Morton Family's Biography

モートン家伝記 (訳:はっぴぃえんど)

 

<写真>探検から戻ったリチャード・モートン、彼の所有する船の一隻の前にて。

著名なボストンの名家の歴史は、説明し難い出来事、驚愕、そしてトラブルに満ちた物語である。私の唯一の目的は、マサチューセッツで最も伝説的な繁栄の一つが持つ名声に傷を与えることだと言う者もいるだろう。自己弁護のために言わせていただくが、私は純粋に歴史家としての義務を果たそうとしているだけである。私の記述は、信頼できる情報源や、少なからぬ興味を示すに値する目撃者への尋問―――彼らは言い逃れをしているかもしれないが―――に基づいている。
もし私がある種の噂を繰り返すとすれば、それらもまた間違いなくモートン家の歴史を構成する一部なのだ。

<図>ヴェネズエラ・ペブラにおける天然資源開発の契約書;ヴェネズエラ政府代表とリチャード・モートンにより署名されている。

アメリカにおけるモートン家のルーツは、アメリカ合衆国建国に続く数十年間における民主化への激変の時代に遡る。一家の、19世紀初頭より古い歴史を再構築することはできないが、英国はサセックスのホワイト・チャペルという小さな町に一家の起源があるようだ。一家をアメリカへと導いたのは、リネン商人ロバート・モートンであった。1823年、彼はビーコン・ヒルの高台に始めて製紙工場を建設した。モートン製紙は目も眩む程の成功を収めた。しかし、真のモートン帝国を築いたのは、彼の兄、リチャード・モートンであった。彼は1889年3月23日、37歳のときにモートン石油会社を設立した。

<写真>"アイスマン"

モートン家の秘密の歴史は、1891年から93年に行われた彼の会社の調査探検において、氷漬けの人間を発見したことから始まった。影響力を持つ評判の名士であったリチャード・モートンは、常に出入りしていたボストンの有力な社交界を放棄して次第に世捨て人のようになり、最初に背筋の凍るような発見をした場所に戻るため、再三再四、勇敢な探検に同行した。

<写真>背景にいるのはデ・セルトである。

時に人的あるいは財政的な災難によって終わることもあった彼の派遣団を補助するために、ジュダス・デ・セルトという男を介して、スウェーデン人やノルウェー人の水兵あるいは傭兵を集った。デ・セルトは危険請負人であり、戦士であり、千里眼を持つ男でもあり、黒魔術の修得に興味を持っていた。彼は、リチャード・モートンに多大な影響を及ぼしたと思われる、疑わしい人物であった。

<写真>この恐ろしい事故の正確な原因は決して明らかにならなかった。

予想に反して、一家のビジネスは繁盛した。モートン石油会社は、ヴェネズエラ、インドネシア、北海におけるあらゆる販路で勝利した。とかくするうちに、競争者達は驚くべき不運の連続に襲われた。鍵となる交渉人達は事故に遭い、重役達は精神状態に問題をきたし、弁護士達は突如不利な和解に合意して埋没していった。あらゆる公的あるいは私的な捜査は、モートン・グループの犯罪を特定できなかった。一家の富の巨大さは周知となったが、どれくらい巨大なのか、知る者は誰もいなかった。

<写真>1900年頃のギブソン

1899年6月20日、サミュエル・ギブソンはリチャード・モートンの雇用下に入った。この優秀な学者は太古の言語を解読する技巧を持っていた。そのためモートンは、アイスマンの側で発見された石版に書かれた碑文の翻訳を彼に委任した。ギブソンの業績はリチャード・モートンをシャドウ・アイランドへと導いた。

<写真>シャドウ・アイランド、沖合からの景観

島の寒々とした荒れ地を見渡す砦はたっぷり20年ほどの間放棄されてきた。そこに配備された兵士達は幻覚を経験したり、突然、純粋な発狂の発作に襲われたりした。他の者達は単に痕跡無く蒸発した。砦の側に位置する教会は、人間の生贄が捧げられたに違いない、奇妙な儀式が行われた場所なのだと主張する、奇妙な伝説についても言及しておくべきであろう。巨大な名声を持つリチャード・モートンがシャドウ・アイランドの買い取りを申し出たとき、マサチューセッツ州に理由を尋ねる必要はなかった。

開始にあたって、リチャード・モートンは砦を彼の住まいにしたかったらしい。彼は、その考えを放棄するまでに、かなりの財産と超人的な努力をこの仕事に費やした。彼は代わりに、島の南側に奇妙な館を建設することにした。

彼がシャドウ・アイランドを購入し、そこに住むことを決めたのは、石版の彫刻が、島の最も深い地下通路で発見されたものにそっくりだったからである。

<図>ギブソンから婚約者に宛てた手紙、1902年10月14日の日付

彫刻の翻訳作業が進むに連れ、モートンとギブソンの関係は悪化していった。学者は彼の仕事のロマンティシズムを楽しんでいたが、一方でモートンは破壊的な情熱に心奪われているようであった。更に、ギブソンの発見が彼を恐れさせたようだった。彼は、本土に残った若い婚約者に宛てた長い手紙の中で、不安と恐怖を打ち明けた。これが彼の残した最後の言葉となった。後にギブソンの母は、この簡潔なメッセージを受け取った:「あなたの息子さんが蒸発しました。彼の遺体は発見されませんでした。お悔やみ申し上げます」手紙にはリチャード・モートンの署名があった。

<図>捜索令状

リチャード・モートンの不快な行動のピークは、ボストン貧民区域における若い女性の蒸発の波と一致していた。これは彼の生涯の中で最も不快なエピソードである。私が確信を持って言えることは、邪悪なデ・セルトに操られたモートン王朝の創立者は、疑いなく、三世紀前に行われていたように、正にあの教会で生贄を捧げ、無垢な魂を生贄にして黒魔術の儀式を実践していたということだ。それがどのような結果を生むのか、私にはわからない。最初の蒸発は、1903年10〜11月に始まった。それは、1905年4月13日にリチャード・モートンが亡くなるまで、春秋分のときには増加したものの、月に一度という恐るべき規則性を持って継続された。この日から奇妙なことに蒸発はなくなった。

<写真>幼少時のアーチボルド・モートン

1874年、アーチボルド・モートンは、リチャード・モートンとスーザン・シャルマーズの間の一人っ子として産まれた。スーザンは、没落した貴族にして麻薬中毒患者であるシャルマーズ卿の末娘だ。モートン石油会社のビジネス成功の一方で、アーチボルドは彼の若い時代を極圏の研究に捧げた。彼は父のように、多くの探検に同行した。
父と同じように、彼はシャドウ・アイランドとその奇妙な秘密に魅入られていった。

<写真>船につながれた若いポリネシアの男女

1905年の終わり頃から、多数の男女が根こそぎ出身地から島へ連れてこられたことが、次第に分かってきた!これに関して、アーチボルドは父より慎重だった。水兵の説明ばかりでなく、奴隷商人トーマス・プランケットの記した、デ・セルトの名が数回現れる告白文においても、これに関する証拠が見つかった。しかし、島内にはこれらの不幸な男女の痕跡は見つからなかった。

<写真>アーチボルド・モートンとジェニファー・プリチェット

1897年、アーチボルド・モートンは、一人目の妻ジェニファー・プリチェット、牧師の娘にして著名なオルガン奏者、と結婚した。彼女は信心深いキリスト教徒であったが、夫に対する嫌悪と絶望を物語る長い手紙を父に宛てた。しかし神父はその結婚の後に蒸発してしまった:届かなかった手紙は郵便保管所に置かれてあったものを、未開封の状態で私が発見した。

アーチボルドは彼女を異常に残酷に扱った。
いずれにしろ彼女は1899年に男子を出産した。

<写真>幼少時のジェレミー・モートン

ジェレミーは脆弱で華奢な体質であったが、若くして既に傑出した知性の兆候を示していた。彼もまたシャドウ・アイランドの秘密に取り憑かれたが、全体的なアプローチはより科学的であった。ジェレミー・モートンは発明家であった。忍耐し思い悩むことの決してない彼の広範で独創的な発明は非常に印象的である。彼は多くの会議に参加し、講演を行った。1922年、彼はアブカニス族の末裔の一人であるジョセフ・イーデンショウと不滅の友情を結んだ。そのネイティヴ・アメリカンは1924年にシャドウ・アイランドに住みついた。

<図>ノーベル商会からジェレミー・モートンに宛てられた請求書

ジェレミー・モートンはかなりの兵器を蓄えていたらしい。少なくとも三年以内に、大量のリン、マグネシウムとともに200ポンド以上の爆薬をボストンのノーベル商会に注文した。

<写真>ジェレミー・モートンとジョセフ・イーデンショウ

ジェレミー・モートンの生涯における最後の十年間は、最も秘密主義的で奇妙であった。若年および中年期において、その発明の才は学会の最高位に溶け込んでいた。しかし彼は晩年を島で隠遁者として費やした。この時期のいくつかの噂は血も凍るようなものである。例えば、1931年に生まれた彼の息子ハワードとルーシー・ドーガンの結婚に際し、彼が島内でレセプションを設けたときのことである。一家の親戚や遠縁のものも参加していた。パーティーは、館に隣接する広場において、恐ろしく切断されたゲストの一人が発見されるというドラマによって中断された。ルーシーの兄弟であるマイケル・ドーガンは、巨大な牙を備え、触手を持つ、恐ろしい蜥蜴様の生物を見たと主張した。

恐ろしく切断されたゲストの一人

モートン一家は、ジェレミーも例外なく、リチャードとその後継者達が発見した遺体にまつわる、危険で恐ろしい実験を企てていたに違いないと、私は確信している;その実験は自然の成り行きに干渉する―――死体の蘇生、交雑育種、遺伝子操作……

 

■2001.10.13■