今年3月下旬に、松田聖子の40周年を記念する思いで「人間の一生 ~松田聖子40周年に向けて~」を書いた。そのころは、まだ40周年のイベントを期待している気持ちが残っていた。コロナ問題も夏には沈静化して通常のコンサートツアーも開催されるのではないかと楽観的に考えていた。それが、コロナ禍の長期化で思わぬ展開となり、世の中から音楽イベントが蒸発してしまうという未曽有の状況となったしまった。しかし、聖子ファンにとって、この半年は松田聖子への思いをより深くし、彼女のファンであることの幸福をより実感したのではないだろうか。
簡単に振り返ると、コロナ禍で日本中が混乱する中、3月30日にWBS(ワールドビジネスサテライト)のエンディングテーマに採用された新曲「La La!! 明日に向かって」を耳にし、4月1日デビュー40周年当日に「Sweet Memories ~甘い記憶~」の配信があった。朝早く配信に気づいて画面に見入り、松本隆さんのオリジナルの日本語歌詞を用いていることにさらに驚愕して、慌てて書籍「大村雅朗の軌跡」に記載されていたオリジナル歌詞原稿の写真を探してしまった。ペンギンのアニメのオマージュとともに、松本隆さん、大村雅朗さんへの想いを込めたこの歌と映像を見て涙したのは私だけではないだろう。
その後、松本隆さんが有志と立ち上げた「『瑠璃色の地球』chorus~ みんなで瑠璃色の地球を歌おう」プロジェクトが始まり、それを締めくくるかのように「瑠璃色の地球2020」が7月15日に配信された。これには松本隆さんも、“今の彼女の方が、本当に深い愛を歌いこなすのにふさわしいような気がします”とツイートされていたが、私もまったく同じ思いで聴いた。松田聖子の声のキーが下がって残念、みたいなコメントをする方がいるが、私自身もう松田聖子に少女の幻想を追い求める年齢ではない。年齢を重ねた成熟した歌唱を楽しみたいと思っている。少女の幻想は昔の映像を見れば良いのだ。そして、8月9日には、初のオンラインでのファンミーティング(トークショー)。オンラインはこちらも初めてだから、どうなるだろうと思いながら参加したのだけれど、画面越しに直接話をきくことが、逆に松田聖子を身近に感じられることに気づき楽しめた。しかも、だんだん興が乗ってきて、普段聴けないセルフカバーへの思いを真剣に話してくれたのが驚きであり貴重な時間であった。それと冷やし中華とたぬきそば。これは参加した人には分かっていただけるだろう(笑)。この一か月後、9月9日には「風に向かう一輪の花」先行配信、そして、9月22日にはNHKでの特別番組「松田聖子スペシャル 風に向かって歌い続けた40年」、9月27日に『関ジャム 完全燃SHOW』への出演、9月30日に待望の新アルバム「Seiko Matsuda 2020」のリリース、締めくくりは10月3日にオンラインライブ「40th Anniversary Seiko Matsuda 2020 Romantic Studio Live」と彼女に関わる一連の出来事に喜びと感動をもらい楽しく過ごしてきた。
新アルバムもじっくり取り組んだ成果が如実に表れた素晴らしい作品だが、この半年間の集大成としてのStudio Liveについて、印象が残っているうちに少しだけ書き留めておこう。内容についての具体的なことは、その扱いがまだはっきりしないので多くは書かないが、近年の松田聖子の中低音の音域の美しさが生かされ、それが高音域にスムーズにつながる素晴らしいパフォーマンスだったことは、いくら強調しても許されるだろう。選曲も良く考えられていて、80年代のヒット曲がアコースティック楽器のアレンジで心地よく流れ、その中に新曲が何の違和感もなくミックスされていた。定時配信後、見逃し配信を10回以上も繰り返し見ながら、その洗練された歌唱に歌手松田聖子の完成形を見る思いであった。そして、ファンに対するいつもの誠実な態度とともに、松田聖子を形作ってきた各作品に対しての誠実な取り組みに心打たれた。Liveの最後“心を込めて歌います、聴いてください”の言葉で始まった「あなたに逢いたくて」のイントロとともに、彼女の遠くを見る眼差しが映し出された。そこには並々ならぬ決意があった。一つ一つの言葉、フレーズを噛みしめるような気持ちを込めた歌唱がその決意を形にしていた。最後のフレーズを歌い終わるとともに、歌の余韻を聴き手と共有するかのような表情で空中を一瞬見つめたのち、静かに一礼して終了した。このLiveに込めた松田聖子の想いには感謝のほかない。涙とともに心から感動した。
このLiveを見たのち、この半年間楽しみを与えてくれた松田聖子について、デビュー以来かくも多くのファンに長く愛されてきたのはなぜだろう、なにが彼女の魅力なのだろうという単純なことをいまさらながら考えるようになった。考えたのは、見た目の可愛いさ、持ち歌が名曲、声の魅力、歌の演技力、コメディエンヌ的キャラクターといったアイドル歌手松田聖子的なことではない。一人の女性が40年も変わらずにファンとの関係を続ける、その人間的魅力について考えたのである。とはいっても、松田聖子個人のことなど実際には知らないし、周辺情報から仮に推測したところで、個人ごとにいろいろな捉え方があるわけだから、私ごときが一人考えたところで他人にとっては何ら意味をなさないようにも思えるのだが、以下は一ファンのたわごとということで読み流してもらえば結構です。
さて、松田聖子の人間的魅力を語るといっても、無粋な私にはまったく手に余るテーマなので、ここはひとつ助っ人に登場してもらうことにする。次はある人が描いた10代の娘Sに関する文章である。
「Sは由緒正しい家に生まれ、善良な天性をもっている。彼女はたいへん感じやすい心を持ち、時には想像力の活動をおさえかねることもある。彼女の精神は正確であるというよりも洞察力に富んでおり、気質はおだやかであるが、それでもむらがある。容姿は十人並みだが、好感を与え、顔立ちには深い心ばえが予感され、それにいつわりはない。人は無関心に彼女に近づけるが、彼女から離れてゆくのに無感動ではいられない。彼女に欠けているすぐれた性質をもつ女性はいるし、彼女が持っている性質をもっと豊かにそなえている女性もいる。しかし、誰一人として、彼女ほどいろいろな性質がうまく組み合わさって、好ましい性格を作り上げている女性はいない。
Sは最初ひと目見ただけでは、きれいとも言えないくらいなのだが、見ているうちにだんだんと美しくなってくる。彼女は眩惑しはしないけれども人の関心をよびさます。彼女は人を魅惑する。しかしそれがなぜなのか言えない。
Sは服飾を好んでいるし、よく知っている。彼女の服装には、いつも簡素さと優雅さとが兼ね備わっているのが見られる。彼女は自分に似合うものを好んでいる。どんな色が流行色だかは知らないが、自分を引き立たせる色は驚くほどよく知っている。その服装のどれ一つとしていいかげんに選ばれたものはない。それでいてどこにも不自然さがみられない。彼女の身なりは、見かけはきわめて質素だが、実際は非常におしゃれなのだ。
彼女は自分の魅力をひけらかさない。それを隠している。しかし、隠しながらも、それを人に想像させることを知っている。彼女を見て人はいう。しとやかな、やさしい娘ですよ、と。しかし、彼女のそばにいる限り、人々の目と心は彼女の全身にまとわりついて、そこから離れることができない。
Sは生まれつきいくつかの才能を持っている。彼女はそれを感じていて、なおざりにはしていないが、それを伸ばし育てるために手をつくせる境遇ではなかったので、彼女はそのかわいらしい声で、楽しく歌うこと、その小さな足で軽やかに、のびのびと優美に歩くこと、どんな場合にもすんなりとまごつかないでおじぎをすることを練習するにとどめた。
音楽については、近所の先生にピアノを少し教えてもらい、少しづつ和声に敏感になっていった。大きくなるにつれて、表現の魅力がわかり始め、音楽を愛するようになってきた。しかし、それは才能というよりはむしろ趣味である。彼女は音符によって曲を読むことはできないのだ。
Sの一番よく知っていること、そして一番念入りに教え込まれたことは、女性のいろいろな仕事だ。彼女の第一の義務は娘としての義務で、それが今のところ彼女が果たそうと考えている唯一の義務である。彼女の唯一の目的は、母親を助けて、その負担の一部でも軽くしてやることだ。
Sは才気煥発というわけではないが、気持ちの良い精神、深遠ではないがしっかりした精神をもっている。彼女は自分に話しかける人びとを喜ばせる精神をいつももっている。といっても、我々が教養というものについて持っている考えからすれば、それほど光彩を放つものではない。というのは、彼女の精神は読書によって培われたものではなく、ただ父母との会話や、自分自身の反省や、自分の会ったことのある人々についての観察などによって培われたものだからだ。
Sは、生まれつき陽気である。子供のころはよくはしゃぎさえした。しかし、すこしずつ母親がその浮ついた様子をおさえるように注意した。そういうわけで、Sはつつましく控えめになるべき時期にはそうなっていた。
Sは、なにごとにおいても早熟で、判断力もまた、同じ年ごろの他の女の子たちよりも早くからできあがっている。彼女は親切で、よく気がつき、何をするのにもしとやかさがある。恵まれた天性が、多くの技巧を用いるよりも彼女の役に立っている。彼女は自分流のある種の礼儀を心得ている。それはしきたりに従ってするようなものでなく、人を喜ばせたいというほんとうの気持ちからでたもので、本当に人に喜ばれる礼儀である。“有り難うございます”という言葉は、彼女の口から言われると、別の重みをもってくる。
彼女は一目見ただけでは相手を魅惑しないが、日ごとに好ましく思われてくる。彼女の最大の魅力は、徐々にしか働きかけない。それは親しい交わりの中ではじめて発揮される。彼女の教育は輝かしいものではないが、またなおざりでもない、彼女は学問はなくても、良い趣味があり、技芸は心得ていなくても才能があり、知識はなくとも判断力はある。彼女の精神は無知であるが、これから学べるように育てられている。それは収穫をもたらすために、種子を待つばかりの良く耕されている土地のようなものだ。彼女を教え導くことになる教師はなんと幸せなことか」
長々と引用してきたが、読者の目に、この娘Sは魅力的に映っただろうか、もしくは、この娘Sと親しくなりたいと思われただろうか。私には、この娘Sはとても魅力的に思える。正確には、これから年を重ねるにつれて魅力的な女性に成長してくれるだろうし、運よく生活を共にする伴侶となった人は幸せな人生を送れるだろうと想像する。
松田聖子ファンにとって、このSという女性、誰と重なるだろうか。聖子のS? いや、まだデビュー前の蒲池法子? 聖子は美人だからSは別人? いや、デビュー前の聖子は見た目地味だったような。だとするとやはり聖子? そんな気持ちが湧いてこないだろうか。
さて、この娘Sは一体誰なのか。いつまでも娘Sでは味気ないので、ここからは名前で呼ぶことにしよう。イニシャルSを持つソフィー。ソフィーがある種の女性の魅力を備えていることは否定しがたく、私は、松田聖子の生い立ちやその後の姿を追いかけるにつれて、彼女の中にソフィー的女性像を感じてしまうのだ。ソフィー的自然児として育ってきた蒲池法子が芸能界に入って、多くの指導者と出会い、もともと持っていた可能性を耕され、松田聖子として洗練されるとともに成長していった。その一方で、生来持っていたソフィー的特質は失わず、ファンは彼女に親しみを感じて現在に至っているというのが、私の結論である。
最後に、この娘ソフィーを理想的な女性としてとらえたのは、松田聖子ファンだけではない。種明かしすると、ソフィーを理想の結婚相手と考えた歴史的な思想家がいた。18世紀のフランスの思想家ルソーである。ルソーは、その著書「エミール」において主人公エミールの結婚相手を真剣に考えた。そして理想の女性像を作り上げた。それがソフィーの実像である。エミールが娘ソフィーに恋したように、松田聖子のファンは彼女に恋し、彼女を伴侶としてきたのだ。そして、ルソーが期待したごとく、その伴侶との関係は良好に続いてきた。それが松田聖子とファンの40年といえるのではないだろうか。
2020年10月9日
改訂2022年1月31日