思い出を少し



第1章
アルルの跳ね橋


アルルに多くの人は何を連想するのだろう。南仏の明るい太陽、メリメの有名な戯曲アルルの女、ゴッホのアルル滞在中の絵、メリメの戯曲を題材にとったビゼーの音楽といったところが普通の日本人の反応ではなかろうか。私はといえば、まずゴッホだ。小説「炎の人ゴッホ」に描かれる狂気に満ちた太陽のぎらぎらした日差し、湿度の感じられない乾いた風、日本的な情緒を一切拒否した大陸の中央に位置する町。そこでゴッホは療養所生活をしながら周囲の風景を絵画にしていった。多くの人は、強い日差しを感じさせるゴッホの絵を通してアルルのイメージを作ってきたはずだ。海外旅行が一般化した今では、実際に現地にいって自分の目で見た人も多いだろう。だが、私の心の中のアルルはゴッホの絵のままだ。そして、ビゼーの音楽、アルルの女に描かれる感覚的な風景が合わさっている。

ビゼーの作品は、単純ながら美しいメロディーを持った名曲である。クラシック音楽の入門曲として、誰しも聞いたことが記憶があると思う。なかでもフルートの美しいメヌエットや、タンブランと呼ばれる長太鼓が活躍する華やかなファランドールは、一度聴けば忘れられない音楽である。また、アルルの教会の鐘の音を模したカリヨンや、ゆったりとした田園風景を描写したパストラールなども印象深い。

私も、中学時代に17cmのEP盤レコードを買って、電蓄で何度となく聞いたものだ。当時は、レコードの価格が世間一般の所得に比べて相対的に高価であったため、クラシックでも小曲は17cm盤が売られていた。当時の価格で500円であったと覚えている。このレコードのジャケットには、ゴッホが描いたアルルの跳ね橋(ラングロワ橋)の絵が使用してあった。当時は、その絵がゴッホの作品であることなど知らなかったが、全体的に黄色の色調でフランスの田舎の風景を描いたジャケットが、ビゼーの曲とぴったりマッチしていたので妙に印象深く覚えている。演奏はフランス音楽を大変得意にしていたエルネスト・アンセルメ指揮スイスロマンド管弦楽団であった。

今思うと、当時クラシック音楽のことなどほとんど知識も無く、指揮者や楽団についても全く気にしないで購入したはずだが、偶然にもビゼーの曲を聴くのにふさわしい演奏者のレコードであった。子供心にもアルルの明るい太陽とそこに根づく土俗的な香りを感じさせる、美しい演奏であったように思う。この17cm盤はどこに行ったのかいつのまにか紛失してしまった。ただ、アンセルメの演奏が懐かしいので、このアルルの女とカルメン組曲を一枚にまとめた30cm盤は購入してある。アンセルメのこの演奏は人気があるので何度も再発売されているが、私の購入したLPのジャケットは、表面は闘牛場のシーンを描いたイラスト、裏面は、17cm版と同じゴッホのアルルの跳ね橋となっていて、カルメンとアルルの女のカップリングにふさわしいデザインとなっている。

ビゼーのこれらの曲目は、アンセルメ以外にクリュイタンスなど有名な指揮者での立派な演奏をいろいろ聞いているが、懐かしさの点では、アンセルメが一番である。もちろん、クリィタンスのアルルの女の演奏は私も素晴らしいと思う。音楽が自然に流れ、私がこの曲に求める瀟洒でロマンチックな雰囲気と、そこで演じられるドラマを彷彿とさせるような演奏だ。最初に聞いたレコードがクリュイタンスのものであれば、それはそれで私の中では大事な思い出になっていただろう。ただ、私は、アンセルメとクリュイタンスのどちらの演奏が良いかを論じるつもりはない。これ以外にもいろいろな演奏があるし、それに対していろいろな感想があり、その時々の自分の音楽に対する反応の仕方も変わってきている。

一つの楽曲をいろいろな指揮者で聞き、どの演奏が良いかなどと考えるのは評論家の仕事である。一般的には、音楽的な感動を生む名演奏であることは重要だが、個人的な感動を生む要素はそれだけではない。その演奏に接した頃の自分の状況とその音楽を重ね合わせたさまざまな想いが感情の高まりを生むのだと思う。レコードを聴く楽しみは、単にそこで奏でられる音楽を楽しむだけにはあらず。その音楽に接した頃の記憶を呼び戻すことによって人生を振り返り、楽しかった時のこと、苦しかった時のことなどを走馬灯のように思い巡らしたり、これから先の人生を考えてみたりすることで時間を旅行する楽しみを与えてくれることにある。私は演奏家でも評論家でもない。一人の聴衆として音楽をいろいろな形で楽しめばよいと考えている。特に多感な青春時代に出会った音楽は、一生の宝だ。この頃に自分の中で永遠に価値を持つ音楽に出会ったことは幸運だった。

作家の故・五味康祐氏が、「金も無く、わずかのレコードを何度も繰り返し聞いていた若い頃のほうが音楽を深く聞いていたのではないか、今はレコードを思うように購入できるようになったが、かつてのような感動が薄れている気がする」 といった記述をされているが、私もそれを感じる。時間的な制約や、周囲の環境もあり、青年時代のように音楽に浸ることができにくくなっている。そういう時間を持てる時は人生の中でもわずかな期間なのかもしれない。純粋な時間を持つことは、ますます難しくなっていくのだろうか。新しい音楽に接して若い頃のような感動を得ることは、もはや難しくなっているのかもしれない。そう考えると、わずかながら青年時代に培った思い出が本当に大切なものに思えてくる。アルルの女から話が脱線してしまったが、願わくは、若い頃の感性をもう一度取り戻したいものだ。

第2章
ベートーベン


私は、山陰の鳥取県のほぼ中央部に位置する小さな町で生まれ育った。レコード店はバスで30分ほど離れた倉吉市に2軒あった。どちらもそれほど大きな店ではなく、その頃としては標準的な個人経営の店であった。品揃えがどうであったのかまったく記憶にない。それでも音楽を聴き始めたばかりであったので、クラシックの入門曲を購入するのに困ることはなかった。中学時代は、小遣いなどほとんどなく、自分でレコードを購入するなど思いもよらなかった。実際中学卒業まで、レコードは両親が購入した2枚しかなかった。そのうちの一枚が、ベートーベンの第9交響曲「合唱」であった。

このレコードは、私の父が倉吉のロンドンレコード店で合唱はないかと店の主人に聞き、店の主人が何枚か紹介してくれた中で、一番低価格のものを選んだものである。なぜ私がその時、父と一緒にいたのか憶えていないが、私は“合唱”が交響曲の名前であることを知らなかったため、父が何のレコードを買おうとしているのか理解できなかった。父は当時、小学校の教員をしていたから、小学生向けの子供のレコードでも買おうとしているのかと思って、父と店の主人のやり取りを横で聞いていた。父はなぜレコードの値段に差があるのかを問いただしていた。それに対して店の主人は、演奏や録音に違いがあるのだというような答をしていたように思う。結局購入したのはfontana(フィリップスレコードが廉価盤をこのレーベルで発売していた)のレコードであった。1枚1200円の最も安い合唱のレコードであった。

この合唱の演奏はどうであったか。そのころ電蓄のレコードプレーヤ部分の出力をテレビのアンプに接続して、テレビから音が出るようにしていた。そのような入力端子がテレビに付いていたのを利用したものである。レコードをプレーヤに置き、おもむろに針を下ろす。初めて聞く曲だからどう始まるのか分からない。じっと耳を凝らしている。父も一緒だった。第一楽章の開始。なにやら音が鳴っているようだが、良く聞こえない。なにしろ簡易再生システムであるから、第9交響曲の開始の音がほとんど鳴らず、音楽にならないのである。それでも中高域の音を頼りに聞き続ける。どうも雰囲気がでない。なにやらボソボソ演奏しているしている感じで、退屈な音楽に聞こえる。父も、前に聞いた感じと違うなあ、などといっている。前にどのような演奏を聞いたのか知らないが、たしかに、このレコードから聞こえてくる音はどうも冴えない。私も次第に退屈な気持ちになってきた。という訳で、初めての名曲体験は、感動とは程遠いものであった。ちなみにこのレコード演奏は、フランツ・コンビチュニー指揮、ライプチッヒ・ゲバントハウス管弦楽団の演奏であり、これは当時東ドイツの代表的な指揮者、楽団の組み合わせなのである。

その後、再生装置が良くなるにつれて、演奏のよさも分かるようになってくる。今聞き直すと、大袈裟になるところがなく、素朴な美しさにあふれた実にいい演奏なのである。ある意味では、玄人好みの演奏であるともいえる。第9といえば、祝典的で大袈裟な表現の演奏が多いが、このレコードの演奏は、そのようなところが全くなく、交響曲としての純粋な美しさを感じ取れる表現をしている。特に終楽章後半での女声合唱の美しさは、宗教的ともいえる雰囲気があり、聞いていて本当に心が和む。初めて聞いたとき、良く分からなかったのは、音楽自体の高尚さもあるが、それ以上に、やはり再生装置の問題が大きかったのだろう。再生装置は、やはり音楽家の意図を十分汲み取るだけの品質を持たないと、同じレコードを聞きながら違った印象を持ちかねない。演奏家にスター性を要求するレコード会社では、この地味な演奏は売れないと判断しているのか、このレコードは廃盤になったまま再発売されていないので、今や個人的には貴重盤である。

こう書いてきたが、最近CDでベートーベン交響曲全集が発売されるなど、コンビチュニーが再評価されているようだ。

合唱を聴いたのとほぼ同じ頃に「運命」にも出会っている。私がこの曲と自分のレコードで出会ったのは中学3年ないし高校一年であったと思う。演奏は、確かジョージセル指揮クリーブランド管弦楽団だったはず。17cmの小さなLPで聴いた。そのレコードは、再生装置によっては最後まで演奏できないかもしれませんといった注意書きがあるほど、両面にぎりぎりまでカッティングされており、17cm版としては驚異的な長時間レコードであった。このレコードはなぜか行方不明になってしまったが、きっぱりとした明解な演奏であったような印象を持っている。1960年代のセル/クリーブランドといったら現代管弦楽団の最高峰ともいえる評価を受けていた組み合わせである。その後、この組み合わせでの運命を聴く機会を長く持たなかったが、久しぶりに聴いてみると、予想通りきびきびした演奏で、ベートーベンの音楽の要求する重厚さとは少し離れている気もするが。

ベートーベンの音楽が、自分のクラシック音楽に対する興味を深めてくれたことは間違いない。いろいろ書きたいことがあるが、ただ、若い頃に比べて、ベートーベンを聴く機会が少なくなった。他の曲を多く聴ける環境になってきたことにもよるが、それよりも、音楽を受け止める自分自身の変化の方が大きい。ベートーベンの音楽は人を慰め勇気を与えてくれる音楽である。苦しみを背負っている人はベートーベンの音楽により共感を得るだろう。日本が全体として貧しかったころは、人は人生に悩み、ベートーベンは多くの人に力を与えた。しかし現代の日本は、そうではない。私自身も日常の喧騒に流されてしまうことが多くなった。じっくり自分と向き合うことが少なくなっている。ベートーベンを聴くことは、自分と向き合うことである。音響を表面的に聞いたのでは全く意味が無い。もう一度本当にベートーベンを聴ける日はいつだろう。