
クラブ・テニスに対する本音の日記です。
こっちは時々書きます。
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01/03/17 (土)
■卒業が近づき寂しさが募る毎日。
彦根という良き街と離れること、大学の仲間と別れること、そしてスーパーカブと別れること…
色々あるけど一番寂しいのはやはりクラブとの別れ。
実家に帰る電車の中でふとクラブ生活を考えてみる。
入部してから私が接触を持った先輩・後輩は直接在学がかぶった人だけでも実に50人以上。
そしてその多くの人達と同じ目的に向かい、同じ時間を共有できた。
性格も考え方も違う発展途上の男たちが競合いながらも目指す道。
特に同学年とはチームづくりについて真剣に語り合う事ができた。
…
「一所懸命がんばること=ちょっぴりはずかしい」そんな価値観が僕らの世代にはある。
でも本能は真剣に物事に取り組むことを求めている。僕にとってのクラブとはこの欲求を満たしてくれるものだった、今は率直にそう思う。
01/02/09 (金)
■「○○さんはこうやっていた」「○○さんはこう言っていた」
現役の頃、こんな言葉をよく聞いたし、よく使っていた。
先輩から見習うところは多い。しかし先輩が万能でないこともまた事実。
今思えば、この言葉は大抵が「逃げ」の言葉だった気がする。
都合の悪いこと、面倒くさいことを先輩の「悪い」見本を出して、それを理由に逃げてしまう。
自分ではそれが後ろ向きだと分かっていてもだ。
だから現役たちにはこう願う。
先輩の行動の間違いに気付いているなら絶対にそれを踏襲して欲しくない。
先輩は良き見本でも有るが、一方で反面教師でもあるからだ。
00/11/21 (火)
■今回のリーグで思ったことを再整理してみる…
メンバーに定着して以来、当たり前のようにアップして試合に臨んできたけど、忘れちゃならないのが審判をやってくれている人や、記録をとっていてくれる人がいること。当たり前のようだけど感謝の気持ちは忘れてはいけない。
そしてそういった人も次は自分達の番だと思って欲しい。「次の主役はオレだ」と。
以前の私には二つの「甘え」があった。
ひとつはリーグ応援中に「あんまり激しく応援すると疲れて試合に影響がでるかもしれない」なんて考える時があったこと。それを負けの理由に考えたこともあった。「ふざけたこと言うな!」とお叱りを受けそうだが、今だから言える事実。
もうひとつは人の試合の時に「評論家」になってしまうこと。本来ベンチでは極力私語を慎まなければならず、ましてや応援が途切れることはあってはならない。しかし気付けば「第三者」的な見方をしていることがあった。自分が監督であるなら話は別だが、ベンチが必死に応援していなければ、いくら口で「全員で勝つ」と言っていてもなんの説得力も無い。皆が評論家的な姿勢でプレーヤーを見ているとしたら、そこに信頼関係は存在しない。プレーが途切れればその後にすぐ声がでる。自然に出てくるべきなのであるが…。
そして、今回恥ずかしながら最後のリーグにして初めてこれらを「完全に」拭うことができた。
応援で自分の疲れなんて考えなかった。どうでもよかった。
人のプレーについて、誰かと「どうだこうだ」喋ることより、まず声出しに徹した。
その声出しも下級生に強制せず、出来る限り自分で出した。
自分がしなきゃと思った。応援なんて強制されてるうちは応援じゃない。
そして思った。「甘え」がなければ気持ちが強くなると。
自分はプレースタイルが我流で、「雑草」そのものだけど練習してきた自信はある。
技術に差は無い。問われるのはメンタル面。
そして「甘え」が拭えた気持ちは試合に色濃く反映された。
これが4年間計7回における私のリーグに対する結論です。
ある程度の批判は覚悟のうえで書かせて頂きました。
そしてこれは終始入れ替えに回り続け、「苦悩した」回生ゆえの特殊な感想でもあります。
00/11/09 (木)
■極私的見解「リーダシップについて考える」
体育会に所属している者はいやがおうでもこの資質が求められる気がします。
上下関係がきちんとしている分、上回生が場を仕切るためです。
サークルだとこれがそんなに求められないでしょう。「絶対数」が多いため、仕切ることが好きじゃない人は都合にいいときだけ顔を出していればいいのです。裏方タイプの人は、裏方に「徹し切れる」ことができるわけです。(別に裏方でいることが悪いとは言ってないですよ)しかし、体育会−特に人数が少ない場合は、「伝統」との板挟みになる面も含めて居心地のいいポジションにおさまるだけではいけないのです。
「おれにはそんな資質がないから」
「無理やり入部させられ『流れ』でここまできちゃったから」
といった理由で自分の力を限定してしまうのはあまりに寂しくないでしょうか?
もちろん個人にはそれぞれの持ち味があり、ある程度の大所帯なら必ずそれを生かすポジションを得ることができるでしょう。しかし、わたしはこの逆境(?)を楽しむくらいの気持ちでいて欲しいと考えます。
「無理やり」とか愚痴るにしても、辞める勇気がなかった自分をもっと責めるべきでは?
回生が進むにつれ、体育会では少なからず「責任」が積み重なっているんです。自信が無いなら辞めていたほうが周囲に迷惑をかけることはなかったんですから。
で、リーダーシップをとることが苦手な人が「小人数で伝統ある体育会」でがんばっていくにはどうしたらいいのか?という話です。
先立つ「技量」に自信が無い人は、「誰にも負けない一面」を持ってください。
「礼節」、「練習姿勢」、「努力」、「行動力」etc.なんでもいいです。
要は周囲に「あの人のココはすごい」といった「影響力」を持った一面を自分の中に培うことです。大事なのはね。
…とまあ勝手な見解を展開したわけですが、「口で言うのは簡単」なんて言わないで下さいよ。その時点であなたの「成長」は止まってるのだから…。
00/10/24 (火)
■毎年必ずおこる問題として「練習が単調」という不満を持つ者が現れるということがある。
(今年はどうだか分からないが)
乱打→前衛練→後衛練→サーレ→応用サーレという大体の流れがあるわけだが、目標(滋和戦・リーグ・近国)まで日が開いているときは、どうしても練習に飽きる者が現れ、このような問題を指摘し出すのであるが…。
確かに練習メニュー自体が単調であることは事実だと思う。
また、地理的な問題からも練習試合の数が少なく、「刺激」が無いことも事実であろう。
創部以来、指導者無しで運営されてきた滋賀大であるが、恐らくこれまでの先輩方は日々の練習を「単調」ではなく「反復」と捉えてきたのではないかと思う。
つまり同じ練習を繰り返す事により、体に覚えさせるということである。
さらに、指導者がいないことをマイナスとするのではなく、自主的に問題解決を図る力を養う機会としてきたのではないだろうか。
結局は「自分で考える工夫」をしなければならないということである。
練習を変えていくということは容易ではなく、それが中途半端になるぐらいなら、プレーンな練習の中で、自分自身にいかに厳しくできるか(出来るだけ外圧的な力に強制されずに)を考えていくべきだと思う。
(もちろん幹部がモチベーションを高めることのできるメニューを組むことも、非常に重要だということは言うまでも無いが)
しかし、近年そういった問題解決能力を持った部員が著しく減少し、さらにはそういった部員に対して指導を行うべき上回生も自身の能力・理論に対し、いまいち自信を持ちきれていないという現状がある。きっとそれが近年の成績不振につながっているのであろう。強いクラブ復活への道はまだまだ険しいと言わざるを得ない。