「喰気」 くちづけは、好きではない。 目を閉じさせるたびに、君はそれを言うけれど。 こめかみに、目尻に、額に、頬に、くちびるだけでゆっくりと触れていく。くちびるは、 少し荒れていた。舌先で湿らせていたら、笑われて、それでいいと言われた。 暖かそうな彼の体は、いつもそれほど体温が高くない。その膚を撫でていくのが気持ち いい。くちづけの後を追って、掌で耳の付け根から頬にかけてを包み込む。 春の日に乾した蒲団の上で丸くなって眠りかけているような、本当にそのまま眠ってし まいそうな、ひなたの猫の目が見あげる。 降り注ぐ、無数のくちづけ。見上げれば、見下ろす目。そんなものを、彼は欲しがる。 先が欲しくなって、かすかな笑みを刷いた口を塞いだ。柔らかく口を押しつけると、嬉 しそうに押し返される。合わせたままの目が、きゅっと細まった。笑っている。 ゆっくりなめて、舌先でこじあける。眉を寄せ、彼はその舌を呑みこんだ。 わずかの間に、いろいろなことを覚えた。 抱き締められるのが好きだとか、愛の伝道師の自称のわりに、他愛もないようなくすぐ りあいの方が好きだとか、深く重ね合わせるキスからは逃げたがることとか。 普段は自分以上に老成して、年に似合わない諦観を見せる彼が、口を押し当てるその時 だけ頑是無いほど幼く見えることとか。 舌の付け根の裏から、上唇と歯茎の隙間まで、舌先で小骨を探るように舐めまわす。し んどそうに眉を寄せたまま、彼はそれでもおとなしくしている。応えない舌を不満に思い ながらも、胸の内でゆっくり数を数える。 普段なら25。機嫌の良い時は43。寂しい時は72。 肩に手をかけ、そのまま押し返された。31。標準だ。 「…仕事、戻るし」 「ごくろうさま」 利き手で口元を押さえ、もう片手で半分白紙の作業報告書をつかみ、彼は部屋を出て行 く。女がわりにするには広すぎる肩を、プレハブ脇の大樹の枝が撫でる。 「…つれないことで」 呟いて、まんざら冗談だけでもなさそうな自分の声に、善行は思わず笑った。 でもまあ、まるで自分の価値にうぬぼれそうになる、あんな顔が見れるのならば、そう 悪くない。構ってくれと言わんばかりの掠めるキスに、本当にキスだけで済ます程度に相 手をしてやるなんてこと、自分にはあまり似合わないけど。 もっといいところは、いくらでもあるだろうに。 キスするたびに、君は笑うけれど。 意地悪だったり、疲れていたり、他のことに気を取られていたり、一筋縄では行かない ような表情ばかり浮かべる顔が、その瞬間だけ柔らかく笑う。 それが見たいから、キスの瞬間には目を閉じない。 薄暗い部屋の蛍光灯の下で、難しい顔でペンを弄んでいた。いまさらに決裁をためらう 何を抱えるのか、からかうつもりで用事のない部屋に踏み込んだ。上げた笑顔が疲れてい て、目がまるで笑っていなかった。 多忙を問うたら、否と言われた。真に受けたわけではないが、是が返るときは、口をき く間もないときだけだったから、気を利かせて退散することもやめた。 言うつもりの軽口が霧散して、黙ったまま彼の手元を眺めていた。座れとも去れとも言 わないあたりが、きっと今の彼の限界なのだ。さりげなく隠された手元の薄い紙に踊るの は転戦の2文字で、なんだか自分までどっと疲れる。考えてもどちらがよりましか程度の 答えしか出ない難問は、なるほどくたびれる。それが彼の仕事と言えば、それまでだが。 それでもお互いのどうでもいい話を少しして、引き上げ際を見計らい出した頃、彼がま たどうでもいいようなことを呟いた。聞き流しかけて、語尾の気配に気付いた。 散らかった書類の上に手をついて、見上げる口からキスを掠め盗る。脈絡のない行動に、 怒ろうか笑おうか迷う気配に、笑ってとどめをさした。 ついた手に彼の手が重なった。引かれるまま、倒れ込まないようにだけ気をつけてキス を預ける。自分と変わらない体格で、その上座業ばかりのくせに、支え損ねられたことは まだない。鍛え方が違うと、いつだかげんなり笑っていたが。 好きだと言えばちゃんと覚えていて、その通りにキスをくれる。本当はキスよりもう少 し先のことをしたいのを、知っている。触れる手はあからさまに自分を甘やかしていて、 大事なものにしてくれるように丁寧だ。 こすりつけるひげの感触は、見なくても誰といるのかしっかり分かる。それでも邪魔な 眼鏡ごしに、和らぐ目をもう少し見たい。 自分を見る目の色がだんだん変わる。笑いそうなその色がおかしくて、自分も笑った。 深く息を吐くのもいいが、こうして直接笑いを交換しあうのも、いい。 そんなことを思っていたら、うまく逃れたつもりのくちづけに捕まった。 頭の後ろの方で、愛哈と咀嚼の区別もつかなくなった自分が、触れる口を貪り啜り噛み 砕く姿が閃く。深く触れられるのは好きなのに、怖い。我慢していると、頭が痛くなって くる。 それでも出来る限りは辛抱して、また今度も逃げた。 どう思われているかは分からないが、苦手なことだけは知っている彼は、簡単に身を離 す。 「…仕事、戻るし」 「ごくろうさま」 ついでにと渡される書類を持って、部屋を出た。 「ちっとはひきとめろ、野暮天」 聞こえないところで呟いた声がなんだかあまりにも拗ねていて、瀬戸口は不覚にも笑っ た。 せっかくため息の頭を飲み込んでやったんだから。それはたしかに、こぼす音の重さを 聞かせるくらいなら、いっそ飲みこんでやろうなんて思うのは、自分の思いあがり以外の なにものでもないのだけど。 |
「裏生徒会室」様の「36000」のキリバンを踏むことが出来まして♪
「善瀬戸でキス」をリクエストさせて頂きました〜!
今思えば、ヌルいリクだったわ…とか思いつつ(爆)
ぱぱ様、素敵な作品を有難うございましたー!!
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