 だが、三蔵はそれを見届けられなかった。 そのまま、身体を持ち直すこともできずに、岩山を落ちていく。 頭上で轟音が鳴った。 それとともに、風がすぐそばを走ったような気がした。 「――よし!」 闊達な声が、耳の横で聞こえた。 三蔵は目を開けようとしたが、すぐに吹き付けてきた熱気を帯びた風に顔を背けるしかできない。 ―――グオオオオーーーーーッ!!! 風が収まり、雄叫びが喩えではなく本当に地面を揺るがした。 その叫びに三蔵は我に返り、落ちたはずの自分が、今は地面に横たわっていることに気づく。身体を起こすと、さっきまで自分が上っていた岩山が消え、そのかわりその岩山ほど高く大きな妖猿が空に咆哮を上げているのが見える。山賊たちは、そのすさまじさにある者は腰を抜かし、ある者は一目散に逃げ出そうとしてる。 巨大な妖猿は、再び吼えた。 天に向かって。 それとともに、輝く炎気が発せられる。炎が爆発する。かなり離れた場所にいる三蔵でさえ、熱気で息が苦しくなる。たまらず、地面に伏せると腕で顔を覆った。 それでも、頬を、身体を、熱気が襲う。疲れきった身体に容赦なく襲いかかる炎の熱に、三蔵の意識が途切れようとしたとき、ふっと、熱気がやんだ。 「・・・・?」 『ありゃ? ――悪ィ悪ィ』 少しも悪くなさそうな、闊達な声が響く。そして、妖猿は三蔵に近寄った。 三蔵は、反射的に小さく悲鳴を上げる。 それに、妖猿は心底気分を害したような声を上げる。 『何もビビルことないだろ。オレはお前を助けてやったんだぜ』 (―――ああ・・・・・) 三蔵は、やっと気づいて小さく微笑んだ。 「貴方は、あの声の・・・・・」 その声に含まれる感謝の響きに、三蔵が分かったことに気づいて、妖猿は今度はニッと笑んだ。すでに、先ほどの不機嫌さはキレイに消えている。こういうことにこだわらないのが、この妖猿の気質であるらしかった。 三蔵が見ている前で、巨大な妖猿の輪郭が輝いた。黄金と真紅の炎気の眩さに、三蔵は目を細める。その輝きは急速に小さくなり、それとあわせて妖猿の影は縮んでいく。その光が消えた後には、一人の青年---いや、少年と呼んでいいだろう---が立っていた。 風に揺れる真紅の髪。面白そうに自分を見る黄金の瞳。精悍な顔。その少年は、ニッと笑った。 「おうよ。オレがお前を呼んだんだ」 心底疲れているのに、三蔵は心の疲れが吹き飛んだ気がした。明るい風が、この少年から吹いてくる。 「オレは、斉天大聖孫悟空だ!!」 「あ・・・私、私は三蔵・・・」 地面に倒れているままなのに気づいて、三蔵は身を起こしてから言った。 悟空は、うん、と頷く。 「出してくれてありがとよ! オレのことは悟空でいいぜ、三蔵!」 「私こそ、ありがとう、ごく・・・・・」 悟空、とまで言えなかった。 身を起こした三蔵の目に、悟空の向こう、木々が焼き払われた一面が映った。山賊たちの剣が原型も留めぬほどに熔け散っているのが見える。山賊たちは灼熱の炎に一瞬にして焼かれ、痛みを感じる間もなく灰となったのだろう。 強張っている三蔵に気づいて、悟空は三蔵の目線を振り返った。 |