Seiko Matsuda Sweet Days
松田聖子の1980年代のアナログ・シングル・レコードのA/B両面を網羅した "Seiko Matsuda Sweet Days" が、2018年1月31日に発売された。松田聖子のヒット曲は世代を超えて歌われており、彼女の若き日々を振り返るのに便利に編集された3枚組CDアルバムである。ただ、このアルバムには曲の解説がない。これでは松田聖子をこれから聴こうとする若い世代には不親切であるため、簡単なライナーノーツを書いてみた。松田聖子の歌の理解の一助になれば幸いである。
断言しよう。この3枚組CDによってはじめて松田聖子の作品を聴く人ほど幸せな音楽ファンはいないことを。ここに収録されている魅力的な作品群に初めて接するという至福の音楽体験が待っているからだ。そのような人に私は嫉妬心を感じないわけにいかない。もしあなたがそんな一人なら、私の能書きなど無視して、若き松田聖子の歌声を堪能してください。作曲家と松田聖子の化学反応ともいうべき楽曲の創造性を感じてください。歌詞に表われる季節感あふれる風景とヒロインの心の動きを心象風景として想像してください。そして、編曲家が繰り出す多様な音の彩色を味わってください。いやはや、書き始めから興奮してしまったが、たいていの人は、いろいろな媒体で聖子の歌を耳にし、動画を見てその魅力を知って、その結果としてこのCDを手にしているのだろうから、この綺羅星のごとく輝く作品たちを前に私ごときが能書きを垂れる必要などないのだ。
そうではあるが、一言いわせてください。松田聖子の80年代の作品群は、彼女の才能に触発されて集結した最高レベルのスタッフたちが作り上げた日本のポップス史において例をみないほど贅沢な作品群であり、あらゆる音楽ファンにとって輝き続ける永遠の宝物なのだと。そして、松田聖子自身も気づいていなかったと思われる自己の才能を、スタッフとの相互啓発を通じて顕在化させ、アーティストとして成長していく軌跡でもあったのだと。3枚のCDを通してこの宝物を味わい、次のステップに踏み出す心の準備ができれば、もうまぎれもない聖子信者の誕生である。そうした信者が若い世代から一人でも多く生まれてほしい。それでこそSeiko Matsuda Sweet Daysがリリースされた意味があるというものです。
ここまで書けば、これまで多くの人に愛されてきた松田聖子の作品について新たに語るべきことなどないのだが、本作を構成する80年代の作品の背景や松田聖子の活動ついて若いファンの方々にも理解してもらえるよう簡単に触れておこう。
1980年4月1日「裸足の季節」によって歌手松田聖子が誕生した。パンチのきいた、突き抜けるような歌声がテレビのCMに流れることで松田聖子の名は全国に知れ渡った。そして、デビューからほぼ1年の間にリリースされた5枚のシングル(「裸足の季節」「青い珊瑚礁」「風は秋色」「チェリーブラッサム」「夏の扉」)と3枚のアルバム(「SQUALL」「North Wind」「SILHOUETTE」)で構成される作詞家の三浦徳子さん、作曲家の小田裕一郎さんを中心にした初期聖子の作品は、普通の歌手ならば、それだけでも後世に名を残せるほど聖子の声の特質を生かした名作である。これらの名作によって松田聖子の名は不動のものになっていた。とにかく声が前によく出る、他の歌手に交じってもひときわ声が目立つ存在だった。そして、TV画面の彼女はとにかくかわいらしかった。マスコミも一般ファンもそのかわいいしぐさに気を取られていた。しかし、彼女の魅力の本質は見た目ではなく、歌のヒロインになりきることができる演出能力とそれにふさわしい変幻自在の歌唱力だということをいち早く見抜いたもう一人の才能がいた。作詞家の松本隆である。デビュー翌年の1981年7月21日「白いパラソル」から松本隆と松田聖子の時代が始まった。Seiko Matsuda Sweet Days全52曲のうち、36曲を松本隆作品が占めている。「夏の扉」までの初期の5枚のシングル10曲を除くと、残り42曲のうちの36曲、実に85%が松本隆作品で占められている。つまり、デビュー年を除く1981年から1988年までの松田聖子は、松本隆ととともに歩んだのだ。レコード会社では、聖子作品の制作は松本隆を軸とする松田聖子プロジェクトと呼ばれるようになっていった。この松田聖子プロジェクトにかかわったスタッフたちは、持てる力を余すところなく投入して、斬新な作品を生み出していった。その意味で、Seiko Matsuda Sweet Days は、Seiko Matsuda Project Sweet Daysでもあるのだ。
松田聖子プロジェクトを特徴づけるのは、1970年代に登場したニューミュージックと呼ばれるジャンルのミュージシャン達である。1970年代の日本の大衆音楽は、歌謡曲とフォークソングが中心だったが、その横でビートルズをはじめとする洋楽ポップスの洗礼を受けた若い人たちが、自分たちの欲する新しい音楽づくりを始めていた。それがニューミュージックと呼ばれていたわけだが、彼らはTVなどの一般のマスコミに登場せず、レコーディングとライブを中心に活動していた。新しい音楽的才能を持った人の多くは、ニューミュージックに向かっていた。そのような才能あふれるミュージシャンを引き込んで、従来の歌謡界とは一線を画した作品作りを狙ったのが松田聖子プロジェクトだ。松田聖子の作品が1970年代までのアイドル歌謡と異なる印象を持つのは、このような背景からである。
ニューミュージック勢とのコラボは、4枚目のシングル「チェリーブラッサム」の財津和夫から始まり、続いて「夏の扉」、「白いパラソル」と財津和夫作品が並ぶ。松本隆が作詞として参加するのは「白いパラソル」以降である。松本隆の参加によって、ニューミュージック勢の色合いがさらに強まり、それを全面的に打ち出したのが、ニューミュージック界きってのポップス研究家で音作りの名人大瀧詠一を起用した1981年10月21日発売のアルバム「風立ちぬ」である。アルバムに先立ってシングルが10月7日に発売された。このころの松田聖子は、多忙な生活によって喉を酷使するあまり、声の不調に悩まされており、デビュー当時の力で押し切るような歌唱スタイルから変化を余儀なくされていた。しかし、この逆境は、思わぬ福音をもたらした。喉に負担をかけない柔らかな発声でも歌えて、それだからこそ得られる表情豊かな楽想を持った作品が、松本隆の文学色の強い歌詞とあいまって、アルバム「風立ちぬ」は、聖子ソングを一層彩り豊かなものにしていたのだ。そして、「風立ちぬ」に続いて1982年1月21日に聖子ソングに一大転機が訪れる。ユーミン(松任谷由実)が呉田軽穂名義で作曲した「赤いスィートピー/制服」のリリースである。
ユーミン自身が歌手でもあるので、松本隆がユーミンを誘うとき「ライバルに曲を書いてみないか」という誘い文句で口説いたのは有名なエピソードである。そして、1982年はユーミンの年となった。「赤いスィートピー/制服」に続いて「渚のバルコニー/レモネードの夏」、「小麦色のマーメイド/マドラス・チェックの恋人」がリリースされ、揺れ動く女性心理を、繊細なメロディーラインに乗せるユーミン作品は女性ファンをも惹きつけた。そして、松田聖子を女性からも愛される存在に変えていった。松田聖子も、ユーミン作品の持つ多様な作風に呼応した歌唱を披露し、その潜在能力が奥深いものであることを徐々に見せ始めた。ユーミンもアイドル歌手にお下がりの歌を提供するといったことではなく、想像以上の表現力を持った歌手松田聖子に触発され、新たな表現を開拓していく緊張感を持つようになった。これら1982年のユーミン作品によって、松田聖子は国民的歌手になったといってよいかもしれない。1982年の最後のシングルは、財津和夫の再登場による「野ばらのエチュード/愛されたいの」である。このころは、制作側がどんな冒険をしても聖子ソングとして成立するほど、聖子の歌声は変幻自在であった。ここまでデビュー以来11枚のシングルと6枚のオリジナルアルバムをリリースしている。1981年の「風立ちぬ」に続く1982年のアルバムは「Pineapple」、「Candy」の2枚であり、いずれも聖子ソングに欠かせないアルバムである。さらに、この2年半の活動の集大成として1982年の12月25日に聖子in武道館X’mas Queen と題する今や伝説となった松田聖子の第一回武道館コンサートが開催された。そして、松田聖子が押しも押されもせぬ日本のトップシンガーの一人であることを強烈に印象付けた1983年が始まるのである。
1983年は、2月3日リリースのユーミン作品「秘密の花園/レンガの小径」で幕が開いた。これによって10作連続シングルチャート1位を獲得する。続いて4月27日に登場したのがテクノポップ活動で世界的に有名になっていたYMO(Yellow Magic Orchestra)の一員、細野晴臣による「天国のキッス/わがままな片想い」である。聖子がにこやかな表情で歌う「天国のキッス」のパフォーマンスは、ぶりっ子聖子の真骨頂であるが、音楽的には転調を繰り返す複雑な構成の曲だ。さらにB面の「わがままな片想い」は、これぞ細野晴臣というべきテクノポップ感にあふれた曲で、これが聴けるのも今回のSweet Daysならではである。2017年11月に英国の某ラジオ局が15時間にわたる細野作品特集を組んだ時に、松田聖子の歌で流れたのがこの「わがままな片想い」だったこともついでに記しておこう。8月1日には再び細野晴臣でアイドルソングとは思えない荘重な雰囲気の「ガラスの林檎」と、ジャズの香りがする「Sweet Memories」を両A面としたシングルがリリースされる。そして1983年を締めくくるのが10月28日リリースのユーミン&松田聖子の最高傑作「瞳はダイアモンド/蒼いフォトグラフ」である。この年は、アルバムで「ユートピア」「Canary」の2作をリリースしており、「Canary」では、タイトル曲で聖子自身も作曲に取り組むなど向かうところ敵なしである。1983年のこれらの多様な作品群は、松田聖子に次々と新しいハードルを課したレベルの高いものだ。それを松田聖子がその都度成長した姿を見せ、ハードルを次々とクリアしていく。その姿を本作でまとめて聴くと、1人の歌手が1年のあいだにこれほど成長するものかと驚嘆する他はない。これは、もともと持っていた潜在能力を発揮したということかもしれないが、いずれにせよ、これによって松田聖子は名実ともにトップアーティストとしての地位を獲得したといってよい。
1984年も松田聖子の快進撃は続く。1984年の最初の作品は、1984年2月1日「Rock’n Rouge/ボン・ボヤージュ」である。3年連続のユーミン作品だ。躍動感あふれるA面と、恋人との宿泊旅行で不安と期待の混じったヒロインの気持ちを絶妙に表現するB面の対比が見事である。これにつづく2作、1984年5月10日「時間の国のアリス/夏服のイヴ」、1984年8月1日「ピンクのモーツァルト/硝子のプリズム」は、ユーミン、Jazzトランぺッター日野皓正、そして細野晴臣が、各々思うところに沿った自在な作品である。時間の国のアリスは、ユーミンが80年代に松田聖子に提供した最後の曲で、永遠の少女を夢見る女の子をテーマにしたもの。これがリリースされたとき、まさかこの歌のテーマがその後の松田聖子のテーマになろうとは誰しも予想しなかったことだろう。「夏服のイヴ」は同名映画の主題歌で、渋いバラードだ。22歳の若い歌手が歌うような作品ではないのだが、これをも歌いこなしてしまうのだから恐れ入る。「ピンクのモーツァルト/硝子のプリズム」は、クラシック風味とテクノ風味を組み合わせたユニークな作品だが、聖子の軽やかな声が、音楽のジャンルを軽々と飛び越えている。1984年の最後のシングル1984年11月1日「ハートのイアリング/スピードボート」では、佐野元春がHolland Rose名義で初めて聖子ソングにかかわっている。佐野元春は、後に松本隆との対談(2009年8月NHK教育「ザ・ソングライターズ」)において、この作品の経緯について語っている。松本隆から喫茶店に呼び出されて「佐野君、松田聖子プロジェクトっていうのはね、ナンバー1じゃないとダメなんだよ」と言われ、佐野はプレッシャーを感じ、聖子のシングルを全部聴いたそうである。そして、それまでの聖子ソングになかったブルースの翳りを表現したのが「ハートのイアリング」である。1984年は、アルバムとして「Tinker Bell」「Windy Shadow」の2作をリリースしている。
1985年は、松田聖子独身の最後の年である。突然と言ってよい神田正輝との結婚(1985年6月)を前に、歌手活動は控えめになる。その結婚騒動の中で、1985年1月30日「天使のウィンク」、そして1985年5月9日「ボーイの季節」と尾崎亜美による2作品がリリースされる。「天使のウィンク」は、尾崎亜美本人も歌っているが、聖子のスピード感あふれる歌唱によって、この歌に生命が吹き込まれた感がある。「ボーイの季節」は、結婚直前でもあり、TVではほとんど歌われなかったが、Sweet Memoriesとともにアニメ映画「幸福物語」の中で歌われた。独身時代を振り返ったときの寂寥感のようなものが感じられる佳曲である。これらは、独身最後のアルバム「the 9th Wave」(1985年6月5日)に収録されている。
結婚とともに休業に入り、歌手松田聖子はもう復活しないと思われていたのだが、そうではなかった。結婚後は松田聖子自身がこれから長く歌い続けるための歌手としてのありかたを考えていたのではないかと思う。少女のような若い未婚女性の心の内を表情豊かに歌うスタイルをずっと続けるわけにはいかないし、どんな歌をどんなスタイルで歌っていけばよいのか、所属事務所、レコード会社含めて模索していたはずである。そして1986年の出産を経て1987年まで休業するのだが、1986年に妊娠中にも関わらずアルバム「Supreme」を録音し、同年6月1日にリリースしている。the 9th waveで独身への離別というかマリッジ・ブルー的な感情を表現し、Supremeでは、特定の異性との恋愛話よりも、もう少し広い世界を対象にすることで結婚後の歌の方向を徐々に作り上げていた。その代表曲が「瑠璃色の地球」だが、残念ながらシングルカットされなかったため、このSweet Daysには収録されていない。Supremeには、聖子自身が作曲した名曲「時間旅行」も収録されているのだが、これも残念ながらここでは聴くことができない。
1987年になって、松田聖子は歌手復帰を果たす。1987年4月22日「Strawberry Time/ベルベット・フラワー」をシングルとしてリリースし、1987年5月16日にアルバム「Strawberry Time」をリリースしている。アルバムは多様な歌のミックスになっていて、やや方向感が分かりにくいが、一聴して分かる通り、タイトル曲はレベッカの土橋安騎夫の作品である。ノッコに替わって、松田聖子がレベッカに参加している感じが面白い。また、シングルカットはされなかったが、当時注目を集め始めていた小室哲哉による「Kimono Beat」も楽しくユニークな作品である。そして11月6日にはクリスマスソングとして「Pearl-White Eve/凍った息」がリリースされた。クリスマス・イヴに恋人同士が一夜を過ごす風習が定着するのにPearl-White Eveが相当寄与したに違いない。
1988年は、松田聖子にとって大きな変化の年であった。新しい聖子像を創造すべく、米国の著名プロデューサーDavid Fosterにアルバム制作を依頼することになったのだ。録音場所も米国であり、一緒に演奏するミュージシャンも米国人である。松田聖子は、David Fosterから音程の不安定さを徹底的に修正されたと証言している。歌唱技術的な指導を受けたのはもちろん、プロデューサーとしてのDavid Fosterは、松田聖子ともっと広い話をしたはずである。プロデューサーとしての狙いと歌手に何を求めているのか、そのためには何に取り組まねばならないのかといった基本理念を共有した上での指導だったと想像する。その基本理念の部分を語っている資料がないので想像するしかないのだが、彼は松田聖子にどのような歌手でありたいのか確認したのではなかろうか。または松田聖子が相談を持ち掛けたかもしれない。そして、成人女性として歌い続けるための歌唱法の指導を受け、1988年4月1日「Marrakech~マラケッシュ/No.1」をリリースし、1988年5月11日アルバム「Citron」を完成させた。Citron完成までの期間、歌唱技術以外のところで、米国の音楽界のリーダの価値観に触れたことが、松田聖子のその後の活動に大きな影響を与えているはずである。そんなことを思いめぐらしながら「Marrakech~マラケッシュ/No.1」を聴くと感慨深いものがある。1988年最後のシングル1988年9月7日「旅立ちはフリージア」では、聖子自身が作詞に取り組んでいる。これが80年代にトップチャートを獲得した最後のシングルとなった。CBSソニーのアナログシングルレコード発売も「旅立ちはフリージア」をもって終了し、Seiko Matsuda Sweet Daysは、ここで終わる。
CDの最後に添えられたボーナストラックの「With You/小さなラブソング」は、1983年にリリースされたベスト盤「Seiko Plaza」に収録されたシングル盤から収録されたものだ。この隠れた名曲が聴けるのはありがたい。With Youを作曲したのは、Sweet Memoriesを作曲した大村雅朗である。大村雅朗は、松田聖子が全面的に信頼を寄せた松田聖子の盟友というべき編曲家なのだけれど、作曲家としての才能を垣間見ることができる。With Youは、大村雅朗の残した唯一のA面曲である。「小さなラブソング」は聖子自身の作詞による、いかにも可愛らしい曲だ。作曲は初期聖子からおなじみの財津和夫。
こうして本作に収録されている作品をまとめて聴いてみると、1980年代の松田聖子の作品群は、どれも充実しており、ロマン・ロランがかつて楽聖ベートーヴェンの充実した作品群を形容した “傑作の森”という称号を与えたくなる。本作で聖子作品の魅力に触れた方には、是非アルバムにも耳を傾けてほしい。そこには、文字通り“傑作の森”と呼ぶにふさわしい多様で魅力的な作品があることを発見していただけると思う。
さて、Seiko Matsuda Sweet Daysのライナーノーツとしては、ここで終わっても良いのだが、Sweet Daysは松田聖子のキャリアの最初の8年間に過ぎないので、その後の松田聖子について少しだけ触れておこう。松田聖子が、自分の目指す道をさらに前に進めるために、大人のポップスが未熟な日本ではなく米国での活動を選んだことは周知の通りである。その決意を自身の言葉で歌ったのが、1989年のアルバム「Precious Moment」に収録された「Precious Heart」である。「Precious Heart」は、オリコン2位にとどまった。松田聖子のオリコン連続1位を阻止したのは、この後に90年代をリードすることになる小室哲哉であった。
渡米後の聖子は、米国のポップスを消化することに力を注いでいる。そして、等身大の自己表現をするために、自分自身で作詞作曲をするようになった。その成果を定期的に日本で披露するわけだが、日本の聴衆は聖子の目指す米国流の大人のポップスになかなかついていけない状況が続いた。一部のファンは離れていき、チャレンジを続ける聖子に共感を覚える同世代の女性が聖子の活動を支え続けた。そこで妥協すると聖子は自分の選択を否定することになるから、少なくとも作品やステージに関しては、聖子自身が納得できるものを目指し続けた。それが90年代の聖子の戦いだったように思う。90年代の松田聖子の歌声は、透明感があって本当に美しいものであった。聖子自身の作詞作曲による「あなたに逢いたくて~Missing You~」がミリオンセラーになったのも90年代の成果である。それで10年間を過ごし、聖子もある程度やるべきことをやったという思いを抱いて21世紀を迎えることになる。
2000年からの数年間は原田真二とのコラボの時代である。これはポップスとロックの融合路線で、それなりに面白い作品を残している。だが、これも必ずしも日本のファンには完全には理解されたとは言えなかった。ファンの多くは、昔の少女時代のポップスを前提にした眼で見ていて、結局はポップス路線に回帰することとなった。年齢が40代に差し掛かった松田聖子は、自分のポップス路線を進めていこうという気持ちをしっかり持っていて、魅力的な作品を何曲も残している。年齢とともに声質も変わってきて、若いころの輝きは失われた反面、落ち着きのある歌声になってきた。
最後に、こうしたチャレンジを続けてきた松田聖子の到達点を紹介しておこう。米国のJazz界でトップレベルのピアニストとして活躍しているBob James率いるJazz演奏グループFOURPLAYのアルバム「ESPRIT DE FOUR」(2012年リリース)に松田聖子がゲスト出演して収録されている「Put Our Heart Together」を機会があれば聞いてみてほしい。英語の曲ながら、松田聖子がいかに深い表現能力を持つ歌手に成長しているか感じ取れるはずだ。この曲は、2012年の東京Jazzでも披露されており、そのラジオ中継音声が残っているが、演奏後、Bob Jamesがガッツポーズをしたほどの名演である。現在の松田聖子はPOPSに加えてJazzへの傾倒を見せており、2017年3月29日に初のJazzアルバム「Seiko Jazz」を発表し、名門JazzレーベルVerveから米国でもリリースされた。デヴィッド・マシューズの洗練されたアレンジと現在の聖子の落ち着いた声の相乗効果によってエレガントなアルバムに仕上がっている。Jazzという新しいフィールドで、これからどんな活動を見せてくれるのか、Sweet daysから30年経過した今日でも松田聖子から目が離せない。
2018.2.6 記
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