The History of Record and Recording


揺籃期のレコード業界

1877年、1887年、1925年、1948年、1958年、1979年、1982年。これらは、レコードの技術的発達におけるターニングポイントとなった年である。最初から、トーマス・エジソンによる円筒型蓄音機の発明、エミール・ベルリーナによる円盤型レコードの発明、アメリカ・コロムビア・グラフォフォン社による電気式録音によるレコードの発売年、LPレコードの発売年、 ステレオLPレコードの発売年、デジタル録音レコードの発売年、最後がコンパクトディスク(CD)の発売年を示している。今日では、音楽の録音再生メディアとしてCDが当たり前のように普及しており、誰でも気軽に音楽を楽しめる状況になっている。エジソンの発明からCDまで、約100年間に渡る技術の進歩が音楽を聴く楽しみを人類に与えてきたと同時に、そこには様々な開発のドラマとがあり、開発者の音楽再生にかける情熱が今日の状況を作り上げてきたといえる。蓄音機の発明からCDまでの歴史は、技術と音楽の蜜月の歴史でもあり、技術が芸術に贈った最高の贈り物といえよう。

蓄音機誕生の頃

さて、一瞬に消える音を蓄積し、再生する仕組みを考案したのは、かのトーマス・エジソンである。彼は、電話機の実験を以前より行っており、自分が送話口に向かって話しながら振動盤の中央に取り付けた突起物に指を当てると、声の振動を感じることに気付いていたという。この振動を何かに記録できないかと考え、1877年7月頃からいろいろと実験を重ねた結果、円筒にスズ箔を巻き付けて記録する方式が生まれた。これをフォノグラフ(phonograph)と命名し、1877年12月24日に特許を申請している。この特許は、異例の速さで翌年1878年2月19日には特許番号が与えられた。エジソンは、このフォノグラフをニューヨークのサイエンティッフィック・アメリカン誌の編集室に持ち込み、このハンドルを回してみなさいと編集長にすすめた。ハンドルをまわしたとたん、その機械から「お早よう!この機械をどう思いますか」という声が飛び出したのである。編集長に晴天の霹靂ともいうべき驚きを与えたことはいうまでもない。このニュースは翌朝の新聞紙上で大きく報道されるとともに、センセーショナルな出来事として全世界に伝えられた。

そのころの日本は、江戸から明治になってようやく10年目を迎えたばかり。文明開化もこれからといった時代であった。その日本に、早くもエジソンの発明は伝わってきており、明治11年(1878年)7月26日の同人社文学雑誌第26号に「蘇言機ノ事」という見出しで紹介され、続いて、同年10月には学芸志林第15冊に「蘇音器ノ原理」という論文が図入りで紹介されている。また、新聞で報道されたエジソンの原理をもとに、当時のお雇い外国人、英国人のユーイングが自ら制作したフォノグラフを明治11年(1878年)9月29日に東京大学で実験し、翌明治12年(1879年)3月28日に木挽町の東京商法会議所で公開している。翌日の新聞各紙がいっせいに報道したのは、サイエンティフィック・アメリカンの場合と同様である。あるいは当時の日本ではさらに驚きが増幅されて伝えられたに違いない。フォノグラフの日本語訳も、定訳はなく、ホノグラフ、蘇言機、蘇音器、写話器械、蘇定器といった各社苦心の訳語で報道されたらしい。とにかく、エジソンの発明から1年ほどで日本で蓄音機が鳴らされているのは、文明開化の時代であったとはいえ驚異といってよい。

エジソンのこの発明は全世界で注目され、その商品化のためにエジソン・スピーキング・フォノグラフ社が1878年4月24日に設立されるが、その商品は実用性に乏しく、500~600台程度生産されたのみで1年足らずのうちに事業は行き詰まってしまう。エジソン自身は、白熱電球の研究に興味を移しており、フォノグラフの改良は他人の手に委ねられることになった。エジソンが放棄したフォノグラフの改良を検討していたのが、かの有名なグラハム・ベルが起こした電話会社ベル研究所のチチェスター・ベル(ベルの従弟)とサムナー・ティンターの2人である。この2人は錫箔を蝋を染み込ませたボール紙の筒にするなどの改良を行い、1885年から86年にかけて特許を申請した2人は、その特許を持ってエジソンに提携事業化を持ち掛けたが、エジソンはそれを断ってしまった。断られた2人は、1886年にアメリカン・グラフォフォン社を起こし、1887年に「グラフォフォン」の名で製品を市場に送り出した。これに刺激を受けたエジソンは1887年から再びフォノグラフの改良に取り組み、シリンダーを紙の芯からソリッドワックスに変更するなどした改良型を、「スペクタクル」と名づけて口述記録機として発表している。そして1888年にエジソン・フォノグラフ社を発足させ、翌1989年から改良型フォノグラフの市販を始めている。シリンダー方式の蓄音機に関する市場はここから始まったといえる。そして、1888年にブラームスがウィーンで『ハンガリー舞曲第一番』の演奏の録音を残し、同年、若干12才の天才少年、後に大ピアニストとなったヨゼフ・ホフマンもフォノグラフに録音している。 ブラームスは、録音と同時に再生音を聞いた上で、クララ・シューマンに「これからはフォノグラフの時代である」と手紙を書き送っている。

このグラフォフォンも、早くも1888年(明治21年)には日本に上陸し、“蓄音機”の名称が当てられるようになる。1889年(明治22年)1月20日には井上馨が内外の紳士200人余を鹿鳴館に集め、グラフォフォンの試聴会を開くなど関心を集めている。1890年にはエジソンが明治天皇にフォノグラフを献上しており、現在科学博物館の所蔵品となっている。

円盤型レコードの登場

エジソンのフォノグラフも、ベル=ティンターのグラフォフォンも、音の振動を針の圧力の強弱として刻む縦振動の記録再生方式であった。エジソンやベル=ティンターがシリンダー型蓄音機の商品化に向けて開発している一方で、まったく別の方式による蓄音機を検討している人物がいた。ドイツからアメリカに移民してきたエミール・ベルリナーが、その人である。ベルリナーは、針の振動方向を90度回転させて、音の振動を横振動に変換してシリンダーに刻む方法を考えた。そして横振動を刻んだシリンダから音を再生することに成功した後、さらに、ベルリナーは円盤上に横振動を刻む方法を着想したのである。この着想こそが彼の勝利であった。亜鉛円盤に蜜蝋を塗り、音を刻んだ後に酸を注ぐと、音が刻まれたところは蜜蝋が削り取られているため、その部分の亜鉛が酸で腐食し、音溝が亜鉛円盤に刻まれる。いわゆるエッチングの技術である。この亜鉛円盤から再生用の針で音の振動を再生できるのであった。そして、この亜鉛円盤から製版技術でネガを作り、これを適当な材料に押し付けることで、もとの亜鉛円盤の複製を何枚でも作ることができる。この複製の容易さが、円盤型のシリンダー型に対する決定的な優位点であった。ベルリナーは、この方式の蓄音機をグラモフォンと名づけ、1887年12月12日に特許を申請した。そして、1889年にベルリンの電気工業協会の定期総会でベルリナーのグラモフォンとエジソンのフォノグラフとの公開比較実験が行われ、グラモフォンの方が優れており、レコード、再生機とも安くでき、安定していて忠実な再生が行われ、将来性があると支持されたのであった。この円盤方式も実用製品とするには多くの改良が必要であったが、1893年にはグラモフォンの特許が成立し、ペンシルベニア鉄道から融資を受けて、1895年10月8日ベルリナーはフィラデルフィアにベルリナー・グラモフォン社を設立し、本格的に事業をスタートしたのである。

ベルリナーのグラモフォンは、当初ハンドル手回し式であったため、再生は不安定であり不評であった。一方、シリンダー型は、高級品は電池駆動モータか、安いものでもスプリング(ぜんまい)式モータが使用されていた。ベルリナーは、各社のスプリング・モータを比較した結果、1895年2月にニュージャージー州キャムデンのエルドリッジ・ジョンソンにグラモフォン用のスプリング・モータを依頼した。ジョンソンは、依頼通りのモータを開発すると同時に、再生用のサウンドボックスの改良やカッティング用にワックスを使用することを提案するなど、グラモフォンの改良に大きな貢献をした。

ビクター・トーキング・マシン社の設立

イギリスでは、オーエンがベルリナーから蓄音機に関する一切の特許を受け取り、1897年にザ・グラモフォン社を設立した。これが、イギリス・グラモフォンのスタートで、翌年1898年から営業活動を始めている。また、1898年12月にはオーエンの協力を得て、ベルリナーがドイツ・グラモフォン社を設立している。こうやってヨーロッパでは着々とグラモフォンは地歩を固めていったのであるが、米国内では思いもよらない事件がもちあがっていた。

グラモフォンは、米国内では製造をベルリナー・グラモフォン社が、広告・販売をナショナル・グラモフォン社が、特許関係をユナイテッド・ステーツ・グラモフォン社が担当するというトロイカ体制で運営されていた。ところが、ナショナル・グラモフォン社を率いていたフランク・シーマンが裏切り行為に出たのである。シーマンは、1899年3月、勝手にナショナル・グラモフォン社を解組して別会社からゾノフォンというブランドで蓄音機とレコードの生産を始め、これまでグラモフォン用にスプリング・モータや部品を製造していたジョンソンへの製品発注を打ち切ってしまったのである。ジョンソンは痛手を受けたものの、これを機にベルリナーと別れ、本格的に蓄音機とレコードまでを生産するコンソリデーテッド・トーキング・マシン社を創立した。シーマンは、コンソリデーテッド社をグラモフォンの偽装会社として裁判を起こしたものの、結果は、ジョンソン側の勝利に終った。ただ、この裁判でグラモフォンは一般名称だから商標には使えないとの判決がおりて、ベルリナーは、自分がつけたグラモフォンの名を自分で使用できなくなってしまい、1899年は、ベルリナーにとって最悪の年となったのであった。ジョンソンは、1901年10月3日には社名をビクター・トーキング・マシン社と改め、事業を発足させた。ゾノフォンは、その後ジョンソンに買収されてシーマンは蓄音機業界から去っていった。ビクター・トーキング・マシン社はベルリナー社を介して、英国グラモフォン社と原盤交流その他の密接な提携を結び、20世紀前半の世界のレコード産業の強力な担い手として発展していくのである。

HMVレーベルの誕生

1899年の夏のある日、英国グラモフォンのオーエンのもとにバロウという一人の画家が一枚の絵を持ち込んできた。一匹の犬が、エジソンのフォノグラフを覗き込んでいる絵である。オーエンは、蓄音機をグラモフォンの新製品に描き直すことを条件にその絵を買い取り、その年のクリスマス・セールの宣伝に役立てることにした。英国グラモフォンでは、オーエンが自分で発案した天使が羽ペンでレコードに音溝を刻んでいる「レコーディング・エンジェル」の絵を商標として使っていたため、ポスターや宣伝意外にはバロウの絵を使わなかったが、翌年ロンドンを訪れたベルリナーはこの絵をたいそう気に入り、石版刷りポスターをアメリカに持ち帰った。その絵を見たジョンソンもまた好きになり、His Master's Voiceという題名もろとも創立したビクター・トーキング・マシン社のトレードマークとしたのである。
英国グラモフォンもオーエン退陣後の1909年からバロウの絵をレーベルに採用した。デザインは、ビクターとは異なり、 HIS MASTER'S VOICEという題名を絵を取り巻くように大きな文字のデザインとした。これ以来、英国グラモフォンはHMVの略称で世界的に通用するようになり、HMVのレーベルは、レコード事業繁栄のシンボルとなったのである。

グラモフォン社の商標
初期のRecoding Angel
初期のHMVポスター
HMVの米国での商標登録図


Victor Talking Machine社蓄音機製品ロゴ
Victrola&HMV図(1906年頃から使用)


ところで、レコードの中心に紙でレーベルを貼るようになったのは、1899年に英国グラモフォン社が始めたのが最初である。それまではレコードに直接手書きで書かれていた。

コロムビア・グラフォフォン社の設立とシリンダ型蓄音機の敗北

シリンダ方式の蓄音機業界では、エジソンやベル=ティンターがフォノグラフやグラフォフォンの発売を始めたころ、リピンコットという実業家が登場する。彼は、フォノグラフ及びグラフォフォンの販売権を取得し、1888年7月にノース・アメリカン・フォノグラフ社を創立し、その販売を地域別に分担させる子会社を作って販路を拡大していた。しかし、シリンダ型蓄音機の生産効率は低く、改良型とはいえ完成度もまだまだであったようで事業的は低迷していた。1890年にはリピンコットは病に倒れて事業から手を引いてしまい、エジソンが引き継いだが、1894年にはノース・アメリカン・フォノグラフ社は破産してしまう。傘下の子会社も同様の運命をたどったが、営業成績のよかったアメリカン・グラフォフォンとコロムビア・フォノグラフだけは生き残った。コロムビア・フォノグラフはアメリカン・グラフォフォンを買収し、1895年にはパリ、ベルリン、ロンドンに支店を設置し、1898年にはパリにヨーロッパ総本部を置いて事業の基盤を築いていった。エジソンは、その他の会社を全部整理してナショナル・フォノグラフ社を設立し、フォノグラフのさらなる改良に取り組んでいくのでいった。しかし、円盤型蓄音機の勢いはとどまるところをしらず、コロムビア社は、グラモフォン社と話し合いの結果、1901年から円盤型レコードを出せるようになり、1902年から発売を開始した。そして、コロムビアはビクター以上に録音に積極的に取り組むようになった。1906年にコロムビア・フォノグラフ社は、社名をコロムビア・グラフォフォンに変更している。

こうしてビクター、コロムビアという2大レコード会社が出そろい、両社は世界各地で録音活動を開始した。アコースティック録音の黄金時代の幕開けである。日本には、1903年に米国コロムビアが、1907年にはビクター・トーキング・マシンが録音スタッフを派遣して録音している。これらは、蓄音機を日本で売り出す準備工作であったといえる。日本でも本格的な蓄音機の時代を迎えようとしていたのである。

1904年にフランス・オデオン・レコードが両面盤レコードをライプチヒの見本市に出展し、1906年には米国コロムビア及びドイツ・グラモフォンから両面盤が発売されるに至って、シリンダー方式の敗北は決定的になった。コロムビアは、1911年でシリンダ型レコードの生産を全面的に中止、エジソンは、1907年には、イギリス、ヨーロッパのシリンダ・レコード工場を閉鎖、その後1912年には縦振動による円盤型レコードを発売するなどしたが、ベルリナーの横振動レコードの普及の前には無力であった。結局1927年にはエジソンのレコード事業は完全に終止符を打った。シリンダ型蓄音機は、音楽再生機としては円盤型に敗れたが、別の面で文化的貢献を果たしている。シリンダ型蓄音機には再生機以外に録音機としての機能があり、ポータブルな録音機として各地で活用されたのである。ハンガリー出身の作曲家バルトークも、ハンガリーの民族音楽をフォノグラフで録音して回ったという。民族音楽に根差したバルトークの音楽にフォノグラフが何らかの役割を担ったと考えると、不遇に終わったエジソンの発明も十分評価されるべきである。