予感

 「う・・・っ・・・」
 シンビオスはハッと目を覚ました。
 最初に目に映ったものは、白い天井。横に視線を流せば、そこには小さなテーブルがあった。
 彼が子どものころからずっと使っている部屋だ。
 シンビオスの意識が完全に覚醒する。
 そうだ、と思う。
 今日は出発の日だ。
 海上都市サラバンドで行われるデストニア、アスピニア両国の和平会議に、父コムラードの名代としてシンビオスが赴くことになったのだった。
 シンビオスはがばりと身を起こした。
 ぐらり、と一瞬視界が揺れる。
 急に込み上げる嘔吐感に、口をふさいだ。
「・・・・・・っ」
 冷たい汗が額に浮かぶ。
 黒い影。悲鳴。血。先ほどまで見ていた意味のつかめない夢の切れ端が、シンビオスの脳裏を次々とフラッシュバックする。
 胸が締めつけられる。
 苦痛。わけの分からない焦りと恐怖。
 シンビオスは呻くと、ぎゅっと目を閉ざした。
 そのシンビオスの肩を、誰かが強引とも言える力でつかむ。
「シンビオス様!」
「・・・あ・・・」
 シンビオスは子どものころからよく見知っている顔を見つけて、息をついた。
 嘔吐感はきれい消え去っていた。
「―ダンタレス」
 シンビオスの顔に血の気が戻ってきたのに、ダンタレスは安堵の息をついた。
「勝手に申し訳ありません。ノックしたのですが返事がなかったので入らせていただきました」
「いや・・・助かったよ」
「大丈夫ですか」
「うん。もう平気だ」
 シンビオスは恥ずかしげに、前髪を払った。
「・・・少し、気分が悪くなって。心配かけてすまなかったね」
 シンビオスは寝台から起き上がると、そばにかけてある衣服に袖を通す。
「みんなそろっているか? 僕が最後かな」
「はい。いえ・・・」
 反射的に答えてから言葉を濁すダンタレスに、シンビオスは笑った。
「いいよ。本当のことなのだから。・・・急がなくてはね」
「身体の具合が悪いのではありませんか。ご無理をなさっているんじゃ・・・」
「大丈夫だ」
 着替え終わったシンビオスは、ダンタレスにくるりと振り向いた。
「さっきだけだから。―どうしてだか、分からないけれど」
「・・・緊張なさっているのでは?」
「そんなことはない」
 シンビオスはそう言ってから、視線を落とした。
「いや・・・きっとそうだな。情けないことだけど」
「そんなことはありませんよ。わたしも初陣の時は、気が張って気分が悪くなった覚えがあります」
「ダンタレスでも!?」
 シンビオスは驚いて少し年上の、共和国屈指の騎士を見た。
「だけどダンタレスの初陣は共和国の語り草になっているよ。鬼神のような強さだったと」
「・・・・・・。シンビオス様、緊張は誰にでもあるものです。シンビオス様の任務の重さならなおさらでしょう。ですからそのことを恥じる必要はないのですよ。大切なのは、それを力にかえることです」
「・・・そうだね。そう努力するよ」
 ああ、そうだった、とシンビオスは思う。
 たしかに大事な任務だ。
 けれどそれだけじゃない。
 シンビオスは少し笑った。
 平和を。
 その願いは何よりもシンビオスの願いでもあるのだ。その実現のために少しでも動ける自分は、幸せなのかもしれない。
 ふいと、はっきりとは思い出せない夢のイメージが脳裏をよぎった。
「シンビオス様?」
「え? あ、いや、何でもないんだ」
 シンビオスは我に返ると、そう言った。
 不吉な感覚。
 今から出発しようかというのに、仲間の―部下たちの―前で、指揮官が不安な顔などしてはいけないのだ。「指揮官は不利な戦況でも動じて見せてはならない」。それは、父コムラードの教えでもあった。
「何でもない顔には見えません」
「・・・・・・」
 シンビオスは少し、複雑な顔になる。
 自分は顔色一つ隠せない人間なのだろうか。
 その思いを読み取ってか、ダンタレスはあせったようにつけたした。
「幼いころよりシンビオス様にお仕えしてきたわたしです、分かりますとも」
「・・・僕の立場で言ってはいけない事だけど―」
「わたしに遠慮は無用です」
「嫌な予感がするんだ。何か・・・よくないことが起こるような」
「・・・・・・。大丈夫です」
「え?」
「そのもしもの時のために、我々は代表国王ベネトレイム様と行くのですから。我々が国王を、ひいては共和の理念を守るのです」
 ダンタレスの言う通りだ。
 シンビオスは彼に強く頷いた。
 不吉な影に怯えるのではなく、それと戦うために自分たちは行くのだ。
 ダンタレスは迷いをなくしたシンビオスに、笑った。
「それに、シンビオス様はこのダンタレスがお守りいたします」
「それは・・・心強いな・・・」
 シンビオスはそう、照れたように笑った。
 いつかなれるだろうか、と思う。
 ダンタレスたちの向けてくれる想いに、相応しい人間に。
 シンビオスはこの愛しい部下、いや、仲間たちを守れる力が欲しかった。
 
 ―シンビオス軍はこの後、激戦の渦中に身をおくこととなる。


 END