「花火」


「あいよ、出来上がり」
 きつく締めた帯を確かめるように軽く叩かれ、興味深そうな紫色の瞳が探るように覗き
込んでくる。
 僅かに笑みを孕んだその瞳は、決して厭わしいものではなかったが。
「思った通り。似合うな、お前」
 目の前にある大きな立ち鏡に映る自身の姿に、来須は少しだけ違和感を覚えた。
 黄金色の髪に青い瞳。西洋の特徴を顕著に表す容姿で浴衣が似合うというのなら、それ
はひとえに見立てが良かったのだろう。
 いつも肌身離さず持っている帽子がない所為か、何とも心許無い。だが、苔色の深く枯
れた緑の浴衣は目に優しく、さらりとした感触が心地良かった。
「……手慣れたものだな、」
「まぁ…これくらいは、な」
 人数多いからちょっと疲れたけど、と苦笑する瀬戸口を労い…無防備な頬に手を伸ばし、
その唇を掠め取る。
 軽く触れ…すぐに離れた一瞬の出来事に、彼はますます苦笑を深めた。
「慰安してくれてるつもり…だったりするのか?」
「足りないか?」
「…あのな……」
 結局は口を噤んでしまう人を抱き寄せても抗わない。ふわりと香る彼の匂いに誘われる
まま肩口に顔を埋めれば、咎めるように髪を引かれた。
「その気になるから、勘弁してくれ」
 後でな、と器用に片目を瞑り…囲い込んだ腕を擦り抜けていく。
 細々としたものを片付けていく彼の背をしばらく眺め…それからふと、窓の外に視線を
流せば、辺りはもうすっかり暗くなっていた。出掛けるには丁度良い時分だ。
 瀬戸口の用意が済むのを見計らい、来須は机の上に放置されている団扇を手渡した。
「んじゃ、行くとしますか」
 連れ立って会議室を出、二人は集合場所の校門前へと向かった。



 未だ暑い日が続いているとはいえ、秋の気配がちらつき始めている。
 夏の盛りを過ぎ、自然休戦期ももうすぐ終わろうとしていた。
 そんな中、まるで夏を惜しむように、地域の自治会が主体となって開催される夏祭り。
それに皆で揃って浴衣を着て行こう…という話は、一体どこから出てきたのか。
 学生価格ということで提示された良心的な値段を更に加藤が値切り、人数分の浴衣と帯、
その他細々とした腰紐や簪を必要経費として計上したというのだから、その手腕には恐れ
入る。
 それはまだしも、着付けはどうするんだ…と思っていたのだが、意外にも買って出たの
は瀬戸口だった。
 どうやら女子の着付けを請け負いたかったらしいのだが、壬生屋と石津が出来るという
ことで、彼の野望は海の藻屑と消えたらしい。
 打って変わって「野郎の着付けなんぞ、面白くもねぇ」とぼやいていた瀬戸口だったが、
手加減無しに帯をきつく締め付けることで鬱憤を晴らしたのか、ようやく順番が回ってき
た時にはいやに上機嫌だった。
 校門では、既に着替えの済んだ者達が手持ち花火に興じたり、談笑したりしている。
 着慣れない浴衣と、履き慣れない下駄。私服姿を見たことは何度かあるが、浴衣はまた
それとは違う趣がある。誰も彼もが嬉しそうだ。
 善行が点呼を取り…ようやく全員が揃ったことを確認して、まずはお参りがてら神社に
行こうということになった。
 ぞろぞろと、浴衣の集団が下駄を鳴らしていく。否が応でも他人の目を引いたが、それ
さえも誇らしく…だけど照れくさい、というようなことを、己の両脇に張り付いた新井木
と滝川は言っていた。
 いつもは心寂しい街灯しかない道も、今日ばかりは柔らかい色を灯した堤燈に彩られて
いる。まるで花道のように、道の両側に並ぶ屋台が賑やかだ。
 威勢の良い客寄せの声。どこからか流れてくるお囃子と、ざわめき。その先のなだらか
な坂を登りきったところに、目指す神社がある。
 思っていたより、結構な人手だ。浴衣姿の者もちらほら見掛ける。
 境内の中まで所狭しと屋台が並び、真昼のように晧々と照る明かりとヒトの熱気が宙に
立ち昇っていくようだった。
「あっれー?グッチ居ないよー?」
 最初に気付いたのは新井木で、良く通る声は皆の足を止めさせるのに十分だった。
 もっとも…略されたその呼び方が瀬戸口を指しているのだと気付くまでに、随分と時間
を要したのだが。
「愛の伝導師だから、商売繁盛なんじゃないのかなぁ?」
 ぽややんとした笑顔で、既にイカ焼きを頬張っている速水は、噛み切れずに悪戦苦闘し
ている舞を見遣り、幸せそうに微笑んでいる。
 来須はちらりと善行を見遣った。多分、予測の範疇内だったのだろう、タイミング良く
目が合った引率係は、ほんの少し肩を竦めて苦笑する。
「……俺が、探してこよう」
 途端に両脇から不満げな声が上がった。
「ええーっ、先輩が行くことないじゃないですかーっ!」
「一緒に射的やるって、約束したじゃないですかーっ!」
 右に新井木、左に滝川。
 戯れ掛かるように腕に絡み付いてくるのを、面倒だったので好きにさせていたのだが…
離れるには良い機会だ。
「じゃあ…来須くん。済みませんが、迷子の保護をお願い出来ますか」
 善行のそれは、まさしく鶴の一声といえるだろう。
 ほっとした思いを顔に出すことなく、頷いて腕を解く。まだ不服そうな顔をしながらも、
ようやく離れた二人の前に、若宮がわたあめを差し出すのが視界の端に映った。
 簡単に落ち合う場所だけ決め、来須はひとり離れると、登りきった坂をゆっくりと戻り
始めた。
 先刻より人手は増えているようで、その流れに逆らうように来須は視線を彷徨わせる。
 もっと手間取るかと思ったが、瀬戸口は割合すぐに見付かった。坂下の屋台で、どうや
らひとりで先に一杯やっていたらしい。
 その隣に腰を降ろそうと暖簾を潜れば「いらっしゃい」という威勢の良いオヤジの声が
迎えてくれる。
 ちらりと見上げてくる紫の瞳が驚きにひとつ瞬かれ…僅かに苦笑を刻む。
 やがて出てきた…なみなみと発泡酒の注がれた紙コップを触れ合わせる。勿論、硝子の
ような涼やかな音は望むべくもなかったが。
 せっせと焼き鳥を焼いている店主の後ろから、コブシのきいた極めて正統派な演歌が流
れてくる。時折、思い出したかのように口ずさむオヤジの音程は、なかなかに強烈だ。
「……俺は、ここでしばらく時間潰して帰るから」
 瀬戸口の言葉にゆっくりと視線を上げる。非難するつもりは毛頭ないが、理由が解らな
い。
 すると、彼は苦笑交じりに微笑んで、
「思ったよりも、ここらの気が強くなってるんだ。これ以上、坂を上がると…多分、俺が
持たない」
 つくねを齧りながら、どこか楽しげに…淡々とした口調で言う。
「……そうか」
 笑みを湛えた表情でこちらを見つめる瀬戸口から視線を外し、来須は再び紙コップに口
をつけた。僅かな苦味が喉を駆け下りていく。
 普段は省みられてない神社であっても、今日のような日は参拝客が多いのだろう。そう、
たとえば…自分たちのように。
 その人々の祈りが、瀬戸口にとっては痛みに繋がる…ということなのか──。
 彼はヒトではなく、元は幻獣側に属するものであったと聞いている。真紅に色を変える
瞳が、何よりの証拠だと。
「だから、お前は戻っていいぜ?」
 今は紫の、穏やかな瞳。存分にそれを見つめ返して、彼の髪に手を伸ばす。
 くしゃりと掻き混ぜる柔らかな感触が、指の合間を擦り抜けていく。
「…お前を労う方が、大事だ」
 すると瀬戸口は驚いた様子も無く、ただ静かに…印象的なまでに、笑みを深めただけだ
った。
 絶え間なく流れるお囃子。演歌。人のざわめき。
 溢れ返る喧騒の中で、でもこんなにも静かで…心地良い時間が得られている。
 不意に背後で低く大きな音が響いた。次いで上がる歓声。
「…あ、花火。始まったみたいだな」
 発泡酒を飲み干し、コップを空けた瀬戸口に促されるまま立ち上がる。会計を済ませ、
屋台を後にする間にも、次々と打ち上げられる花火の音が、夜の大気を震わせていた。
 手を引かれ、どこに行くのだろう…と思えば、瀬戸口は足取りも軽く近くの公園へと入
っていく。
 公園の中は既に出来上がっている酔っ払いやカップルで賑わっていた。瀬戸口の足取り
に迷いは無く、更に奥の暗がりへと分け入っていく。
 公園の片隅の、大きな木に凭れるようにしてようやく振り返った彼は、悪戯っぽく軽く
首を傾ぐようにして、
「…労ってくれるんだろ?」
「……ここで、か?」
 問うても明確な応えは返らず…ただ静かに見返せば、瀬戸口は更に笑みを深める。
 その間にも、花火は続々と打ち上げられていた。
 黒く塗り潰された空に、一瞬だけ咲く光の華。
 惹き付けられるそれは目を瞠るほど綺麗だったが、大気を震わす音は砲弾を思わせるし、
儚く散り…大気に紛れてしまう火の華は、切なさを掻き立てずにはいられない。
 近付いてきている。もうそこまで、次の季節が迫っている。
 辺りに視線を巡らせれば、そんなことは気にするな、と言わんばかりにくすくすと微笑
み…引き込むように腕を回してくる。
 幹に背を押し付け…唇を奪っても、けれど瀬戸口は性急な行為を咎めもしない。
 むしろ嬉しそうに淡く微笑む、その表情が切ないほど来須を駆り立てた。
 酒に潤んだ吐息が、触れ合う肌が熱い。戦ぐ風もない蒸した夜の空気がねっとりと二人
を包み込む。

 ────秋になれば。
 再び戦いに身を投じる日々が来るのだろう。
 一瞬後の約束さえままならない、そんな日々が。


 また、ひとつ。
 ドン…と、遠くで花火が上がった。




'01.09.09.脱稿
何が書きたかったんでしょう…?(聞くなよ)要リハビリ。


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