天涯比隣 


 玄英宮。
 陽子は静かに目を閉ざした。潮風が、陽子の頬を撫でていく。
「風邪をひくぞ」
 尚隆の静かな声とともに、陽子の肩にふわりと衣がかけられた。陽子は目を開けると、尚隆に笑って見せる。
「そんなにか弱くはありませんよ?」
 尚隆は笑うと、陽子の横に並んだ。二人は、雲海に目をやる。
「力になれることがあれば、いつでも言ってくれ」
「はい。……頑張ってみます」
「…………」
 力の入っている陽子の背中を、尚隆は叩いた。にっと笑む。
「末永く、お付き合いねがいたいものだな、景王」
「はい。私もそう思います」
「とりあえず、百年。その後ももちろんだが」
「とりあえずで、百年、ですか?」
 まだ十数年しか生きていない陽子は、そう繰り返した。尚隆は鷹揚に頷く。
「とりあえず、百年だ」
「・・・はい」
 陽子は、ふわり、と笑った。
 そして数日後、慶国に新しい王が登極した。








「でも、よかったよな」
 六太は言って、一つ伸びをした。陽子も景麒もこれから大変だろうと思う。けれど、ここから始まるのだ。自分たちの時と同じように。
 願わくば、かの国の王が永い生を得られん事を。かの国の民が永き治世を得られん事を。
 王が登極しては、百年もたたずに王道を違えてその命を失い、国が荒廃する。この五百年の間、いくつもそんな王と国を見てきた。だが、それに慣れる事はない。
 できることならどの国の王も麒麟も、そして民も、皆が幸せであって欲しい。それが、六太の心からの願いだった。
「陽子は……大丈夫だよな」
「当たり前だ」
 尚隆は言って、六太の頭を軽く叩いた。
「慶国の景王には雁国と延王がついているのだぞ。こういう言い方を陽子は嫌がるかもしれんが、事実、登極間もない時には、強国がついているかいないかで大きく違う」
「だよな。陽子と景麒には、オレたちがいるものな」
 自分の頭に置かれた尚隆の手をはらいながら、六太はうんと頷く。尚隆は軽く笑うと、手すりに手をかけた。雲海の潮の匂いが、心地好い。玄英宮に陽子がいたころ、彼女はよくこうやって雲海の波が打ち寄せてくるのを眺めていた。
 今さら、自分が一人の女を欲っすることがあるとは思わなかった。
 けれどもう、尚隆は決めてしまったのだ。
 いつか、陽子を手に入れると。
 王は結婚できず、決して子をもうける事はない。そして尚隆は王であり、陽子もまた王である。王同士の恋愛は十二国の歴史において例がなかった。それどころが、古来、王同士はあまり交渉を持たないものとされている。陽子を欲することは天命に背くことかもしれない。天命に背けば王に待っているのは死のみだ。そして、王を失った国は荒廃する。
 延王が景王を求めるのではない。小松尚隆が中嶋陽子を求めるのだ。
「……詭弁だな……」
 尚隆の苦笑に満ちた呟きは、波の音に消える。
 雁を滅ぼす気は毛頭ない。慶もしかり。
 両国の繁栄と、恋と。尚隆は二兎とも射止めてみせるつもりだった。
 前例なくば、つくればいいことだ。
「五百年生きて、新たな楽しみも何もあるまいと思っていたが……」
「慶の行く末か?」
 六太は言って、楽しみってのは不謹慎じゃねーのと文句を言う。延王は笑む。
「慶と、雁のだ」
「あん?」
 その六太には答えず、尚隆は雲海に目を戻した。
 時間は、ある。
 一緒に行こう、陽子。
 そう、尚隆は今は金波宮にいるだろう陽子を思った。
 春も、夏も、秋も、冬も。巡る時を、生きよう。百年、二百年、千年でも。
 天命を失う、その時まで。








「主上」
 景麒に促され、陽子は頷いた。
「今行く」
 陽子はそして、テラスから離れた。雲海からの風が陽子の髪を揺らす。
 延王?
 陽子はふっと振り向いた。
 景麒が、怪訝な顔をする。
「主上?」
「…………。いや」
 陽子は小さく笑うと、再び景麒のほうに歩き始めた。
「何でもないんだ」
 不思議だ、と思う。
 かの人は今、玄英宮にいるはずだ。いや、あの人のことだから、街にまぎれているかもしれないが。
 こんなに離れているのに。
 あの人の気配を、すぐ近くに感じる。
 景麒が、陽子の傍らに並ぶ。陽子は官たちの待つ部屋へと向かった。
 王になりたいと思った事はない。王になれて嬉しいとも思わない。山積みの問題が、自分を待っている。それでも、ただ一つ。
 延王とめぐり逢えた運命を、陽子は感謝した。
 しかし陽子はまだ、自らの想いの名を知らない。







 雁州国延王尚隆と慶東国景王陽子。
 二人の王の物語は、今始まったばかりだった。




                                               

<了>