2022年12月14日、今年の松田聖子の夏コンの映像作品が発売された。昨年の神田沙也加の悲劇からほぼ一年、彼女がこの世から消えた悲しみは無くなりはしないし、未だに納得できていないのだが、時間の経過とともに日常の心の痛みは薄らいできた。なによりも、表面的にではあるが母親の松田聖子が復活してきてくれたことに感謝している。この悲劇の傷が亡くなることは永久に無いだろうが、それでも自分の中で一区切りつけなければいけないと思いこの文章を書いている。思えば、昨年末は自分の母親と沙也加ちゃんが相次いで亡くなるというなんともいえない巡り合わせの年越しであった。そして年が明けて日々を過ごすうちに、一年をかけて心の中に陽射しが戻ってきた。その昨年の母と沙也加ちゃんの死から現在までの経過を振り返りながら心を整理していこうと思っている。
まずは、時を2021年にもどそう。2021年10月23日、松田聖子の武道館夏コンに無事参加できた。夏コン千秋楽の前日だった。2021年は、さいたまスーパーアリーナから夏コンに参加していたのだが、ステージの照明が輝いた瞬間、ドラムを演奏する松田聖子が輝くように登場して90年代の松田聖子の気力に満ち溢れた楽曲メドレーに続くオープニングの斬新さに息をのんだ。名古屋、大阪にも参加して、何度でも楽しめた。最後の武道館でもステージから元気をもらった。まだまだ松田聖子から新しい発見ができそう、そんな気分の夏コンの締めくくりだった。ちょうどコロナの感染者数が減ってきていたころで、武道館の日程に合わせて離れて住む家族とも一年ぶりに顔を合わせることができた。みな元気。7月に生まれたばかりの孫娘も3か月でしっかりしてきた様子で安心して帰路に就いた。ステージの記憶と共に、残してきた母親のことが頭によぎった。
その半年前の4月、自宅で介護していた母が畳の上で転んで骨折した。一か月の入院治療とその後のリハビリ専門病院での養生で多少回復したが、退院後の生活について長年お世話になっているケアマネージャーさんとも相談した結果、高齢でもあり認知症もずいぶん進行しているので自宅での生活は無理じゃないかとの判断となった。ありがたいことに、ケアマネージャーさんと病院が連携して手配していただいた介護施設に7月下旬から入居できることになった。入居に当たって、認知症の状態チェック受けた。「お名前は?」⇒〇〇△△名前は言えた。「何歳ですか?」⇒??これは難しい。「今日は何月何日ですか?」「今日は何曜日ですか?」そんなこと答えられるはずもなく首をかしげるばかり。「(一桁の足し算で)〇+〇はいくつですか?」これは分かったみたい。一応話は聞けて認識している。これでも元小学校教師だったのだ。そんなこんなでいろいろ質問を受けた診断結果は「そうとう進行していますね」だった。診断前から分かっていたことだったが。その後、入所に当たっての健康診断を受けて正式入所となった。
コロナ感染対策で介護施設全体が面会禁止となっていたので、施設の入口で洗濯物の受け渡しと共にスタッフに母の様子を口頭で確認する日々が夏の間続いていた。9月頃までは大きな変化はなく、おかげで名古屋・大阪での夏コン参加のため数日休息することができた。とはいえ、施設のスタッフが撮影してくれた母親の近影を見るたびに、7月、8月、9月と少しずつ弱ってきているのは実感できた。10月に入った頃から、自分では食事ができなくなってきていた。介護施設から呼び出され、主治医から母もだいぶん弱ってきているので終末ケアに移りたいとの話を受けた。余命は一か月から長くて三か月くらいじゃないかとの話であった。食事がとれなくなった後の対応、延命措置の要否などについて医師・施設側と合意を取り交わした。終末ケアの対象者には面会が許可されたので、毎日二回、朝と夕方に様子をみるために施設に顔を出した。意識は朦朧としていて眠っていることが多かったが、特に苦しそう表情もなく穏やかだった。そんな中で10月の武道館コンサートをどうするか躊躇したが、なんとか無事過ごしてくれることを念じ、介護施設にも数日間留守にすることを伝えて参加することにした。結果として願いが通じて無事にコンサートが終了して戻ることができたのはありがたかった。そしてまた朝夕の様子見の日々が始まった。
そんな落ち着かない日々であったが、11月3日のNHK-FMの松田聖子三昧は慈雨のような番組だった。スタッフ・ゲストが聖子愛にあふれていて気持ちが明るくなった。その日は夕方には行けないことを介護施設にも伝えておいた。申し訳ないが番組の間、母のことは忘れていた。松田聖子本人の登場のあたりからますます番組の中に入っていった。聖子ファンであったことで救われた一日だった。11月6日には妹が甥と孫(母にとってはひ孫)を連れて見舞いに来てくれた。その時は、母も孫やひ孫に手を振るくらいの元気がまだ残っていたが、しばらくして11月10日頃から血圧が下がりはじめ、最高血圧が100を切り始めた。主治医からは、もう長くは持たないだろうとの宣告を受けた。いつ容態が変わるかもしれないので、近くに住む母の妹に状況を伝えた。それでも一進一退の日々が続く。人は容易には死なないものだ。主治医の先生も、予想が外れてお騒がせしました、みたいなことで恐縮されていた。
11月16日、その日も母は小康状態で朝夕とも変わった様子はないことを確認して家で夜を過ごしていた。午後8時過ぎに電話がかかってきた。受話器を取ると介護施設のスタフから「お母さんの呼吸が少し乱れてきています。ご心配だと思いますので、もしよろしければ今から来られますか?」とのこと。自宅から10分ほどの距離なのですぐに車で向かった。施設のスタッフと少し話をして母のいる介護室に入った。静かに寝ているのだが、時折呼吸のリズムが乱れているのが分かった。主治医の先生は帰宅されているので、そのまま見守るしかなかった。直感で今夜までかなと思い、状況を妹に伝えておいた。「明日行った方がいいかな?」というので、その方が良いと伝えた。時折呼吸が止まる、また呼吸、その繰り返しで数時間が経過した。夜中12時半を過ぎた頃、少し大きめの呼吸の後で動きが止まった。呼吸が再開することはなかった。夜番の介護スタッフに伝え、看護師資格を持ったスタッフが心拍と瞳孔を確認してくれた。非公式ながら死亡通知を受けた。そのあと女性スタッフが遺体に死化粧をしてくれて朝を迎えた。主治医の先生にも夜のうちに連絡されていたので、先生が朝6時過ぎに来られた。先生の診断を受けて正式な死亡宣告が下された。母95歳。朝になると他の介護スタッフの方々も出勤されてきて、あいさつにこられた。死化粧をしてもらった母の顔を見て「まあ綺麗」と言葉をかけてくださった。
母の葬儀の当日朝、当地のしきたりにのっとって自宅前に近所の方向けの香典受付場所を設置し、母の遺影のかわりに若い頃の写真を置いておいた。母は若い頃に地元の小学校に10数年勤務していたので、ある年代の方には私の母が担任だったり、担任のクラス以外でも音楽の授業を担当していたから良く知っている人が多い。若い頃の写真を見て「あっ、先生だ!」と懐かしがってくれた。
母の葬儀、その後の法要など一通りのことが終わったら、一週間毎にお寺の住職にお経をあげてもらう決まりで、遠くにいる妹が毎週来てくれて仏事をやるとともに、二人でいろいろな話をした。「お母さん死んだけど、なんか悲しみの気持ちはそれほどないんだよね」と妹が言う。私も同感だったので「まあ、十分長生きしたし、世話もしてきたから、覚悟ができていたからね」なんて会話を交わしていた。年老いた親を見送るのはつらいことではない。一緒に過ごしてきた想い出に感謝するのみである。妹とは、一週間毎に世間話をしたり、松田聖子の映像を一緒に見たりして葬儀後の一ヵ月をおだやかに過ごしていた。12月20日に墓に納骨の段取りで、その後は静かに年の瀬を過ごす予定だった。
そうした母の葬儀にまつわる一連の行事が終わろうとしていた12月19日の朝に沙也加ちゃんの訃報に接したのだった。前日18日に沙也加ちゃんはこの世を去っていたのだ。何が起こったのか冗談かと思った。事実だと知ったときの衝撃に心が凍り付いた。客観的には他人事なのに、親しい親族を失ったかのような動揺を覚えた。その訃報を知った翌日20日の母の納骨は半分うわの空で執り行った気がする。こちらが母の納骨している間に松田聖子は現地に飛んでいたのだろうけれど、当時の報道ではまだはっきりしていなかった。ただ、なんという巡り合わせなのだろうと思った。
12月19日以降、しばらく音楽が聴けなかった。特に言葉を伴う歌物はまったく駄目だった。人生の悲しみを歌ったり、落ち込んでいる心を励ます歌はあるけれど、それらは沙也加ちゃんの死の衝撃には無力であった。きっと、歌で心が救われると感じられるほど冷静ならば、その心の痛みはそれほどではないのだろう。私の受けた衝撃はそこから外れていた。死者を弔うレクイエムも受け入れられなかった。あれは死を受け入れた後の音楽だ。まだ沙也加ちゃんの死を受け入れるまで気持ちが整理できていない当時の自分には他人事の音楽のように感じられた。とにかく静かに過ごしたかった。12月21日、骨壺と位牌を抱えた神田正輝、松田聖子の二人を目にした。抱えていた骨壺を包む淡いピンクの布、私には沙也加ちゃんを母の松田聖子が包んでいるように思えた。
音楽を聴く代わりに、活字や動画に残っている沙也加ちゃんと松田聖子の親子二人のふれあいを読んだり聴いたりしていた。本人たちの直接の言葉だけを追った。一般メディアに表れる第三者による勝手な憶測や真偽不明の関係者の証言などは無視した。それは、芸能マスコミが、松田聖子本人がかつて「どんなに誠意をもって話してもその通りに理解してくれない。だからもう(相手にするのは)やめた」と言ったように、そういう事実を捻じ曲げる報道姿勢である以上、本人たちのものでない氏名を公表しない第三者の発言の引用で構成した記事は本人でしか分からない真実から遠いものだからだ。沙也加ちゃんが若い頃から自分の背景ではなく神田沙也加という一人の存在で評価されたいと強く望み、そのために努力してきた彼女の意思を尊重することなく、親との関係でしか見ない報道姿勢は、まさに誠意を欠いたものだ。そんな記事を読んだところで沙也加ちゃんも松田聖子も救われないし、私自身にとっても得るものがない。二人のことは本人たちが直接書いたり話したりしていることだけで理解するしかないのだ。理解するといっても、そこには受け手の勝手な解釈が入ることは否め得ないが、それでも、得体のしれない言説よりまともだろう。
松田聖子と神田沙也加の二人が書いたり話したりしていたことに触れることで、松田聖子は沙也加ちゃんを深く愛し、沙也加ちゃんは母を尊敬しつつも愛すべき存在として認め、類まれな母娘としての関係を築いていることを改めて強く確信した。その中で、特筆すべきことが2つある。第1は、沙也加ちゃんが小さい頃から母親を応援し励ます姿勢を見せていたこと、そして、松田聖子も沙也加ちゃんに励まされるだけでなく、沙也加ちゃんが自分とは違う才能が持っていることを認め、素直に評価している。その二人の関係は大人になってからも変わらない。第2は、沙也加ちゃんが芸能界デビュー後、芸能界での悩みは家族に頼らず自分で解決していこうと心に決めていたことである。母である松田聖子が芸能界を一人で乗り越えてきたことへのリスペクトがあっての決意だが、今となってはプライベート面での悩みは一人で抱えなくても良かったのにとの思いが湧く。
そうやって静かに一週間ほど過ごした後、気分を紛らわそうと近くのミニシアターに出かけた。濱口竜介監督の「偶然と想像」をやっていた。映画は良く練られた脚本を俳優が坦々としたセリフ回しで静かに演じていた。その映画の中で時折BGM風に流れて来るシューマンのピアノ曲「森の情景」が固まっていた心を和らげてくれた。
2021年の年末は大雪で2022年の正月は雪かきに追われたが、心の憂さを和らげるには身体を動かすのが一番のようだ。その雪解けとともに、悲劇に凍り付いた心も少しずつ和らぎ、現実を受け止めることができるようになってきた。ただ、悲劇から約一ヶ月たっても沙也加ちゃんとまだ悲痛の中にいるであろう松田聖子…いや、やはり彼女のことも普段通り聖子ちゃんと呼ばせていただこう…のことが頭から離れずにいた。私が遠くからどうしようと沙也加ちゃんが戻ってくるわけでもないし、聖子ちゃんの心痛が和らぐわけでもない。それは分かっているけれども、聖子ちゃんのファンの一人として哀悼の意をささげ、年が改まった1月の陽光が少しでも聖子ちゃんはじめご家族の皆様の心痛を和らげてくれることを願っていた。自分自身も、冬の寒さの中で心に入って来るピアノ曲だけを聞いて過ごしていたが、少しずつ心がほぐれてきていたので、なおさら聖子ちゃんのことが気になっていた。
春に前年末にキャンセルしたディナーショーを東京と大阪で開催するとの話があった。これまでディナーショーには無縁だったが、今回ばかりは様子が気がかりで大阪に申し込んだ。そして、5月5日に参加したのだが、聖子ちゃんはそれなりに頑張っていたものの、参加した自分の心情がまだまだ安心して楽しめる状況になかった。それでも、彼女の気丈な姿を見て、これから日がたてば良くなっていくだろうとの思いを抱いて会場を後にした。
そして迎えた2022年6月11日夏コン初日、さいたまスーパーアリーナは人であふれていた。ちゃんと復活できるのだろうか、不安と期待の入り混じった気分で始まる前から落ち着かなかった。会場が暗くなり、レーザーが照射され、光と音楽で気持ちが高まっていく。音楽のスピードが加速して一気に幕開けとなった。ギリシャ神殿風のステージが眩く輝き、その中でギターを持った松田聖子が目に飛び込んできた。聴きなれたチェリー・ブラッサムが強烈な音で始まった。彼女のパフォーマンスを目にした瞬間に大丈夫だと感じた。気合の入っている様子がステージから伝わってきた。バンドメンバーの演奏も、張り詰めた緊張の中にいる彼女を鼓舞するかの如く、熱のこもった演奏を繰り広げている。ロック色の強い曲を最初に置いたのは素晴らしい判断だった。続けてStrawberry Land。松田聖子がドラムを叩きながらチェリー・ブラッサムを超えるハイテンションなパフォーマンスが続いていく。この開始2曲で私の心から開始前の不安は消えて、3曲目のI Want You So Bad は軽い気持ちで聴くことが出来た。このオープニング3曲で松田聖子の復活が確信できた。
80年代のヒット曲が一段落して、ダンサーたちが繋いでいるあいだ沙也加ちゃんへの想いをいつどう表現するのだろうかと考えていると、突然あの曲のイントロが始まった。そして黒いドレスの松田聖子が歌う沙也加ちゃんのever since。バスドラムが規則正しくリズムを刻み、佐々木さんが熱いギタープレイを繰り広げている。バンドメンバーのサポートを得て、娘を思う母としての松田聖子が力を振り絞っている。その姿には涙がこぼれた。絶唱とはこのことだ。
歌い終わってステージの前に進んで沙也加ちゃんへの想いを話してくれたMCについては、話さない訳にはいかなかっただろうし、ファンとしても聞いておきたかったことだ。とはいえ、娘を亡くした母親の慟哭でもあるので、正直受け止めるのはつらかった。発売されたコンサート映像でこのMCをカットしたのは賢明な措置だったと思う。
その後のアコースティック・コーナー以降、メドレー、アンコールに至るまで、聖子ちゃんに笑顔が戻ってきて楽しく過ごすことが出来た。アコースティック・コーナーの選曲も工夫があったし、アンコールの「素敵にOnce Again」は松田聖子自身がかつての気持ちを取り戻していきたいとの希望を歌っているように思えた。最後の「大切なあなた」はもちろんファンへの感謝のメッセージだ。大きな悲劇の後の復活コンサートをこれほど充実したものに出来るスター松田聖子にあらためて敬意と感謝を伝えたい。
結局、さいたまスーパーアリーナ、大阪城ホール、武道館と夏コンに参加したのだが、回を重ねるごとに聖子ちゃんの気持ちが安定してくるのが感じられた。聖子ちゃんが元気になるとこちらも明るく過ごせる。彼女のステージはファンへの陽光として降り注ぎ多くの人の心を温めてくれる。そして、ファンの存在が彼女への陽光となっていることを願うばかりである。2022年も夏コンの季節が終わり、秋から冬を迎えてまた新たな年が近づいてきている。聖子ちゃん本当にありがとう。一年間お疲れ様でした。
2022年12月17日