「Raindrop」 夕方から降り出した雨は、夜半になっても止む事はなく…今も降り続いている。 送って行きましょうか、という、有難くもなければ嬉しくもない申し出を丁重に断って、 瀬戸口は砦を後にした。 細く…蕭やかに降る雨が瀬戸口を濡らす。 当然、傘など持っている筈もない。家に帰り付く頃にはずぶ濡れになってるだろうし… これが元で体調を崩すかもしれない。 だが、構うことはなかった。 世界を灰色に塗り潰す、ノイズにも聞こえる柔らかい音が…その冷たさが、今の瀬戸口 には心地良い。 熱を孕んだ気怠い身体が、癒されるような気がする。これならば…士魂号を染め上げた 返り血も大地を染めた鮮血も、綺麗に洗い流してくれるだろう。 被弾することもなく…傷ひとつ負うことなく生還した瀬戸口を迎え入れてくれる世界は、 未だ安らかな眠りについている。 見上げれば、闇は薄れてきたものの…重たい雲が広がるばかりで、明るい陽の光が世を 照らし出す気配は、未だ無い。 今日は一日こんな天気なのだろうか。間借りしているプレハブ校舎は、そりゃあ杜撰な 突貫工事の代物だから、また雨漏りが酷くて授業どころではなくなるだろう。 でも…雨は、嫌いじゃない。 むしろ好きだと、降りしきる雨の洗礼を受けながら、そう思う。 浄化されるような気がするから。何もかも…過去も未来も、すべてを洗い流してくれる ような、そんな錯覚を覚えるから。 吐き出す息が僅かに白い。瀬戸口は濡れて重くなった髪を鬱陶しげに掻き上げた。指先 を頬を、止め処なく冷たい感触が伝い落ちていく。 その目に映るものを…雨に滲んだ風景を。一瞬、瀬戸口は疑った。 視線を上げたその先に。どうして、その人は居るのだろう。 安物のビニール傘は、あまりに彼に不釣合いで。 けれど、まるでそこに立っているのが日課であるように。閉ざされた灰色の世界を背に、 来須は佇む。 そして…その手には、色違いの傘が、もう一本。 どうしたって苦笑を禁じえない。 ……全く、誰に頼まれて。 そう思って、沸き起こる激情のまま当り散らして…拒絶することは簡単だ。 だが、画策している誰かが思う通り、きっと今の自分には必要なのだ。「自分の帰りを 待っていてくれる人がいる」という事実が。 薄暗い景色の中で、彼が手にした黄色のビニール傘が一層鮮やかに映える。 「……損な役回りだな」 無言でそれを差し出す来須に同情を寄せれば…彼は動きを止め、それから僅かに口端を 引き上げた。 「目に見えるものだけが、真実ではない。…俺が何を言っても、お前が信じないのであれ ば、それは無駄な弁明に過ぎないのだろう」 低く紡がれる言葉に、瀬戸口は俯き…小さく息を吐く。 足元で雨が跳ねる。地を叩き…潤す水が、自分だけでなく、彼にも平等に降り掛かって いる。 降り止まぬ雨が自分を濡つように、穏やかな彼の声が胸に染み入るような気がした。 宙を泳ぎ、緩やかな放物線を描いて…上手い具合に手元に落ちる。 来須が無事にバスタオルを受け止めたことを確認してから、瀬戸口は踵を返した。 雨は降り続いている。ようやく辿り付いた家を前に、ついでだから上がっていくか?と 誘えば、彼は端的に頷き、自分の後に続いた。 何時から待っていたのか聞くつもりも無いが……傘を差していたとはいえ、体格の良い 来須に、ごく一般的なビニール傘では、役不足というものだろう。季節的に暖房を入れる ほど寒くはない筈なのだが、朝方の冷え込みと相俟って、身体は冷え切ってしまっている。 濡れて肌に張り付くシャツが気持ち悪い。でも…それも、もう暫くの辛抱だ。 乱雑に髪の水気を拭い、頭に乗せたタオルをそのままに、瀬戸口は珈琲を用意し始めた。 来須が紅茶党だということは知っているが、この家には擬似物のティーパックすら無い。 ましてや本物の茶葉など、滅多に手に入る訳も無く。 まぁ珈琲だって飲めるんだし、いい加減、この家の流儀にも慣れてきているだろう。 「……気を遣う必要は無い」 思いがけず間近で聞こえた声に、瀬戸口は心底驚いて振り返る。 何故、気付かなかったのだろう。そこには…手を伸ばさずとも触れることが出来るほど 近い距離に、来須が居る。 手にしていた割賦を取り上げられ、軽く腕を引かれる。 深呼吸ひとつ分の間の後で、瀬戸口はようやくいつもの表情を取り戻した。 「濡れるぞ?」 構わない、と来須は言い、 「それより、風呂に入った方が良い」 「…言われなくとも、」 そうするつもりだった。来須には珈琲を飲んでもらって…その間にシャワーを済ませて。 その後は…まぁ、帰るなり風呂に入るなり、好きにしてもらうつもりで。 とにかく眠りたかった。戦いを終えた後の、極限まで高ぶった神経ではそう簡単に休め ることなど無いと解っていても。 無言のまま、濡れて肌が透けて見えるシャツに来須の手が伸びてくる。ひとつ…ふたつ とボタンを弾いたところで、 「面倒だ。……脱げ」 は?と、訝しげに目を眇めれば。 「先に行っている」 すたすたと、迷いのない足取りで部屋を横切っていく来須に暫し呆然として…瀬戸口の 視線が宙を泳いだ。 呆れた、というか…まったく、何と物好きなことか。 溜息をひとつ吐いて、己のシャツに手を掛ける。そうしながら、のろのろと浴室に足を 向ければ、硝子戸を一枚隔てた向こうからは、既に水音が聞こえてきていた。 それこそ、勝手知ったる何とやら…だ。そう毒づきながらも、少しも悪い気はしなかっ た。 衣服を洗濯機に放り込んで、風呂場に続く扉を開ける。真白の湯煙が出迎えてくれる、 その向こうには…降りしきる湯の中に佇む男の姿が見えた。 帽子を外せば露わになる、蜜色の髪。澄んだ水色の瞳。 衒いも無く見詰めてくる真っ直ぐな視線に、苦笑を深める振りで目を逸らしてしまう。 まるで…それを許さないとでもいうように強引に腕を引かれ、背後のタイルに背を押し 付けられる。冷え切った身体よりも冷たく固い感触に身を竦め、思わず顔を顰めた。 その動きを甘んじて受け止めながらも、瀬戸口は揶揄い混じりの笑みを精一杯浮かべ… 濡れて艶を増した来須の髪に手を伸ばした。 「がっつくなよ、」 余裕があるようにも取れる柔らかい声の意図は、寡黙な男にも正確に伝わったらしい。 来須は腕の力を緩め、間近に捕らえた身体をゆったりと抱き直した。 降り注ぐ湯は温かく、抱き締められるぬくもりも心地良い。 視線が絡み合い…自然と重なる柔らかな感触にそっと目を伏せれば、唇を割って忍び込 んでくる舌が促すように歯列をなぞる。 こんなところでコトに及ぼうとするなんて、本当にまったく酔狂なことだ。 本気とも冗談とも付かない…そんな遣り取りは、そのまま自分達の関係のようだった。 いつだって、彼は…自分は、互い以外のものを見詰めている。そんなことは、とうに気 付いている。 それでも…こんな風に非生産的な行為を止めないのは。 厚みのある掌が肌を弄る。武骨なくせに器用に動く指先が、性感を煽り…高めていく。 雨より激しい水音の中、けれどそれに紛れることもなく、荒くなっていく息遣いや喘ぎ が気恥ずかしくて、瀬戸口は逃れるように身を捩った。 「…ぅあ…っ、」 前だけでなく、奥を探る指が、もう一本増やされる。 縋る指先に力が篭り、逞しい背に思い切り爪を立てれば、痛みに来須が眉根を寄せた。 それは、ほんの僅かな…取るに足らない表情の変化だったが、気付いた瀬戸口は満足げ に口端を吊り上げる。 実際、非常に不本意ながらも、受身の立場に立たされる自分ひとりが翻弄されるのは… かなり癪だ。 ……だからこそ。 自分の作為が彼の表情を変える。そんな当たり前のことが、妙に嬉しい。 スカウトとして戦場に立つ来須は、鍛え上げられた強靭な肉体を持っている。 護る為に。生き抜く為に。常に訓練を怠らない、彼の腕は確かだ。 その頼れる背中に爪痕を残すことは、一種の自己満足で。 ……こんな「証」など、すぐに消えて…跡形も無くなってしまうけれど。 灼熱の塊が秘口に押し当てられる。身体を押し開かれ…暴かれていく感覚は、そう簡単 に慣れるものでもなく、自然と身体が竦んでしまう。 「…っ、あ…はぁ…ッん……」 ようやくすべてを身の内に収め、快楽とも痛みともつかない感覚が全身を満たす。乱れ がちの呼吸を必死に整えて…零れるのは紛れも無い、安堵の吐息だ。 「……動くぞ」 頷くより先に、大きく身体を揺さぶられる。 瀬戸口は目を眇め、唇をきつく引き結んだまま、耐え切れずに大きく背を仰け反らせた。 与えられる快楽を逃がす術が見付からない。すべてを受け止めさせられる。 頭上から降り注ぐ雨は温かく、苦しくて、苦しくて…息が詰まる。 泣いているのではないかと、自分でも錯覚を覚えてしまうほど。 「…っぁ…っ、来…須…っ、」 必死に縋り付く。掠れた声が名前を呼ぶ。……すべて、無意識のうちのことだ。 性急な求めに、けれど堪え切れず甘い嬌声が上がるまで、然程時間は掛からなかった。 滴り落ちる止め処ない雫が、緩やかに器を滑り…床に落ちていく。 そうして…促されるまま、瀬戸口は深い愉悦を味わい尽くした。 嬌声が長く尾を引き、張り詰めた肢体から一気に力が抜け落ちる。 がくりと身を崩す瀬戸口を支え、来須は僅かに乱れた呼気を打ち払うように、小さく息 を吐いた。 白い肌だった。軽く吸い上げただけで簡単に朱が刻まれる滑らかな身体は、感じやすく …確かに同姓のものであるのに「綺麗」という言葉が一番相応しい気がした。 熱に浮かされるように喘ぐ姿は、いっそ憐れみを誘うほど…艶やかで、淫らで。 快楽を引き出せば、柔らかく吐息が震える。 彼に苦痛だけを強いているのではないのだと、そう思わせてくれる。 数え切れぬほど、たくさんのものをその身に背負い…夜を狩る。その辛い「現実」に、 彼を引き止めることが出来ているのだ…と。 どんなに身体を弄り…あえかな声を上げさせても。「器」を乱すばかりでは、何の意味 も為さない。 瀬戸口自身を…彼の魂を揺さ振ることが出来たら。 濡れて色を濃くした褐色の髪を払い、湯か涙か…どちらのものとも付かない、潤んだ瞳 に口付ける。 その瞳は、晴れ渡った空の青さと、血を思わせる鮮やかな紅が不思議なほど綺麗に溶け 合った、魅惑的な紫だった。 |
'01.04.09.脱稿
「雨だれ」と「胡麻だれ」って似てるよなぁ…。<タイトル(爆)
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