| 雪と氷 |
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| Largo 寒いのかと聞かれたので、首を振った。子供のようだと自分でも思ったが、他に答え方がわからなかった。何故こんな雪道を歩いているのか、何処へ向かっているのか、気が付けばそんなことすら曖昧になってしまっていた。 それほどまでに辺りは雪と氷に満ちている。 横殴りに吹く風に、天と地の雪が混じり合い、視界を覆う。踏み固められたとはお世辞にも言えない足跡をたどり、ただ、次の一歩を踏み出すことだけを思う。 誰が、自分に尋ねたのだろう? 寒くはないかと声をかけてくれたのは、誰だっただろう? 吐息をつくと、口元を覆った布が一瞬、湿度と温もりを取り戻し、すぐにまた氷の壁に変わる。足先が痺れてきた。よくない兆候とわかっている。いや、そんな気がするのだろうか。誰か、そんなことを説明してくれた人がいた。 後ろを見渡せば、人影が三々五々伺える。 彼の前には、たった一人。雪が、そして闇が「彼」との間を閉ざしていく。 粘り着くように歩みを遅らせる雪を蹴散らして、前を行く人に近寄る。肩を並べると、彼は、怪訝な顔でこちらを見ている。闇の中でもそれがわかった。 目を、合わせればいい。 視線を交わしていつものように微笑めばいい。 少し高い位置にある瞳を覗いて、笑えばいいのだ。「彼」はきっと・・・。 「シンビオス様?!後ろからついていただいた方が、楽に歩けるはずですが!」 吹き荒れる風にも負けない声。戦場での名乗りにも似た響きがしっかりと耳に届く。それと共に、己のいる場所、すべてがくっきりと浮かび上がる。曇りガラスが割れた後にも似て。 ゆっくりと首を振り、後ろを指す。忠実な守り役にいつものように快活に。 「・・・少し行ったところで設営しよう。山陰にはいるから、多少は風もましなはずだ。このままでは皆疲れ切ってしまう」 「確かにそうですね。雪を掻き分けて進むのが、これほど大変だとは思いませんでした。アスピニアの雪とはまるで違います」 「うん。後から来る皆は、もっと大変だろう。雪も本格的になる」 ダンタレスとの会話の最中、再びゆっくりとガラスが曇って行く。シンビオスの前に、一人、髪を翻して進む「彼」だけが、雪と氷の中、鮮やかに浮き上がる・・・。 Tarantella それは、驚くほど大きな洞窟だった。天井など、人が二人肩車をしても充分に余裕があるだろう。凍りついてはいるものの、風の吹き荒ぶ表に比べれば天国だった。後続の部隊を待つ間、シンビオスは少し奥まった岩室とでも言うべき一角に近寄った。 よく見れば、そこだけが人の手が打ち出したように、祭壇とでも言いたくなる高みを築いていた。しかも、最奥にはこの寒さの中でも涌きいでる泉があった。 微かに湯気を立てるそれに、シンビオスは手を伸ばした。通り抜けた村の一つにあった、熱泉が頭をよぎった。だが、触れた水は氷よりも厳しい冷気をシンビオスの指に与えた。 冷たい、と思うだけの余裕すらなかったかもしれない。ハッキリと解ったのは、肘の関節をくるみ込むように冷気が巡ったこと。次の瞬間、身体中の関節が激しい軋みと共に動きを止めた。その時には、指を曲げることすら、シンビオスには出来なくなっていた。 誰かが、宝物のように彼を抱き上げる。低い囁きが耳元を彷徨う。すると、まるで人形のようにシンビオスの身体は、力を抜いて二本の腕にぶら下がった。顎が天を向く。音は消えていた。何も聞こえず、ただ、天地の逆転した世界を見せられた。瞼すら意のままにならず、じきに涙が溢れる。その間にも、ぐるぐると、ダンタレスやフィンディングの顔、グレイスの涙、パルシスの渋面が視界をよぎっていく。 声もなく、音もなく、そして光すら打ち消されて。 シンビオスが最後にそれと見たものは、優しいとも言える手つきで彼の瞼を閉じさせた赤い指だった。 Adagio 音もなく、光もなく、そして声もなく。 ゆっくりと体の中から何かが溢れ出してゆく。手も、足も、己の意のままになるところは一つもなかった。自分は呼吸をしているのかどうなのか。それすら判らない。呼吸すらしていなければ、では、自分は死んでいるのだろうか? 胸が動いているような気もするし、微動だにしないようにも思える。 ・・・やはり死んでいるのかもしれない。そう思ったのはどれほど経ってからだろうか。 例えば、苦痛があれば生きているからこそと信じることもできるだろう。だが、痛みも、暑さ寒さも、自分の身体のすべての感覚すら無い状態であった。それと意識できたのは、今もこうして考えている「自分」のみ。死ねば、人は意識のみの存在となると、かつて神学者は彼にそう講義した。 父と仲のよかった神父は、優しい言葉で幼い彼に言った。母は、遠いところへ出かけたと。彼がこの世に生まれるときに、母はエルベゼムの神の御座へと去ったと、彼の健やかな成長だけを心配して行ってしまったと教えた。いつか、彼がこの世での役割を果たし終えたときに、母と常世で出会えると教えてもらい、幼かった彼は懸命に成すべきことの表を作ったことがあった。 あの時、父は何と言ったのだろうか・・・。よく、覚えてはいない。だが、母を亡くし、親代わりの姉が嫁いだ後、あの館の中でいつも懸命に父の後を追った。父の期待を感じ、その肩の重荷を少しでも軽くしようと学んだ。顔も判らない母への思慕は、父への思いに座を譲った。父の理想とした世界を作るために、自分の力を僅かなりとも加えたかった。 父は、一人で行ってしまった。母と会えたのだろうか? 父の寝台に置かれた母のミニアチュールは、棺の中に入れた。母と父と、二人が常世で待つはずだった。もしも、自分が死んでいるのなら、二人は、何故いないのだろう? それとも、二人だけで行ってしまったのだろうか。無口だった父は、息子にすべてを預け、後も見ずに逝ってしまったのだろうか。そうして自分はここに、天と地の狭間なのか、中有の薄暮の中か、そんなところで取り残されたのか。 止めどない思考の奔流に、縋るものを求めて記憶をまさぐる。既に彼の意志は、記憶すら制御できなくなりつつあった。収穫祭に連れ出してくれた、義兄の副官の若々しい笑顔。 それが血にまみれた死に顔に変わる。思い出すのは、血潮と死体と人々の嘆きと・・・。 『寒くは、ありませんか?』 ・・・彼はそう言って自分の手の震えを寒さのせいにしてくれた。滝の近くではあったが、まだ冷えることなど無かったのに。彼の弱い心を知っていながら、そっと真綿でくるむように気遣ってくれた。多くの話をしたわけではなかったが、どこか、何かが彼を慕わしいものと感じさせた。彼と話すとき、気負わずとも良い、とその場の空気が語りかけた。 王城で、お互いに軍勢を背に対峙したときも、どこか芝居を見ているような遊離感があった。傍らのダンタレスの緊張、キャンベル卿の殺気、メディオンの苦渋。すべてが真実でありながら、自分に向けられた剣の切っ先だけが、奇妙に現実味を損なっていた。 彼が、意に添わぬことをしている事だけが信じられた。自分と同じように。 あの時、きっと自分と彼は同じ表情をしていたのだろう。きっと、同じ事を考えていたのだろう。 君たちと共に戦えることが嬉しいと、そう彼は言った。自分もそうだと言えただろうか。 父のためでもなく、共和の理想のためでもなく、まして世界を二分する争いに終止符を打つためでもなく。 ただ、あなたと同じものを見、同じものを敵とするために、この北の地へとやって来たのだと、自分は確かに言えただろうか・・・。 音もなく、光もなく、だが、声だけがあった。狂おしいまでの「声」があった。 Coda シンビオス殿のご様子ですが。 はい、ずいぶんと回復されたようです。昨日はご自分で起きあがれたということです。 いえ、ほんとうです。 仕方がありません。一時は真に彼岸まで向かわれたのですから。軍の方々のご心痛ぶりは、傍らにいただけではありますが、身にせまる思いでした。 はい、少しではありますが、お目にかかって参りました。お手紙も預かっております。 ・・・正直申し上げて、共和国随一の将軍とは信じられない思いでした。お若いことは重々承知しておりましたが、優しい面持ちのまだ少年としか言いようのないご様子で。 戦場でのお姿はもちろん存じております。はい。 それでは、書状を。 失礼いたしました。 Moderato メディオンはそっと手紙の封蝋を剥がした。赤いそれは、共和国の紋章がくっきりと浮き上がっている。それを見て、もはや戦いを思わずにすむことに安らぎを覚えた。 羊皮紙には、少し震えているが丁寧な筆跡で細かな文字が並んでいた。 雪の降り積む音が聞こえる。 温かな部屋の中で、ゆっくりと文章を追った。シンビオスは、自分のせいで進軍が滞り、ジュリアンやメディオンに迷惑をかけたことを詫びていた。 部下達に無理な決断を迫ることになってしまったこと、自分を守るために部下達がそこまでの犠牲を払ったこと・・・。 短い文章の中に、シンビオス自身の驚きや発見が溢れていた。 シンビオスにとって、自分のために彼らが動いたことが、そんなにも驚くべき事だったのだろうか。メディオンの目には、シンビオス軍は彼を中心にあたかも一人の人間のように緩急自在に戦うように思えた。自分が、用兵の実際を知らなかったように、シンビオスの経験もけして多くはなかった。だが、最小の犠牲で最大の効果を発揮する彼の戦法は、老練な強者のそれだった。 なのに、彼の心はこんなにも柔らかくしなやかだ。 王宮での生活で、こんな風にメディオンと語った人はいなかった。妾腹の第3王子である身分が常に彼を異質にさせた。幼児期を過ごした下町でもそれは変わらない。 初めて出会ったサラバンドで、彼は、会ってみたかったのだと言った。話に聞いたメディオンに会ってみたかったと。シンビオスという名すら知らなかった彼が狼狽える暇もなく、真っ直ぐな目がメディオンを射抜いた。その瞬間、メディオンは理解した。 明日はシンビオスに会える。メディオンはゆっくりと手紙を畳んだ。会って、そして話したいことが沢山ある。手紙ではなく、言葉で。 Chorale 空は澄み渡っていた。吹雪の合間の奇跡のような晴天に感謝しつつ、近づいてきた村をそれぞれが見やった。数人の物見が出ているのが判った。さっそくゼロがそちらへ向かう。 隊列が乱れたのを注意すべく、キャンベルが胴間声を張り上げた。だが、その傍らを飛ぶように駆け出したメディオンに、叱咤する声は尻窄みになった。 村の入り口で、コロコロに着膨れたシンビオスが手を振っていた。そちらに走りだしたメディオンは、何度となく雪に足を取られては転ぶ。たどり着く頃には真っ白に様変わり していた。 シンビオスが笑いながらメディオンの雪を払う。 メディオンはシンビオスの顔を見つめて言葉もない。 「・・・長かったね」 「ええ。お会いしたかったです。本当に」 「私もだ。君に言いたいこと、君に聞いて欲しいこと、君と話したいこと・・・。沢山ありすぎて苦しいくらいだ」 にっこりとシンビオスが笑った。 メディオンの手を取り、村の入り口を示した。 「時間はあります。さあ、いきましょう」
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