■ 宝物 ■  
 

陶芸家の河井寛次郎の言葉に
『もの買って来る 自分買って来る』
というのがある。
河井寛次郎による解釈文もあり、
「若しか自分以外のものを買って来た人があったなら、自分は其の人を見たい。人はいふであらう。嫌だったけれど仕方がなかったから買ったのだ。こんなものは自分のものでも何でもないのだと。然し其の人は仕方がないといふ自分以外の何を買って来たのであらう。」
とある。
久々に読んでみて、なるほどと思った。

これで思い出すのは、群馬に引っ越す直前に実家の自分の部屋を片づけに行ったときのことだ。7年ほど前に実家を出てそのままになっていた自分の部屋には、どうしてこんなものを買ったのだろうというつまらないものがけっこうあった。親元で暮らしていたので自由に使えるお金はあったし、二十歳前後の若い頃特有の満たされなさをおぎなうために買ってしまったものもあるだろう。それらは、それを買ったときの自分そのものだと思った。

一人暮らしをはじめてから、ものを買うことに使えるお金も少なくなり、買って来たものを置いておく部屋も狭くなった。買って来たものはおのずと目に付いてしまう。それらを見て不愉快な思いをするのは嫌なので、ものを買うのに吟味するようになった。
少なくなった財布の中身と狭くなったスペースをかんがみ、ものを買うときの気合いが変わってきた。それは値段が安いか高いかではない。見た目がよいかどうかだけでもなさそうだ。
買おうと思っているものが存在する生活に想いをめぐらせる・・。
買おうと思っているものと共に過ごすことを想う・・。
そして、それらを作った人の心意気を感じてしまうものに出会ったとき、私は買う。
責任を持って愛せるもの、大袈裟なようだが、自分にとっての「宝物」になるものを買いたいものだ。
愛しいそれらのものは黙っているけれども、静かに何かを発しているようだ。語りかけてくるようだ。
それらと共に過ごす生活は、シンプルでうきうきして気持がいい。ものを作った人の心意気が、私に力を与えているのかもしれない。

私はいま絵を描いている。できあがった作品には値段を付けて売ることになる。
画面に向かって描くときに、ひとつひとつ、これが誰かの「宝物」になりますように、と思っている。それは、売れるといいなというよりも、値段を付けて売るのであれば、誰かの「宝物」になれるような作品でないといけないと思うからだ。
黙っているけれども、静かに何かを発しているような語りかけてくるような作品であるといいな。

●『いのちの窓』河井寛次郎・著(東峰書房)

 
【2002/09/30】