松田聖子 Why?

 松田聖子が歌手デビューしたのは1980年だった。もちろん当時の人気の高さは感じていたし、彼女の歌も好きだった。とはいえ、私の1980年代は多忙の極みであり、TVの歌番組も細切れの時間の合間に見ていた程度で、ファンといってもライトなものだった。そして、平成の年になってオーディオを再開し、いろいろな音楽を聴くようになって、松田聖子もその中の一人だったけれど、クラシック音楽やJazzのレコード収集に熱中していたこともあって、松田聖子だけを特別視することはなかった。そして年月を経るにしたがって年相応に仕事への傾倒が深まり、彼女の存在を意識することも少なくなっていった。

 それが、2010年頃からYouTubeなどの動画サイトの発達によって昔の歌番組などが見られるようになり、その中で歌う松田聖子の懐かしい動画を見ながら、あぁ、なんて幸せな気分にさせてくれる歌なんだろうと感慨深く見ていた。そこまでは、まあ懐かしさに浸るくらいだったのだが、ある日、著名なJazzピアニストのボブ・ジェームスと東京JAZZ2012で共演したときの音声動画を聞いてひっくり返った。ピアノだけの伴奏で歌が流れたのだが、愕然とした。若い頃の少女のようなかわいい歌声ではなくて、成熟した女性の歌声でメッセージを伝える一人のアーティストがいた。感動とともに、「これが、あの聖子ちゃん?すごいなぁ。こんなに深い表現ができるって、これまでにどんなふうにして成長してきたんだろう?」と思った。

 その音声動画を何度も見直したというか、何度も聴き返した。

 東京Jazz2012の最終日のスペシャルゲストということで聖子ちゃん登場。ゲスト紹介で拍手に迎えられて挨拶が始まると思いきや、ジャズファンだらけの会場の雰囲気に違和感を感じたのか、普通の聖子ちゃんのコンサートなら「みなさんこんにちはー、松田聖子です」と通例の挨拶をするところ、最初の声が「ヒヒッ(笑)」。まあ聖子ちゃんらしい登場の仕方だった。これで会場が和み、「上を向いて歩こう」での軽くスイングしながらの歌は、まあジャブ程度だったけれど、そのあとの「Put Our Heart Together」が凄かった。これにやられた。

 演奏の前にボブ・ジェームスが曲ができた経緯を説明して(東日本大震災の被害を目にしてショックを受け、日本のために何か貢献したいということでボブ・ジェームスが作曲し、彼の娘さんが作詞したという経緯の説明)、「これは今週発売される新しいアルバム Esprit De Four に入っていて、松田聖子さんが歌ってくれていますが、今日は親密な感じのデュエット・バージョンで演奏します」といったのを松田聖子が引き取って、改めて日本語で曲紹介をしてから、英語でボブ・ジェームスへのお礼の言葉を述べた。

 "Bob..., Thank you so much for writing such a beautiful song for Japanese people. This song really encouraged us, and I am so lucky to sing this song with you tonight. Thank you so much."
「ボブさん、こんな美しい曲を日本の人々のために作ってくださってありがとうございます。この歌は私たちを本当に勇気付けてくれました。今夜、あなたとこの曲を歌うことができて、私は大変幸せです。本当にありがとうございます」

 このボブ・ジェームスへのお礼の挨拶が心がこもっていて、最後の "Thank you so much" が本当に美しく聞こえた。

 ボブ・ジェームスによるイントロのピアノの音が優しく流れ始めた。そして、ハミングで歌が始まった。

 自分の知っているポップな松田聖子とは違っていた。そして、すぐに歌に引き込まれた。ピアノと歌の素晴らしいインタープレイに我を忘れて聴き入った。歌が終わって、ラジオ中継の解説者もちょっと興奮気味に「素晴らしかった。ピアノとボーカルだけであそこまで深い世界を表現している。二人の音楽の会話ですね」と感想を述べていたが、まったく同感だった。幾多の逆風を乗り越えて歌い続け、いぶし銀のような味で音楽を表現できる大人の歌手となった松田聖子が私の前に現れた。

 これを聴いて、80年代の初々しい姿からここまで成長を遂げてきた松田聖子の歌をもう一度真剣に聴いてみようという気持ちになり、CDやDVDを徐々に揃えて聴き込むようになった。そうして、一人の才能に恵まれた歌手の数十年にわたる成長の過程を追っていると、若きアイドル時代の様々な色合いに加えて、予想以上に広く深い世界が待っていた。彼女自身が長期にわたって取り組んできた様々な試みを追体験していくと、いくらでも新しい発見が出てきて、こんな文章を書くまでになってしまった。これまでいろいろな音楽を聴いてきて、自分なりの音楽の嗜好を持っていたのだが、その自分なりの蓄積は彼女の歌を理解することにつながっていた。

 下の動画が私を松田聖子の深い世界に引き込んだ東京Jazz2012の音声動画である。何度聴いても素晴らしい。単に声がきれいとか音程がしっかりしているといった教科書的な上手さではない。人の心に深く沁み込んでくる上手さとはこういう歌のことを指すのだ。誰にでも、一生のうちに何回かは音楽に感動する瞬間があるものだが、これは私にとってその貴重な瞬間であった。そして、自分の音楽的嗜好に彼女の歌の世界が重なる出会いの一つとなった。