レコード事始
自己紹介の続きを少し


田舎育ちなもので、あまりコンサートに行くこともなく、ひたすらレコード音楽の世界で音楽とつきあってきた。レコードという言葉も死語になりつつあるが、私個人は、今でもCDよりLPレコード(アナログレコード)に愛着を持っている。ついでにいうと、LPレコードは今でも中古レコード屋で購入している。(物にもよるが)安いのと、ジャケットデザインが良いのがLPの魅力である。もちろんCDも買います。

以下は、私の音楽事始めといった文章です。個人的なことなの読み流してください。

レコード音楽に興味をもち、その再生を趣味としてもう随分の時が流れた。私が最初にレコードの音に魅力を感じ、その再生装置に興味を抱いたのは中学三年の時である。もちろんそれまでにもレコードを聴いたことはある。私の中学時代である1960年代中頃は、ステレオが家庭電化製品として急激に普及し始めた頃であり、家具調の大きな電蓄といった風情のステレオ装置が友人の家に置かれていたことを思い出す。しかし我が家にはステレオなどなく、ビクターの小さな電蓄があるのみであった。この電蓄が我が家にいつ入ってきたのか、多分私が小学生のころだと思うが、正確な記憶はない。

最初に出会ったレコードは、このようなホームミュージックであった。収録曲は、健康的で夢を誘うような子供時代を思い出させる懐かしい音楽ばかり

A面:①森の鍛冶屋、②白鳥、③シンコペイティッド・クロック、④カッコー・ワルツ
B面:①森の水車、②牧場の朝、③軍隊行進曲、④ドナウ河の漣
かつては、収入にくらべてレコードは高価であった。我が家にもレコードといえば、The Music for your Room「音楽とともにある部屋」というコロンビアの10インチ盤が一枚あるのみであった。これが電蓄でかかる唯一のLPレコードであった。このレコードの裏には1960.11と印刷してあるので、1961年頃に購入したのかも知れない。当時は電蓄やステレオを買うと電気屋がおまけとしてレコードを付けてくれたりしたことがあったから、ひょっとすると、そういったレコードであったのかもしれない。このレコードは現在も保有しており、時々かけることがある。盛大にノイズがでるが、それでも「森の水車」「カッコウ・ワルツ」など子供向きの軽快な音楽であり、演奏である。次男が小学三年生のとき運動会のマスゲームで踊ったときの音楽が、アンダースン作曲の「シンコペーテッド・クロック」だった。この曲がちょうどこのレコードにパーシーフェース管弦楽団の演奏で入っており、聴かせてやったら大喜びで、家の中で運動会でやったダンスを披露してくれた。

このレコードには、ハモンドオルガンの演奏で「カッコウ・ワルツ」と「ドナウ川の漣」の2曲が入っており、中学時代にオーディオに目覚めたとき、このオルガンの低音部の響きがどれだけ豊かに聞こえるを自作装置でいろいろ試したことを憶えている。今聴くとそれほど大した音ではないのだが、当時はそれでもなかなかそれらしい音がでなくて苦労したものである。このレコードを良く鳴らそうと真空管アンプを自作したり、スピーカ・ボックスを作ったり中学時代にいろいろ取り組んだことが今につながっている。こんな思い出もあって、このレコードは私にとってかけがえのないものとなっている。発売されて30年以上を経てなお家族に喜びを与えてくれるレコード音楽。こんな素晴らしいものが存在するのだ。どんなに古くなろうと大切にしなければならないと思う。レコードには、それが制作された時代の雰囲気、精神といったものが音楽とあわせてタイムカプセルとして封印されているのだ。その封印を解き、そこから時代を感じ取ることが、目まぐるしい現代を生きるのにどれほどの糧を与えてくれるか知れない。

こういったレコードとの最初の出会いは現代ではあるのだろうか。音楽はTVから絶え間なく流れ、次から次と消費されていく。音楽だけではない。あらゆる品物がそうだ。刹那的な生き方で良しとする風潮。そういった中で本当に大事なものを見つけていくことが難しくなっている気がする。人間をネクラとネアカで分類し、ネアカを良しとすることで軽薄な考え方が広まってきている。過去にこだわるのは古い人間とレッテルを貼られるのがおちだ。しかし、時が経てば現在はいずれ過去になる。過去を大事にしない人は、結局は現在を捨てることになるのではないか。私は、幸いなことに若いときにクラシック音楽が好きになった。クラシック音楽などネクラの人間、またはエリートの聴くものだという人いる。しかし、長く価値を保ち続けるものが自分の感性と一致していることの喜びが、そういう人には分からないのだ。中途半端なものは30年もすれば消え去ってしまう。音楽に限らず、長く価値を保つものを選ぶ目を持ち、本当に良いものを評価できる人間でありたいものだ。