「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」


(「俺は、倒れないよ」)

 歩くことはおろか息をするのも億劫で…でも、ここでへたり込んでしまう訳にもいかず、
本当に仕方なく、のろのろと足を動かす。
 全身が鉛のように重たい。目に見えない「何か」が圧し掛かってくる…確かな重圧を感
じている。
 ヒトの身体は不思議だ。怠くても、足を動かせばきちんと前に進むように出来ているし、
顔を上げれば遥か前方までが見渡せる。
 本当に良く出来ている。便利なものだ…と思う。
 脆くて、すぐに壊れてしまうのに…それなのに、鋼よりも強い。
 不安定であるのと裏腹に、限りない可能性をも秘めている。
 だからこそ、心惹かれたのかも知れない。……遠い昔の自分は。
 そういった者は取り分け輝きが違う。寄生する為の気に入った「器」を探すことは容易
なことではなかったが…急ぐ訳でも無し、気侭に毎日を無駄に使っていれば良かった。
 そう…彼らに出会うまでは。
 公園に差し掛かる手前、曲がり角に佇む「誰か」に気付いて、自然と歩みが止まる。
 瀬戸口は目を眇め、落ち掛かる髪を掻き上げた。
 ……やっぱり。
 上げた視線の先に知った顔を見付けて、思わず笑ってしまう。
 予測の範疇内だとはいえ、まったく律儀なことだ。まだ陽が顔を出す前…世界は静寂に
満ち、薄闇に包まれているというのに。
 それこそ女の元で遊び倒した末の朝帰り…という訳でもないだろう。いっそそうである
なら、まだ救いがあるような気もするが。
 そうしているうちに、ゆっくりと彼が近付いてくる。半ば呆然と立ち尽くしたままの、
自分の元へ。
 目深に被った白い帽子の下の表情は解らない。ただ…その瞳が、澄んだ水面の色をして
いることを、瀬戸口は知っている。
 だから、敢えて…あのほややんとした人を煙に巻く笑みを思い浮べ、少しでも近いもの
を、と念じながら。
「……ただいま」
 捻り出した声は、みっともないほどに掠れていたけれど。
 応えは無かった。代わりに差し延べられる腕に抱き込まれ、瀬戸口は小さく息を吐いた。
 自然と零れたそれは、紛れもない安堵の溜息だった。
 口元に苦笑を刻んだまま、そっと肩口に額を押し当ててみる。
 何も言わないから。何も聞かないから。
 ただ…その肩に凭れることを赦してくれるから。
 だから、ついつい甘えてしまうじゃないか。
 鼓動を間近に感じている。意識せずとも重なる、互いの心音。
 不思議だ。ちゃんと動いている。ちゃんと、生きている。
 「夜な夜な現われる死の舞踏を舞う者」…とは、よくぞ言ったものだ。
 久方振りの戦闘は、瀬戸口を酷く憔悴させた。
 それこそ…数週間前。初めて「要求」を受け入れ、ひとり夜の戦場に立った時は、もっ
と辛くて苦しくて。遣り切れなくて。
 帰途を辿る道すがら、危うく…行き倒れよろしく、体勢を崩し掛けたところを支えてく
れたのが、来須だったのだ。
 彼は、全てを知っているのかもしれない。知らないのかもしれない。
 どういう基準で…誰の作意で集められたものか。誰も彼もが「秘密」を隠し持っている、
あの集団。
 その中で、自分は大切なものを得…そして、失いつつある。
 家まであと少し。支えられている訳ではないけれど、付かず離れず隣を歩く存在に心が
軽くなったような気がする。
「魔法、無いのかね?」
 気付けば、小さく呟いていた。
 瀬戸口の瞳は、未だ真紅に染まったままだ。
 それこそが「鬼」の証。
 「あしきゆめ」である自分は…たとえ神々の列に名を連ねようとも、その根本的な存在
自体が変わることは無い。
 なのに…願うことは「鬼」のそれではなく。
「皆が幸せになれる魔法」
 誰ひとり、死ぬことなく。苦しむことなく。何者にも脅かされることもなく。
 純粋な笑顔で未来に思いを馳せる彼らを、見守ることが出来たら……。
「喋るな」
 延々と続く瀬戸口の喋りを、来須は無常に遮る。
 ぱちりと目を瞬かせ、反射的に口を閉じて…そっと伺うように斜に見上げれば。
「……無駄に体力を消費するだけだ」
 それだけでは言葉が足りないと気付き、続く言葉を口にするようになったのは、教育の
賜物だろうか。
 瀬戸口は小さく笑った。脇腹が引き攣れるような感覚が痛みとなって沸き起こり、思わ
ず顔を顰める。
 目敏く気付いた来須が「大丈夫か」と珍しく聞いてくるものだから、思わず今日の天気
を心配して空を見上げてしまう。
 天は薄らと青みを帯び、眩い陽の光がゆっくりと世界を浸食しつつあった。
「…大丈夫。俺は…倒れないよ?」
 どんなに辛くても、沸き起こるばかりの嫌悪感に「心」が悲鳴を上げても。
 何の為に、戦っているのか。
 その理由は、自分の胸の内にある。
 愛しい幼子の為に。そして…知らず哀しい道を選ぼうとしている、彼の為に。
 それだけで十分だった。再び己が士魂号に乗り込む理由は。
 忘却の彼方へ葬り去ったと思っていた感覚は、けれどすぐに腕に馴染んだ。片時も離れ
てなかったように。
 剣を握り敵を屠る感覚も、攻撃を躱す術も。
 考えるより先に、反射的に身体が動く。
 ……思えば、忘れる訳など無いのだ。
 幾ら願っても、犯した罪が清算されることは無いのだから。
 「絢爛舞踏」なんて大層な名前で呼ばれる存在はヒトではなく、化け物に過ぎない。
 元より「鬼」である自分に死は訪れない。使い物にならなくなった「器」を捨て、別の綺
麗な「器」に滑り込む。永遠にその繰り返しだ。
 新たな「生」を織り成すように見えるそれは、けれど何が変わるわけでもなく。
 ただ、ひたすらに待ち望む。その祈りが強くなるばかりで。
 ……いつになったら、再び貴女に逢えるのだろう。
 何故…出会えないのだろう。シオネ=アラダ。
 貴女の居ないこの無機質な世界に、いつまで捕らわれていれば……。
 ようやく辿り付いた家の前、不意に来須の手が動き、目元を覆われる。ひんやりとした
掌が作り出す闇に、一瞬思考が止まった。
 次いで唇を掠めた柔らかい感触は、それこそ幻かと思うほど微かなもので。
「……ゆっくり休め」
 髪を掻き上げ、再び押し当てられたぬくもりは、けれどすぐに離れた。
 ……夜が、明ける。
 容赦なく世界を照らし出す、眩いばかりの光に目を凝らせば……既に来須は歩き出して
いた。
 声を掛けるべきか…でも、引き止めてどうするつもりだ、とか悩んでいるうちに、彼は
振り返ることも無く、先の角を曲がって行った。
 頭に手を遣り、瀬戸口は微苦笑を零す。身体は鈍い痛みを訴えるけれど、目を瞑って遣
り過ごした。
 厚みのある大きな手。……戦う者の手だ。
 何てことは無い、ただそれだけのことなのに…暖かな思いが湧き上がってくる。
 朝日が満ちる部屋の中、瀬戸口はひとりベッドに潜り込んでもなお、いつまでも髪を梳
く指先の感触を思い出していた。




'01.03.22.脱稿
初めて書いたガンパレ話……。


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