風のインクで
文学少女namiさんの面影
序曲
夏の午後の喫茶店
彼女とせんせー
ビブリア古書堂の栞子さん
堀辰雄 そして風立ちぬ
閑話休題
レモネードの夏
風のインクで
序曲
山から風が 風鈴へ
生きてゐたいと思ふ
読んでいた本にたまたま出てきた山頭火の句、
風も風鈴も別に人を励まそうとしている訳じゃないが、
風鈴の澄んだ音が
いつものくすぶっている心を脇に追いやり、
自然のままに生きていたいって勝手に思う
そんな人の心の動きをさりげなく詠み込んでいる良い句だ。
「せんせー、今日は俳人なのね」
namiさんはいつも突然にやってくる。
そして一言
「あんたがきてくれさうなころの風鈴」
いきなり山頭火の句が彼女の口からでてきた。
namiさんが山頭火なんて、ちょっと意外だった。これは山頭火がいつもお世話になっている男の人を思い浮かべながら詠んだ句らしい。でも、風鈴の音で人に思いを馳せるってのは女心を感じさせる。だから、namiさんがこれを選んだ気持ちはなんとなく分かる。もっとも、山頭火が女心を読んでいるのって不思議な感じがするけどね。
「皆さんご存知のヴァレリーの詩句にも通じるね!」
そうそう、namiさんなら当然そう思うはずだ。私もそう思いながら最初の句を引用したのだった。調べてみると、山頭火がこの句を詠んだのは昭和10年、堀辰雄が「風立ちぬ」を発表したのは昭和11年だから、直接の因果関係はない。山頭火もヴァレリーの詩を読んでいたのだろうかという疑問が湧いてくる。
「風立ちぬのあれかな?」
「あれの周辺、ちょっと男性っぽいけど」
また彼女の領分に引っ張り込まれてしまった。
彼女は笑いながら、いたずらっぽく私の反応を見ているようだった。
「あれしか知らない(笑)」
そうなのだ、私は「風立ちぬ、いざ生きめやも」のフレーズしか知らない。
ヴァレリーの詩はちゃんと読んだことがないので正直に答えるしかない。
「海の話だもんね〜」
しょうがないなぁ、じゃあヒント、といった感じでこの一言だけくれた。
同じ風でも山頭火は山とつながり、ヴァレリーは海とつながる。
この対比が面白い。
ヴァレリーの詩なんて我が家にあったかな?と思いながら、書棚を探してみた。筑摩書房の世界文学大系を眺めてみる。昭和30年代発行の古い全集。あった、51巻「クローデル/ヴァレリー」。目次をのぞいてみる。舊詩帖、若きパルク、魅惑、拾遺詩編...どれだろう?海の話か...そういえば、辻邦夫の随筆に「海辺の墓地より」というのがあったな。あれはたしかヴァレリーの故郷を訪れる話だった。「海辺の墓地」はヴァレリーの詩のタイトルだ。 目次には出ていないので、個々の詩集の中を探してみた。ようやくたどり着いた。
「(ヴァレリーの詩集)「魅惑」の中に「海辺の墓地」という詩があるね」
「それそれ、それの後ろの方」
やっと話がつながった。「海辺の墓地」の文字を追いかけながら、「風立ちぬ」を探した。いやはや長い詩だ。小さな活字で2段組みに組まれた文字が3ページに渡っている。しかも難解な言葉が延々と連なっている。後ろの方...やっとそれらしいところにたどり着いた。
「風が立つ…生きねばならぬ」だね。
訳者は仏文学者の村松剛さん。堀辰雄の文語訳とは違うが、他の部分とのバランスで口語訳になってしまうのもやむを得ないのかな。それと堀辰雄の二番煎じと云われたくないとの思いもあるのだろうし。
「だから~
堀辰雄のは名訳中の名訳でしょ!」
はい、仰る通り。
この一節だけ取れば、もうこれしかないね。
こんなnamiさんとのやりとりの後で、「海辺の墓地」をゆっくり追ってみた。
「風立ちぬ」は、ポール・ヴァレリーの詩「海辺の墓地」の最後の方に現れる一節である。
ヴァレリーは、生まれ故郷の南仏セットの地中海に面した墓地を眺めながら思索にふけっていた。頭上には太陽が生を謳歌するかのように輝いているが、太陽の光を浴びながら墓地の下には死者が眠っている。永遠の生がないとすれば、この世にはどんな意味があるのか...そんなことを考え始め、それを難解な表現で延々と表現し続ける。そうした折に風が吹いてきて、ハッと現実がよみがえり、やっぱり生きて行かなくちゃ、と正気に戻る。この詩はその思索の過程を長々と描いている。いろんな翻訳がネットで公開されているが、堀辰雄が「風立ちぬ、いざ生きめやも」と訳した部分、翻訳者のみなさん苦労されてる。
namiさんが堀辰雄のものを名訳中の名訳と云っている意味がなんとなく分かる。
彼女の文学的精神を、ちゃんと書き留めておかないとな ...
夏の午後の喫茶店
ゆったりとしたソファのような椅子とテーブルが並んでいる昭和の雰囲気を残す喫茶店に入り、窓際の席を選んで腰を下ろした。レースのカーテンのある窓は広くて、店には明るい光が満ちている。スマホを取り出してnamiさんと昔かわした会話を読み返す。ウエイトレスが運んできてくれた抹茶クリームコーヒーを一口飲み、聖子ファンでもあった彼女の残した言葉を思い起こしながら夏の午後を過ごしていた。
彼女は2018年の秋からネットで発信を始めていた。話題は多岐に渡っていて、自分の考えをはっきり言う人ではあったが、一面シャイというか照れ屋でもあり、照れ隠しのおどけた言葉も多くあった。それでも、その中心には松田聖子ファンとしての価値観がしっかりあって、それが時折顔を出した。たとえばこんな言葉。
聖子ちゃんのアルバムを聴くときは、ちゃんと座って最初から最後まで静かに聴く。何かしながら聴くことはない。車で聴くときも長距離ドライブだけ、一枚の作品として楽しみたいから。聴くたび新しい発見がある。
「風立ちぬ」って不思議な言葉じゃない?
意味が分かるような、わからないような
人それぞれイメージするものが違うような
私は この言葉の雰囲気が 大好き
ちなみに 風が立つのは、風が起こるの意味、吹き始めたイメージかな
最後の「ぬ」は 連用形接続なので完了を現わしてます
風が吹いてきたってこと
意味も大事だけど、語感やイメージも大切にしてね
あなただけの 風立ちぬ を
何度も読み返して思うけど、松本隆作品の「風立ちぬ」が一番原作に忠実だな。他は3本の映画だけど、堀辰雄の本質を描ききってるのは聖子ちゃんの歌う「風立ちぬ」。
強く優しく死と向かい合うヒロインの気持ちが心にしみるわ~。
ヴァレリーの詩句のあの部分を「風立ちぬ」と訳したのは堀辰雄の偉大な業績だと思う。日本人の心に何故か訴えかけてくる。それを集約して後世に残る名曲を生み出した松本隆もまた天才だと思う。
これらのネット上の短い言葉の中に限定的ながら彼女の文学的センスが表れていて、それを読み取るのは楽しい事だ。もちろん、それは同じ松田聖子ファンとしての背景があるからこその楽しみであり、共感といってもよいだろう。
病院に行くとこ
ドナドナ感満載
2019年3月、この言葉で彼女は闘病生活の始まりを告げた。言葉には冷たい雨の中を病院に向かって走る車窓の風景が添えられていた。「ドナドナ感」は、二度と戻ることはないかもしれないとの予感の言葉だったのだろうか。
病院生活が始まると、ネットを通じた仲間との情報交換が彼女の大切な時間となっていったようだ。当時、映画「家族のレシピ」が公開され始めた時期であり、松田聖子ファンの間ではその話題で持ちきりだったので、彼女も早く大きなスクリーンで見たいと話していた。このあと、長い入院生活が続くのだが、私は、ネット上での発言を通して彼女と接していいただけなので、彼女の闘病生活の詳しいところは知らない。彼女もそれについては多くを語らなかった。いろんなアイデアを盛り込んだアニメーション制作、ユーモアにあふれた多くの人たちとのネット上でのやり取りは、彼女が見つけた闘病スタイルだったのかもしれない。たまの辛口のコメントも嫌味にならない気配りがあった。なにより印象的な言葉で心の内を表現する人だった。
そんな彼女が入院して2年ほどして一度だけ闘病生活の心境を告白したことがある。
「長らくご愛顧いただきました
なみたんですが
作者との年齢や体力のギャップが、大きくなってまいりました。
そこで今後について...」
ネット上では明るく振舞っていたが、やはり闘病は楽ではなかったのだろう。
しかし、このあとも彼女の振る舞いは変わることはなかった。
最後までお疲れ様。
時間を忘れてnamiさんとの会話を追っていたが、ふと気づくと16時を過ぎていた。世話をしている猫たちが待ちくたびれている姿が目に浮かぶ。そろそろ帰るとしよう。外を見ると、午後の日差しはまだ強い。喫茶店の窓の外には柘植(つげ)の植え込みがあり、その先には喫茶店の駐車場が広がっている。その駐車場の入口の左右には門柱の代わりに2本の棕櫚の木が植えられていて、夏の強い日差しがその棕櫚の葉の濃い緑を際立たせていた。
彼女とせんせー
SNSには不特定多数の人たちが集っているのだが、その中でいつしか特定のテーマでつながった人たちと交流が始まり、SNS上での発言もそのテーマを中心にしたものになって行く。私も主に松田聖子ファンの周辺で発言しているので、その話題が多いのだが、それでも日々の生活の中で一日中同じテーマで過ごす訳もなく、時として、いや案外多くの雑多なつぶやきをすることになる。そんな雑多なつぶやきは、独り言だったり、行動記録だったりするものなので、たいていは書きっぱなしである。
そんな雑多なつぶやきの中で、レコード収集についてのつぶやきは、わりあい頻度の高いテーマである。
ある日、特に考えもなく、戦前から多くの映画のポスターを制作されてきた野口久光さんの作品を用いたレコードジャケットについて、こんなことをつぶやいたことがあった。
「映画音楽のレコードを探していると、どきどき野口久光さんの絵をあしらったがジャケットに出会う。見つけたら躊躇なく買う」
レコードコレクターとしての独り言なので、これにリプがくるなんてまったく考えていない。
ところが、
「兄貴は何にでも造詣が深くて面白い人だなぁ
❤」
ときた。
namiさんが、こんなテーマに興味あるとは意外だったので、その旨を伝えた。
それでも、こんなマイナーな話題にリプしてくれたのはありがたかった。
造詣が深いなどといわれるとこそばゆいけれどね。
私の意外だなという反応に
「映画の看板の絵にはキョーミあるよ」
と返ってきた。
そういえば、namiさんには、案外レトロなところがあった。
断捨離絶対反対だしね。
古いものは捨てない、残せば財産というのが彼女の口癖だった。
昔集めた聖子グッズも大切にしていることも彼女の日ごろのツイートから分かっていた。
だから、よく考えれば、彼女が昔の手書きの映画ポスターに興味があるというのは、自然なことに違いない。しかし、私のことを「兄貴」と呼ばれるのはちょっと引っかかる。そんな柄じゃないのは自分でよく分かっている。どうしたもんか考えたあげく、その違和感を伝えて
「ちなみに、少し前から私の事を先生と呼ぶようになった人がいるんだけど、
ススキのおねえさんが名付け親」
なんてことを話したら
即座に
「私も先生にする!
ススキのお姉さんに見習って」
これで、せんせーに決定してしまった。
先生と呼ばれるほど馬鹿じゃなしという言い草があるが、もちろんそれを承知での呼び名なのであって、堅物の私に少しは馬鹿を演じなさいとのメッセージだったかもしれない。こうして、namiさんの日常生活では無縁なせんせーを続けることとなった。まあ、つかず離れずの関係としては良かったのかもしれない。
ちなみに誤解を招くといけないので、一言。ススキのお姉さんというのは、松田聖子がポッキーのCMで、グレイのジャケットとチェック柄のスカートを着て、片手にススキの穂を持っているその姿をコスプレしていた一人の松田聖子ファンのことで、決して札幌の夜のお姉さんではない。

兄貴はおもしろいひとだなぁの図
ビブリア古書堂の栞子さん
甥っ子が置いていってくれた本。
この手の読まないんだけど、面白いや!
甥っ子は私と主人公がちょっと似てるって。(笑)
そんなかわいいかなぁ
テレるなぁー。
彼女が入院して一ヵ月ほど経った頃、こんなつぶやきが目に入った。
たぶん、甥っ子さんが彼女を見舞って入院生活の気休めにと置いていった本なのだろう。
この「ビブリア古書堂の事件手帳」は鎌倉が舞台で、湘南地域を中心とした古書を巡るミステリー・シリーズである。テレビドラマにもなった。私は、若い頃に鎌倉に住んでいたことがあり、当時の生活圏が舞台だったので、このシリーズの事は良く知っていて全巻読んでいた。そのことを早速伝えた。
「絶対 読んでると思った! せんせーのこと考えながらツイートした(笑)」
私のことを考えながらツイートしたなんて、あっけらかんと言う所が天キスの女の子なみにずるいのである。
あっさり誘惑されて、そのまま続ける。
「光栄です、そういえば、主人公の栞子はお母さんの影響で本好きになった訳だけど、namiさんもちょっと似てるような。容姿は知らないけどね」
「そうだね! 容姿も含めて(笑)」
姿が見えないから言いたい放題である
「じゃあ、甥っ子さんの言葉を信じて、これから栞子さんでいくかな」
わたしがそう言うと、
「そこまで図々しくないや(笑)」
そうだよね...やれやれ、やっと戻った。
namiさんとの会話は、いつも彼女のペースになってしまう。
でも容姿の話だけじゃ終われない。
「性格も栞子さんのしおらしいイメージとはちょっと違うしね、
でも、見た目はまねだ栞子くらいにしておこう」
「あれ!しおらしくない?」
「栞子さんは、本以外の話題は、しどろもどろになるんだけど、namiさんは…、止めとこう」
「自分の話にグイグイ引きずり込む(笑)」
「ちゃんと自己認識できてるね」
「ハイ!いい子でしょ(笑)」
もう最後は、これ自分から言う?って話なんだが、
言っても許されると分かってる確信犯。
彼女の人徳というか、やっぱり天キスの女の子そのままだね。
さて、もう夜も更けてきた。
「そろそろお休みなさい」
「はい。おやすみなさい💤 今日もありがとう😊」
入院患者の就寝時間はとっくに過ぎていた。
こんな会話で過ごした夜がnamiさんの心に一瞬でも平穏をもたらしていたのなら幸いである。
このやりとりをした時点では、namiさんはこの本をまだ読んでなかったと思うけれど、
その後、こんな風に書いている
「あんまり最近の本は読まないんだけど、これは面白かった。
読書好き文学少女には、最適
❤
ビブリア古書堂の事件手帖」
こうして、ビブリア古書堂の事件手帖は私にとっても想い出の本となった。
私はnamiさんに対して文学少女という言葉をよく使ったが、本人が自分のことを文学少女といったのは、これと、あと一度しかない。
「高校生の頃、文学少女を気取っていた私は 聖子ちゃんは50音の一文字 一文字を表意文字として使っているという仮説を立てていた。聖子ちゃんが「あなた」と歌ったら、それは単に三人称のあなたではなく、「あ」「な」「た」とそれぞれ意味のある言葉の集合体の「あなた」になっている。だから聖子ちゃんの言葉はプリズムみたいに不思議に屈折した光を放っているんだ。聖子ちゃんの曲は そんなプリズムの集合体だから、聴くたびに違う輝きをとどけてくれる。だからいつも新鮮なんだって友達に講釈していた」
子供の頃から夢見る理屈屋さんだったようだ。
こうした文学少女namiさんを象徴しているイラストがある。
「万感の思いを胸に松本隆本を読み返す午後」
読書にはデミタスカップにエスプレッソ、しかも身に着けてるものは最小限で。こういうところが彼女のユーモアであり、サービス精神なのだが、媚びているようで媚びていない表情が彼女らしい。
このイラスト、松本隆先生の目にも止まってリツイートされて、namiさん慌ててたな。「またやっちった、先生ごめんなさい」と謝ったかと思えば、直後に、「まあ先生もね、息抜きというか、ユーモアね!」なんて言い訳してたのが可愛らしいというか大笑いだった。
そして、その一週間後
「松本隆くんにフォローされちったんで、今日から音楽アカウントになります。
あしからず」
フォローされたのはご同慶の至りだが、後はいつもの冗談名人である
フォローはこれまでの結果なんだから、普段通りにしてれば…と思うけど、と伝えたら
「誰もが、どうせ変わらないと思ってる。たぶん、当たり」
本人も内心変わる気全くなし
「変わったらせっかくフォローしてくれた松本先生の期待を裏切ることになるよ。
だから、松本先生にもリラックスタイムを差し上げてね」
「はい〜😂」
で落ち着くところに落ち着いた。
文学少女namiさんのこぼれ話、
書いてたら当時の事が浮かんできて懐かしさがこみあげてきた。
堀辰雄 そして風立ちぬ
もう少し文学少女namiさんを続けよう。そして、これが核心のテーマでもある。彼女が「私の推しの作家小説家」として挙げたのは堀辰雄であった。彼女の言葉の端々に堀辰雄への傾倒が感じられた。卒論のテーマも堀辰雄だったらしい。結果として彼女の「風立ちぬ」論は、誰よりも確固たる信念で貫かれていた。
namiさんの所蔵本「堀辰雄作品がすべて読める全集です!」だそうだ。
そして
こんな雑誌で「読書の秋を決め込んでる」

随分年季の入った雑誌に見えるが、
大学生のころに、古本屋さんで集めた中の一冊らしい。
堀辰雄関連は、だいたい揃ってるとのこと
「堀辰雄フリークが嵩じて軽井沢に住むようになった?」
これはどうしても聞いておきたいことだった。
「偶然も多々ありますが、軽井沢へ行く話しが出た時は、即答で引越しを決めました。(笑)、ここは不思議な町よ。お店も移住も、夢と計画バッチリで来る人は、ほとんど挫折して帰る。勢いとか、仕方なくとか、適当な人の方が、長続きしてる」
堀辰雄を起点として、熱中できる対象とともに生きる正直な人生だったのだろうと思う。
そしてチャンスは逃さない。
さて、ここから本論の「風立ちぬ」に移るのだが、
まず、堀辰雄の原作を読んでることを当然の前提としたハイテンションな発言から。
まわりの人にえっ?って言われるんだけど、
聖子ちゃんの風立ちぬも、ヒロインが死んでしまう歌で間違いないよね?
だって
風立ちぬだよ
風のインクだよ
帰りたい帰れないだよ
死んじゃったでしょ。
心の旅人だよ!
それに、失恋ソングじゃない位置づけでしょ?
堀辰雄の原作を読んでない人のために(読んでいても、もう忘れている人のためにも)ちょっと補足すると、堀辰雄は「風立ちぬ」の前に、実生活の中で後に婚約者になった矢野綾子さんとの出会いを素材とした小説「美しい村」を書いている。この小説のモデルとなった矢野綾子さんは後に胸を病み、作者に付き添われてサナトリウムに入るのだが死んでしまう。その矢野綾子さんに対する愛情と死別を描いたのが「風立ちぬ」。つまり「風立ちぬ」は「美しい村」の続編の位置づけである。
「美しい村」では、ヒロインはまだ少女であって、名前は明かされない。少女と云っても子供ではない、大人になる前のいわばデビュー間もなくの頃の松田聖子みたいな存在といっておこう。すでに作家として活動している男が、昔別れた女性との苦い想い出を引きずりながらまだ避暑客がいない初夏の軽井沢で昔の回想と自然を相手に過ごして、仕事もあるし、そろそろ都会へ帰ろうとした矢先のこと。
ひとりの少女を見かけたとたん一瞬にして恋に落ちたというか、その娘のことで頭がいっぱいの状態になり、帰る予定はそっちのけで、周りの風景までもが変わったように見え、彼女に近づく男に嫉妬心を覚える、といった状況になってしまう。そんな男と少女が、まだ恋愛には至らないまでも、少しずつ心理的距離を縮め始める。その間の男の心の動きが描かれている。
「風立ちぬ」では、ヒロインは節子という名前で、すでに肺病に侵されている婚約者として現れる。そして二人の心理的純愛が描かれ、ヴァレリーの「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句が、作者と病める婚約者節子の人間関係を象徴する言葉として用いられる。最終的には、節子は死んでしまうのだが、もとより永遠の生はない、しかし生きている間は愛情を感じながら生活を続けられるし、死後であっても人は心の中で死を越えた生をよみがえらすことができる。お互いに相手をどれだけ幸福に出来るか、そんな愛で結ばれた二人の永遠の生が「風立ちぬ」の主題である。
こんな小説を若い頃から熟読してきたnamiさん、「風立ちぬ」の話題となるといつでもハイテンションになってしまうのは当然の事だ。
ハイテンション発言はさきほど紹介したが、もう一つ
「心の旅人になっちゃったんだよ
風のインクだよ
そしてローマ字表記のさよなら
帰りたい帰れないのよ
死んじゃったのよ
松本隆の小説ひとまとめテクニックだよ
原作通りだよ」
といった調子。
でも、いつもそうとは限らない。
もう少し落ち着いた発言も残している。
「私は、そういう意味で、堀辰雄の小説を忠実に再現したのが、松本隆の風立ちぬだと思っている。死にゆくヒロインの力強いまでの命に対する決意。まさに死が開いた扉の向こうの生命の尊さを、松田聖子が歌い上げる。そして人々の心に生きようという想いが湧き上がるのだ」
このように、namiさんは松本隆の「風立ちぬ」は原作に忠実だと繰り返し主張している。
原作に忠実の最大のポイントは女性主人公が死んでしまうことだ。
そして、彼に対して私との想い出を大切にして欲しいという願いだ。
それが歌詞にどう表現されているか、具体的に見てみよう。
涙顔見せたくなくて
あなたと一緒に過ごす時間は楽しいものにしようと思っていた
あなたとの想い出が美しいものになるように
あなたの前では涙は見せないって決めていた
すみれ・ひまわり・フリージア
季節が春から夏、そしてまた春と巡り
(そして、いまはもう秋)
高原のテラスで手紙
風のインクでしたためています
(もうあなたのそばにはいない私)
高原のホテルであなたへの手紙を書いています
風のインクの文字はあなたには見えないでしょうけど
SAYONARA SAYONARA
SAYONARA ・・・
さよなら...(とうとうお別れね)
振り向けば色づく草原
(あなたと過ごした世界を)振り向くと、
秋の草原が美しく色づいているのが見える
一人で生きてけそうね
この美しい世界で、あなたは私がいなくても一人で生きてゆけそうね
首に巻く赤いバンダナ
もう泣くなよとあなたがくれた
もう泣くなとあなたがくれたバンダナを今も首に巻いています
(二度と泣かないように)
SAYONARA SAYONARA
SAYONARA ・・・
さよなら、(泣かないで言わなくちゃね)、さよなら、本当にさようなら
風立ちぬ 今は秋
「風立ちぬ いざ生きめやも」
秋になると、あなたがいつも口ずさんでいた言葉を思い出すの
(その言葉の通り、私との想い出を大切にして生きていってくださいね)
帰りたい 帰れない あなたの胸に
あなたのところに戻ってその胸に抱かれたい
でも帰ることはできません
風立ちぬ 今は秋
今日から私は心の旅人
私はもう帰れないけれど、あなたは生きて、そして私のことを思いだしてほしい
そうすれば、私はあなたの心に戻って来ます
私は今日から心の旅人になりますから
どうだろうか
namiさんの思いを想像して解釈してみたのだけど、
あの世で笑っているかな。
さて、namiさんの言葉にもどろう。
「風立ちぬの映画は、いくつかありますが、映画化には無理があり、どれも今ひとつ。
ところが松本隆作品の風立ちぬは、原作に忠実。堀辰雄の世界観を見事に表現。
もちろん松田聖子以外には歌えない」
「野菊の墓は、政夫の回想という形で写実的で絵画のような小説だけど、風立ちぬは、心の動きに焦点をあてた極めて音楽的な作品だから、映画には向かないと思う。松本隆さんは、死にゆく節子の心情を、美しく織りこんで詞を作り上げたと思う。大瀧さんの曲も吹きゆく風をイメージさせるし、原作そのまま」
「堀辰雄の小説をここまで原作に忠実に詩にしてしまう松本隆はやっぱただもんじゃない。歌い上げる聖子ちゃんもまさに小説のヒロイン!
発案の若松Dにも感謝。もちろん大瀧サウンドも
❤」
「堀辰雄は、小説家であると同時に、詩人でもあるから。短い作品に、美しい日本語で抒情を綴じ込める感じかな。文章や構成は音楽的。2つの風立ちぬから湧き上がる、生きることへの情熱と、壮大なロマンの風を感じて欲しい」
「風立ちぬ」をnamiさんがどれだけ深く感じ取っていたか、これらの言葉は彼女のこころを私達に伝えてくれる。
「美しい村」についても、
「こちらは、より音楽的だしね。
なんたって構成コンセプトが、バッハのフーガだもんね!
美しい村、風立ちぬ、と、来たら。
菜穂子、楡の家までね、短い作品ですから、よろしくお願いします!」
と、手を変え品を変えながら、どこまでも堀辰雄への熱愛が続く。
これがnamiさんである。
「あっさりと夢をあきらめてしまい、あとになってそれを後悔する人があまりに多い。生計を立てる仕事に打ち込むことは重要だが、自分が情熱を感じる対象を捨てる必要はない」
こんな言葉を思い出してしまった。
彼女の死後、この「風立ちぬ」についての彼女の自筆メモが公開されたので、
そのコピーへのリンクを貼っておく。
namiさんメモ:風立ちぬ(その1)>
namiさんメモ:風立ちぬ(その2)>
これを見ると、彼女の思いをもっと聞きたかったと思うのだが、それを読み取るのは残された我々に彼女が残した宿題なのだろう。
閑話休題
ある本を読んでいたら、男性が女性に対して「童貞さんになるおつもりだったのですか」と聞くところがあって、「?」となったのだが、調べてみたら、童貞はもともと修道女を意味する言葉だった。
それが時を経て現在の使われ方に変わってきたらしい。
ちょっとした発見だった。
こういう変わった話題はnamiさん見逃さないだろうな、なんて考えてたわけではないが、やはり来てくれた。
「主に男性の意味になったの70年代だってさ!びっくり」
namiさん、もう調べてる(笑)
そこにAngelK👼🏻さんも加わってきた。
「お勉強になりました‼
どうして女性を表す言葉から男性を表す言葉に変化したんでしょうね〜」
彼女はおしゃれ番長の異名を持つ人だが、とても大人で繊細で気配りにたけた人だ。そんなKさんがこの話題に参加してくれたのは意外だったが、嬉しくもあった。
K👼🏻さんの疑問に対して
「女性には別の言葉があるからでしょう、たぶん(笑)」
なんてお茶を濁してたのが失敗、
「テキトーに答えちゃダメでしょ」
とnamiさんから突っ込まれてしまった。
「テキトーで申し訳ない😅、namiさんのお考えをどうぞ🙂」
もうnamiさんに任せるしかない。
「あら 紳士らしいわ」
「修道女や聖母マリアを指す言葉から性行為をしてないって意味になったらしいよ。貞操みたいな使われ方してたのが、小説の中の表現などでだんだん現在の意味になったんだって」
いつのまに調べたのか、言葉に敏感なnamiさんの本領発揮だ。
結局最後はnamiさんのペースになってしまった。
「解説ありがとう😊。
入院患者にこんな作業やらせちゃお医者さんに怒られるな😅💦」
入院生活なのに何してるやらと云いたくもなるのだが、病は気からと考えれば、何かに能動的に取り組むことはきっと良い方向に働くと思いたい。namiさん、いつもおかしな話題に付き合ってくれてありがとう。
「週末のオトナのお勉強タイム、ありがとうございました❤」
K👼🏻さんは最後まで礼儀正しい。
こんな夜もありました。
レモネードの夏
「North Windの中で、男性がカラオケで歌うとしたら、「スプーン一杯の朝」か「しなやかな夜」かな…個人的見解なんだけどね」
こんなつぶやきがきっかけで会話が始まった。
「にどニャン見解メモめもφ(..)
只今まきりん🔔 今になってアルバム『North Wind』の魅力を絶賛発見中
ボッサクさんに初期の3枚ともいいと聞いたので改めてちゃんと聴かなきゃと😆
Twitterで前から初期のアルバムの良さは、よく目にしていました💕」
私が世話してる猫の様子をときどき話題にするせいか、まきりんから「にどニャン」と呼ばれ猫扱いされている。おちゃめは彼女のためにある言葉だ。でも優等生で仕事が早い。
聖界きっての論客ボッサクバーナ氏も横で話を聞いている。
namiさんもいるが、なにか考え事をしているようだ。
「メモはいいけど、私の見解に賛同する人はほとんどいないかも」
「いいの、いろいろな人の見解を聞きたいお年頃なんだから」
ずい分トウのたったお年頃と思うのだけど、まあいくつになってもこれから深く知りたいと思う聖子ソングがあるって、すごくワクワクする楽しいことだ。
「SQUALLの中のクールギャングが好きな人なら私の見解を分かってくれるかな?」
SQUALLは、全体が夏のテーマで統一されているコンセプト・アルバムで、松田聖子が表現する歌の情感がアルバムのコンセプトを見事に表現している。デビューアルバムとして出色の作品なのだが、その中で唯一ブルースの香りがするのがクールギャングだ。しかも、ブルースの香りを重くしないで、アルバム全体の色調にうまく溶け込ませて歌っている。そのあたりが私の好みをくすぐるのだ。
「分かりますよ、どちらも(多分だけど)ブルース音階の曲ですよね。こういう曲を聖子に歌わせたのは小田さんと来生さんだけ。Sweet Memoriesもブルーノートなんだろうけど、ここまできていない。この曲のバックコーラスとジェイクのリリコンのソロが効いていますよね」
ボサノバとジャズが大好きなボッサクバーナ氏が口を開いた。ジェイクに注目するあたりが彼らしい。スプーン一杯の朝とクールギャング、この2曲の共通性について語っているのだ。
「ボッサクさんはわかってくれると思ってた。そうなんですよ。それでこの曲調は、このあと CANARYのParty's Queenまでお預けなんだけど」
ちょっと話が込み入ってきそうなので、まきりんが一時停止のサインを送ってきた。
「二人の会話は、よく分からないけど(笑)
『SQUALL』の「クールギャング」
ちょっと
『The 9th Wave』の「す・ず・し・い・あ・な・た」っぽいところあるね
まきりん🔔見解」
かわいらしいまきりんのイラストは、いつでも人を和ませる。
私とボッサクさんの会話が深みにはまりそうだと察したらしい。
「す・ず・し・い・あ・な・た」がすぐ出てくるあたり、聖子フリーク度は相当高い。
その後、まきりんの一時停止のサインもなんのその、「クールギャング」「スプーン一杯の朝」に「Party's Queen」「す・ず・し・い・あ・な・た」の比較論が進み、曲調のクールとホットの違いなどを言い合っていた。
「ニドガタリさんのクールギャングはクールですずしいあなたはホットという表現は的をとらえていると思う。それは歌詞の世界の差もあるかもだけど、それ以上に曲に使われる音やリズム、その構成の差だと思うの。楽器が出来て音楽理論がわかると、その差を音楽としても理論としても説明できるんだってさ」
ボッサクさんのコメントはいつでも強い主張を持っている。
私は、この4曲から離れてちょっと脱線話をしたくなった。
「クールとホットでちょっと脱線話してもいいかな。
レモネードの夏なんだけど、これが実に平熱というか、恋の熱が全く冷めてしまった相手の男を他人としか見てない女性の平静な気持ちをユーミンのメロディーが心地良く表現してるなぁと聴くたびに思う。松本さんがあの詞を思いついたのも素晴らしいけど」
「平熱でなく、微熱ではないかと。松本隆のトレードマーク。ただ微熱をクールに冷ましたのはユーミンのメロディー」
ボッサクさんは、微熱が大好きだ。
特に松田聖子の歌声の中の微熱をかぎ分ける能力は警察犬なみである。
「いや、私には微熱は感じられないな。
完全に過去扱いだもの。微熱があるとすれば、避暑地に行く楽しみくらい(笑)」
私は生来鈍感なところがあるから、一度は否定してみた。
「そこは私と違う。だって完全過去だったら、青空は少し淋しげじゃないし、薄いスライスを嚙んでも切なさは走らないもの。もう吹っ切ったつもりだけど、どこかに微かに残る感傷が、多分、松本さんの言う微熱」
さすがにボッサクさんの指摘は鋭く、納得するしかない。
でも、もうちょっと議論すべき点が残る。
「なるほどね。でも、女性って一度吹っ切れるともう引きずらないイメージがあるから(個人的印象です)、その微熱は男目線でのものだよね。女性の見解を聞かないといけない問題かな。そもそも一年も経ってわざわざ会ってサヨナラを言うような行動を取るものなのかな」
すると横でひそやかにしていたnamiさんが思い立ったようにこの話題に参加してきた。
「これ、私のいつもの解釈していい?」
「ぜひ」
軽く促したけど、namiさん、なんか深い思いがありそうな雰囲気
その10分後、
「男性が死んでる」
スマホの画面からこの1行が目に飛び込んできた。
えっ! 一瞬絶句
namiさんは余計な説明をせず、ひとことですっぱり表現するくせがある。
まきりんもしばらく沈黙
しばらくして、
「一行の重さが…
衝撃過ぎ
その前のリプからまとめて後で
ゆっくり読むつもりが。
あ、ありがとうございます。
会話続けててください。
なんかその一言が頭から抜けなくて
この曲が普通に入ってこなくなっちゃった
私なりの見解ができない
あ、会話続けてください」
まきりん、ショックが隠せない様子だ。
「その場合、歌詞の「あなたに逢えれば」は、どう解釈するの?」
とりあえず湧いた疑問をぶつけてみた。
「逢えないんですよ」
そりゃそうだ、死んでるんだから。
もう深夜、零時を過ぎていた。
この話題はまだまだ議論が必要そう。
この続きは明日にしよう。
翌朝、早くに目覚めた。
一番にnamiさんにリプを返した。
「これ、nami文学ですね。いろいろ妄想が膨らむものね。
この発想に至ったきっかけはなんだろう?
松本さんの詞にそうだと思わせる表現があるの?」
namiさんからつぎのような歌詞の解釈が返ってきた。
「大切な人を失った悲しみに一年泣いていたけど、二十歳になった今、少し落ち着いて、ひとりでも自由に生きられるようになった。この避暑地で、もし、もう一度逢うことが出来るなら、あなたを涼しげな想い出にできるのに」
あれほど風立ちぬを研究したnamiさんからすれば、必然的なシナリオなのだった。
このシナリオは、namiさんの最初の発言を誘った私の疑問に対する答えでもあった。
実際に逢わなくても、彼との思い出の場所に行って心の中で逢ってさよならを告げれば良いわけだ。
この解釈に対してボッサクさんもリプを返してきた。
「曲調やサウンドが明るくて聖子のキャラがあるから、namiさん以外は誰もそんな解釈しないけど、字面だけならあり得ないわけじゃないかな。元カレとの思いをふっきるために思い出の高原避暑地に来た少女。この少女を風立ちぬの少女と同一とすれば・・・ね。
だっていくら過去の思いに落とし前をつけるためとはいえ、その元カレに思い出の場所で再会を狙おうとは普通はしないわな。私はあくまで詞の中でのことだからと解釈していたけど、そういう背景なら十分にあり得るよね。だって、実際には逢うことはないから」
ボッサクさんもnamiさんの解釈はあり得るというか、むしろ自然な解釈だと感じたようだ。
そして、このあと、namiさんは
「グッドバイ・サマーブリーズ」
とだけ書いてきた。
竹内まりやが歌った曲だ。
グッドバイ・サマーブリーズ 私は忘れない
幸福の涙に目ざめたあの朝
グッドバイ・サマーブリーズ 失って気づいた
誰よりもあなたを深く愛していた
何もいわずにあなたは消えた
なにも出来ずに夏を失くした
グッドバイ・サマーブリーズ 許されるものなら
もう一度会いたい 愛を告げるために
レモネードの夏、
ユーミンの平静な曲調の中で紡ぎ出される物語、
久しぶりにnami文学に触れた思いがした
補足するかのようにnamiさんがリプを追加してくれた。
「女ってさ クールに見えても、ドライではない」
namiさんの短くて端的な言葉は読み手を考えさせる。
「女ってさ」といっても、これは自分のことなんだろうな。
この言葉にボッサクさんが反応した。
「それは聖子のレモネードの夏の歌声を聴くとわかる。ニドガタリさんの言うユーミンの淡々としたメロディーを感情を抑え気味に歌うのだけど、”噛めばせ・つ・な・さっ”がとか”もォうぉ、こいなど”、”日・しょっ・地”の声の擦れ方とか、端々に感情がプチっと染み出すのよね」
ボッサクさんの聴覚の中の嗅覚がまた始動した。
「泣いてるよね」
namiさんがひとこと。
そう、松田聖子の歌声から心の涙を聴き取ったnamiさんには、あの解釈しかあり得なかったのだ。
「携帯開けたらすごいことになってました。
nami文学は私には難しいです(笑)」
昨夜のショックから立ち直れたのだろうか。
夕方近くなってまきりんが遅れて会話に参加してきた。
「私の中では、レモネードの夏の女の子ってね、あざと女子なの。
そもそも一年も経ってわざわざ会ってサヨナラを言う
この子の想いなんだけど、
振られて辛い思いをしたけど今はあなたがいなくても平気よということを見せたかった。
今の私を見てそっちが後悔とまでは言わないけど、
少しは ばつが悪い感じになったら私はスッキリするわ、
ひと足早いレモネードの夏
好きだった分、にくらしいのもある
ちょっと強がる感じの女の子
この子の20才はまだ 大人と子どもの間の微妙なところにいるのかな。
私の見解はこちら
先にnamiちゃんの解釈を聞いたので私の解釈が余計地味で目立たない普通のものになってしまったけど」
昨夜のnamiさんの発言をどう受け止めたら良いか、自分の考えを整理していたのだろう。
このまきりんの解釈は歌詞をその言葉のまま受け止めた解釈で、たいていの人はこのまきりん説のように受け止めているかもしれない。
「その解釈がもっとも素直で、良い意味で一般的、つまり、みんなが理解しやすいものだと思うよ。曲調やサウンドと組み合わせて聴けば、そう思うよね。」
とボッサクさんも理解を示す。namiさんの純愛路線とまきりんのあざと女子路線、どちらが正しいということはできない。どちらの解釈もあり得る。私はもう少しまきりん説を深堀したくなった。
「私もこれまでまきりんのように解釈してたんだけど、男性からするとちょっと嫌味なサヨナラだなと思わないでもなかったわけ。それがnamiさんの解釈だとまるで違って二人の純愛物語が妄想できるじゃないの。面白いよね」
まきりんも、自分の考えをさらに深める必要を感じたのか、一晩考えて、翌日、つぎのような説明をしてくれた。
「ちょっと嫌味なサヨナラ、そうだと思います。
でも、「葡萄姫」を思い出してみて。
「葡萄姫」の同窓会後、二人で思い出の丘の上へ行くよね。
「可愛い奥様に叱られるわ離れてよ」のところ、
奥様というワードを出し可愛いとまで言う。
自分も意思を持ってそこにいるのに。
その心理も言動も実は女子なら解る。
葡萄姫子の容姿も絶対可愛い。
あざと可愛い葡萄姫子
女子は あざといとこあるよ
自分が満足したいの。
松本隆先生は女の子の心の機微を表すのがとても上手でさすがだと思います。
「レモネードの夏」のサヨナラのしかたも現実にありそうだし、「葡萄姫」のあのシチュエーションもありそうです(あそこまでロマンティックではないにしても)
純愛もきれいで大好きです
ただ、一昨日夜 通知で見たnamiちゃんからのあの一行の衝撃、
ボッサクさん、ニドさん、私にしか分からないと思う」
純愛女子とあざと女子、この会話いつまでもつづきそうだ。そして、まきりんの最後の発言が松本隆さんの目に留まったらしくて、そのことでまた話を続けた。
まきりんの解釈を読むと、別れて一年後に突然会いたいと言われた男性側の心理も考えたくなる。もし会うことを承諾するような男なら、あの子、ずっと自分のことを引きずってたんだ、可愛いところがあるな、よりは戻せないけどちょっと慰めるくらいの事は言ってやろうか、みたいな自己中の上から目線だろうと想像がつく。それで、実際に会ったら、あざとかわいい女の子からあっけなくサヨナラ言われてポカンとしている。そんなシーンが思い浮かぶ。
「一年間は泣いて過ごしていたんでしょうね。
純粋とあざといは表裏一体なのかもしれないね。
本当に純粋な女の子なんていないと思うし(男性は、いてほしいと思うだろうけど)。
いたらそれは大人じゃないと思う。
でも私はこの子、かわいいと思います♪
前に進めるんだからいいんじゃないかな」
純愛女子とあざと女子、議論は尽きない。
「すっかり出遅れで今さら何をいわんや、なんだけど、ひとつだけ。音楽でもっとも重要なのは詞以上に歌であり演奏なの。レモネードの夏では聖子の歌が一番、素晴らしい。聖子の歌が伝えるのは言葉になる以前の感覚的な爽やかさ、初々しさ、明るさ、一抹の哀感、それらすべてひっくるめてそれ以上のも
だからこそ、それから触発されて聴き手の感情が動き、それが言葉となる。人によって感情がどのような言葉を選ぶかは様々だから、それゆえ様々な解釈が生まれる。聖子の歌を好きでしっかり受け止めて解釈する限り、どんなものでもそれは正しいの」
一連のやりとりを横目で見ていたボッサクさんがまとめてくれた。
そう、一番大事なのは歌そのものだ。
歌をしっかり受け止めた後は、その解釈は聴き手の自由。
「何度も言いますが
それが聖子のすごいとこ
私が主人公になれるスペースが、聖子の歌には用意されてるってわけ、
はっきり言ったら、どんな曲でも聖子が歌えば、そうなっちゃうの」
松田聖子の歌声に人一倍敏感なnamiさんらしい。
「聖子ちゃんは歌姫なんて俗な存在を超越した妖精だ」というのがnamiさんの松田聖子評だった事を思い出す。
「ボッサクさんのを読んで、聖子ちゃんがすごいってことを言おうとしたらnamiちゃんが言ってました。
どんな解釈でもいいし、でもこうやって自分なりの解釈をあれこれ話してるのも楽しいからこうしてるわけであって、それを松本先生も たまたま見てくれたならそれで良かったと思います」
まきりんはいつもみんなを和ませる。
「ところで、話戻すけど、元カレにあてつけがましく、サヨナラを言いに行くなんてのは、男には全く考えられない行動(私なんて、元カノに元気?だけでも言うのに25年くらいかかったぞ!)なんだが、女性はそんなことするもんか?女性でも自分の可愛さに絶対の自信を持つ聖子みたいな人だけでねぇの?」
えっ、ボッサクさん今頃それ言う?
namiさんが即座にフォローしてくれました。
「それは、マキりんが説明してる、あざとかわいい💕女が、やるんだよ」
追記:
namiさんは、病院生活で死を身近に感じていたせいもあるのかもしれないが、「私自身が、大正~昭和初期のロマン派なので、ヒロインは死んじゃう系」といっていた。
そして、聖子ソングに関して
私の中では、
風は秋色
風立ちぬ
天国のキッス
花一色
野ばらのエチュード
などは、死んじゃう系
と自説を述べていた。
風立ちぬ以外は、個々の説を具体的に説明する事はなかったが、それでもどことなく推測する事ができるような気がする。
そうした死んじゃう系の歌解釈で一番驚いたのが、上のリストにはないレモネードの夏についてだった。
風立ちぬ、レモネードの夏については随分語ったが、namiさんが死んじゃう系といっている野ばらのエチュードも堀辰雄の影響下にある作品なのかもしれない。野ばらは「美しい村」で何度も描かれる象徴的なモチーフなので、namiさんの解釈を聞いてみたかった。
風のインクで
聖夜namiさんこと美夜子様へ
拝啓
もう八月、今年の夏も各地で猛暑が続いています。
あなたがいなくなってそろそろ三ヵ月になりますが、そちらの生活を聞くわけにもいかないので、こちらの様子や思い出すことなどをお伝えしようと思ってこれを認めています。
あなたがいなくなった直後は、多くの人があなたとの思い出を懐かしく思い出し、そしてもう交流できないことを残念に思うツイートが溢れていました。最近はそれも一段落して、以前の落ち着きを取り戻しています。あなたのお友達がnamiさんの名を引き継がれて、あなたが残したメモなどを公開して下さるのですが、そうした遺稿以外の発言でも、あなたが書かれているのではないかと思うようなものあり、時々あなたがまだいるような錯覚に陥ることがあります。あなたの事を本当に深く理解されている素敵なお友達ですね。
今年は初盆なので、あなたとの思い出を少しまとめておこうと思い、過去のツイートを読み返していました。たわいないものも多いのですが、時々、ああこんなことも話してたんだと思うような話題もあるのに気づきました。その中から私が印象にのこっている話題を書き出してみたら、案外と分量が多くて、会話の頻度はそれほど多くなかったのに、それなりに楽しい会話をしてきたんだなと自分でもちょっと驚いています。
あなたがツイッターを始めてまだ間もない頃に、私の事をせんせーと呼ぶようになったきっかけとか、堀辰雄と風立ちぬについてのいろんな話題、そして衝撃的なレモネードの夏の話など、読み返すたびにnamiさんならではの印象がよみがえってきて、いまさらながら私のツイッター生活の大切なパートナーだったのだなと思わずにはいられません。
あなたが自分のお母さんのことを私に書いてくれたことがありましたね。
ちょうど令和の年号が発表された頃です。
私が「令和の由来となった万葉集の梅の花の歌32首の序文は、福岡県生まれですね。
聖子ちゃんに同郷の新たなライバルあらわるって感じかな」なんて書いたのがきっかけでした。
そしたら、あなたが
「おー!せんせー、福岡かー!よくわかったねー!
私なんか この序文が、少しずつ春の出典かと思ってたよ(笑)」
「私、万葉集のこの辺、中学の時はまってたんだよね〜」
と書いてきたんですよ。
中学生で万葉集にはまったなんて早熟だねと思ったので、そう返事したら
「お母さんが短歌つくってたの その影響があったから」
「お母さんは とても情緒的な人だった、お散歩しながら 小さな花や水たまりなんかで物語を作ってくれた」
とお母さんのことを書いてくれた。
私は、中学生でお母さんの趣味に興味を持つなんて、いい親子関係だなと思ってね、
「nami さんがそのお話を聞いてくれるのが嬉しくてお母さんは話を作ったんだと思うけれど、でも、そういうお母さんの感受性をnamiさんも引き継いでいるところがあるね。多分」
と思ったことをあなたに伝えたわけ。そしたら、
「そう言われると嬉しい。お母さんの日本語は正しく美しくて、私は文学が大好きになりました」
と返事が返ってきた。
ああ、namiさんの文学好きのルーツは大好きなお母さんだったと分かって、その素敵な関係が自分のことのように嬉しく思ったので、
「素敵なお母さんだね」
と気持を伝えた
そうしたら、
「ありがとうございます。
そんな話に付き合ってくれる せんせーも素敵な人ですね!」
なんて言われてね。
気恥ずかしくなったけれども、ありがたい事です。
こうして文学少女namiさんとの思い出を書けたのも、さかのぼれば素敵なお母さんのおかげですね。
堀辰雄の風立ちぬの中に、こんな文が出てきます。
「あなたのいつか仰しやつたお言葉を考えだしたら、すこうし気が落ち着いてきたの。あなたはいつか私にかう仰しやつたでしょう、―― 私達のいまの生活、ずっとあとになって思ひ出したらどんな美しいだらうって・・・」
病室で不安な思いに駆られている節子が、この言葉を思い出して救われた気持ちになる場面です。
namiさんとの会話をいろいろ思い出していると、私も節子の気持ちが分かるような気がしたものだから、それでちょっと引用させてもらいました。
namiさんが多くの人に残したいろいろな思い出が、その人ごとの美しい思い出になっているのだろうと信じています。
そんな思い出をこうして認めているのだけど、心の旅人になってしまったnamiさんには読んでもらえるのだろうか。
心の旅人は風のインクで手紙を書くようだけど、こちらで書いたものは風のインクのようにそちらでも見えているだろうか。見えていると信じて、風のインクにのせてこの手紙を送ります。
敬具
2023年8月5日
ニドガタリ
あとがき
2023年5月、彼女はこの世を去った。彼女と交流のあった人は、みなそれぞれに彼女との忘れ難い思い出を持っていることだろう。私も淡交だったが彼女との想い出があり、それらを書き留めておかないと時と共に忘れてしまいそうでいけない。
そんな思いでこの数か月を過ごしてきたものだから、個人的な想い出ながら、初盆を前にこうして文を認めた次第である。
この文は、彼女のある一面、特に私が残しておきたいと思う彼女の文学的側面を抜粋している。一方で、彼女のユーモアにあふれたサービス精神にはほとんど触れていないことはお詫びしなければならない。彼女のサービス精神とそれを暖かく受け止めた多くの人たちとの交流が彼女の闘病生活を支えたのは間違いない。そこは彼女と交流のあった一人一人の心の記憶として大切に残されているものと思う。
私が書いたことは偏った一面かもしれないが、彼女の想い出を大切にしている人にとって、なんらか感ずるところがあれば幸いである。