西遊記

両界山〜四〜




 悟空は風を頬に受けていた。
 この空のように、どこまでも続く自由。自由、だ。
 心の底から湧きあがった歓喜は、しかし、今はない。
「・・・・・・・・・・」
 三蔵の後姿が脳裏から離れなかった。
 胸の辺りがもやもやとして、すっきりしない。それがどうしてかも分からず、悟空は無意識に如意棒をクルリと弄んでいた。
 ――苛々する。
「――チッ」
 舌打ちし、悟空は乗っていた雲を方向転換させた。
 三蔵と別れてずいぶんと遠くまで来ていたが、悟空にかかればあっと言う間の距離でしかない。
 せまってきた夜闇に、悟空の身体が微かな炎気に光っている。
 悟空は少しして、三蔵を見つけた。
(――あいつ、まだあんなトコをウロウロしてやがるのか)
 悟空にしてみれば、自分と別れた所から目と鼻の先だ。
 人間というのは、こんなにも歩みに時間がかかるのか、と悟空は思い知らされる。
 悟空は少し離れた所で、すたりと地面に立った。
 顔を合わせるつもりはなかった。
 ただ、ほんの少し気になったから、様子を見に来ただけ。
 それだけだ、と自分に言い訳する。
 火をおこした側で、膝を抱えていた三蔵の姿が蘇る。
(心細そうにしやがって)
 彼に見せるためにそうしていたわけではないのを知りながら、なぜか悟空は苛々とする。
 悟空は三蔵がいた場所へと、そっと近寄って行った。木陰を縫って、闇に焚き火の炎が見えてくる。
 もちろんそんな炎がなくとも、悟空の目は闇を通り越して周りの姿が鮮明に見えていた。
 悟空の、足が止まる。
 不快な感覚が、悟空の首筋辺りにする。
(――邪、か)
 悟空には欠片の恐怖もない。けれど、鬱陶しい不快さはあった。
 その邪が、三蔵を包んでいた。
 彼女は身を硬くしてガタガタと震えている。
(何、やってんだアイツはッ)
 悟空は憮然としたまま、茂みをかき分けて三蔵の方に姿を現した。
「・・・・おい」
「!」
 びくり、と三蔵は顔を上げる。
 悟空は目を見開いた。
 今にも泣きそうな顔。誰かに助けを請う目。
(――やら、れたッ!!)
 何が「やられた」なのかは分からない。
 だが、悟空はそう反射的に思った。
 三蔵は、ハッと我に返った。はじめて、そこに悟空がいることを理解する。
「ごく、う」
「チッ」
 悟空は不機嫌なまま、彼女にずんずん近寄った。
 彼の纏う炎気を嫌ってか、邪はさっと散った。
 三蔵は半ば呆然と悟空を見上げる。
「・・・・悟空、どうして・・・ここに?」
「――うるせえ」
 悟空はついと視線を外す。
 彼のなぜか酷く不機嫌な様子に、三蔵は自身が悪いわけでもないのに目を伏せた。
「ご、ごめん・・・・っ」
「謝るな」
「ごめ、あ、ごめん・・・・あ、えっと――」
「・・・・・・・・」
 悟空はふーっと深い息をつくと、三蔵の隣にどかりと座った。
「あ・・・悟空?」
「――しょーがねえ」
「え?」
 事を決めれば、悟空は悩むほうではない。
 普段の彼にすっかり戻って、ニカッと三蔵に笑った。
「――途中まで、一緒に行ってやるよ」
「え! ええ!?」
「最後まで行くって約束は出来ねーけどな。とりあえず、しばらくは一緒に行ってやる」
 それでいいならな、と言い置く太陽のような少年に、三蔵はパッと顔を輝かせた。
「もちろん! もちろん、嬉しい! ありがとう!」
「やっぱ、赤ん坊みたいにヨワッチイの放っとくのは、後味わりいからなあ」
 うんうん、と悟空は頷く。
 その自分の言葉に、自分の納得のいく答えを見つけたようだった。
(赤ん坊・・・・か)
 悟空の目から見て、そんなにも弱いのかと三蔵は思った。
 自分はこんなことで、天竺まで行くことができるのか、と思う。
 そして三蔵は、悟空との会話を思い出した。
『悟空にしてもらって・・・・。だから。ごめん・・・』
『あん? 何言ってんだ、お前。お前は弱っちいんだから、それが当然だろ』
『で・・・でも・・・・・』
『じゃあ、強くなるこった』
(・・・・・・・・・)
「ねえ、悟空」
「あん?」
「私、強くなりたい」
「お前が、かあ?」
「うん。自分で、自分の身が守れるように」
 三蔵の目は真剣だった。
 悟空は、ふむ、と思う。
 三蔵がせめて人並みに戦えれば、自分はさっさと離れることができるはずだ。
「んー。よし。俺が道中稽古つけてやる」
「ありがとう、悟空!」
 三蔵は、悟空ににこっと笑う。
 天竺は遠く果てしなく、三蔵と悟空の旅は始まったばかりだった。