あなたにあえる

 
 神殿の鐘が鳴っている。
 ガゼルは木の根元に腰を下ろしたまま、空を見上げた。
 太陽は真上にある。
 朝からとても長い時間が経ったように感じたが、ようやく昼になっただけだとわかった。
 春の空は青く晴れ渡っているのに、気分は沈んだままだ。おなかが空いた気もしない。
 家を抜け出して、ふらふらと歩いて、気が付けば神殿の裏手で時間を潰していた。
 これほど奥まではほとんど来たことがなかったけれど、いつもこんな風に誰もいないのだろうか。
 そう思いながら前を見ると、少し離れた木の陰から女の人がこちらを見ている。
 ガゼルには見覚えのない人だった。
 仕立てのよさそうな白い服やきれいに波打つ薔薇色の髪を、じろじろと眺め返したら、相手と目が合った。
 その女の人は、あたりをきょろきょろと見回し、そこに自分とガゼルしかいないことを確かめるような仕草をしてから、ゆっくりとガゼルの方に近づいてきた。
「こんにちは、坊や」
 しゃがんでガゼルの目を覗き込むようにして話しかけてくる。
「坊やじゃない。もう八歳なんだから」
 なんだか馴れ馴れしい感じが癇に障って、ガゼルはわざとつっけんどんに答えた。
「そう。八歳ならもう大きいものね」
 女の人は、穏やかな表情のまま微笑んだ。
「お会いするのは初めてね」
「うん。おばさんに会うのは初めてだよ。俺、ガゼル」
「ガゼルっていうの。いいお名前ですわね」
 その口調は柔らかで、くさくさしていたガゼルの心を温かく包むような響きがある。
 目の前の女の人は自分の母親よりも若く見えて、もしかしたら誰か友達の母親なのかもしれないと思ったけれど、どう考えても知らない人だった。
「今日はどうしたの。男の子がここに一人で来るなんて、とても珍しい」
 すみれ色の瞳に見つめられて、ガゼルは自分でもびっくりするほど素直な気持ちになって答えていた。
「ばあちゃんが、死んだんだ」
 今朝早く、祖母が亡くなった。
 一週間ほど寝付いただけで、あっさりと旅立ってしまった祖母の死を、両親や兄たちは「大往生だ」などと言っていたけれど、ガゼルには意味がわからなかった。
 みんなが泣かないから、自分も泣くことができなくて、葬式の準備で急にあわただしくなった家の中には居場所もなくて、それで一人で外へ出たのだった。
「お祖母さまのこと、好きだったのね」
「うん。大好きだった」
 声に力がこもらない。
「なのに、みんな、よかったって言うんだ。これでよかったって。ばあちゃん、死んじゃったのに」
「お祖母さまは幸せよ。悲しむだけじゃなくて、きちんと送ってくれる人たちに囲まれて」
「幸せ?」
「幸せよ」
 女の人の声が、昔聞いた子守唄のように心にしみこんでくる。
「ほんとに?」
「本当よ。でもね、ガゼル、悲しいなら、泣いてもいいのよ」
 まるで自分の心の中を見透かされたようで、ガゼルは目を見開いた。
 祖母が幸せだというのなら、やっぱり泣いちゃいけないのか、と思ったところだったからだ。
「みんな一度は泣いているの。泣いた後で、笑ってお祖母さまを送り出す準備をしているの。だからあなたも、泣いていいのよ」
 そう言った女の人が、ガゼルの髪にそっと触れた時、ガゼルの目から、ぽろぽろと涙がこぼれてきた。
 そうしてそのまま、ガゼルは声をあげて泣いた。
 ひとしきり泣いてから顔をあげると、女の人はさっきと変わらない優しい笑顔でガゼルを見つめていた。
「お祖母さまのことが大好きなのね」
 ガゼルはしゃくりあげながらうなずく。
「これから何度でも、お祖母さまのことを思い出してあげてね。亡くなった人は、懐かしく思い出してもらえるたびに、女神様のもとで幸せに近づいていくのだから」
「・・・・・・ばあちゃんも、女神様のところにいるの?」
「もちろんよ」
 いつも親が言っていることと同じ内容なのに、目の前の女の人が言うと、特別すてきな言葉のように聞こえて、ガゼルはすべてを信じる気になる。
「さあ、もうお昼ごはんの時間ではなくて? おうちの人がきっと待っているわ」
 言われて、くう、とガゼルのおなかが鳴った。やはりおなかが減っていたことを、今になって実感する。
「じゃあ、俺、帰る」
 二人で一緒に立ち上がると、女の人からふんわりといい匂いがした。
「気をつけてね」
「おばさん、また会える?」
 なんとなく別れがたい気がして、ガゼルは思い切って尋ねる。
「あなたがここに来れば、きっとまた会えるでしょう」
 そう言って、女の人は手を振った。
 ガゼルも手を振り返すと、朝よりはずっと軽い心になって、家に向かって走って行った。
 

 ガゼルがその場所に再び足を向けたのは、数ヶ月ほど経った秋の日だった。
 思い出すこともあったのだが、わざわざ神殿の奥まで来ようと思うことは滅多になく、そのまま時が過ぎていた。
 木立は若葉から紅葉に変わっている。
 この日、思い立ってあの女の人に会ってみようとしたのには、わけがある。どうしても伝えたいことができたのだ。
 やって来たからといって必ず会えるとは思っていなかったのだが、ガゼルが立ち止まってあたりを見回すと、その人は、木の下に立っていた。
「おばちゃん!」
 約束したわけでもないのに会えたことに、無性に嬉しくなって、思わず走り寄る。
「久しぶりね、ガゼル」
「俺のこと、覚えててくれたんだ」
「もちろんよ」
 その人の微笑みは、春と変わらず、優しくて穏やかだ。
「あなたの方こそ、もうわたくしのことなんか、忘れてしまったのかと思ったわ」
「うん、ごめん、正直ちょっと忘れてたんだけど」
 その笑顔につられて、つい本当のことをしゃべってしまう。
「でも、おばちゃんに教えたいことがあって、だから今日は来たんだよ」
「嬉しいわね。なにかしら」
「あのさ、俺んち、妹が生まれたんだ」
 ガゼルは、鼻の頭をこすりながら得意そうに言った。
「まあ、おめでとう」
「あっ、でも、初めての妹ってわけじゃないんだぜ。妹も弟もいっぱいいるけど、あと、兄ちゃんも姉ちゃんもいるんだけど、今度の妹はちょっと特別なんだ」
 相手がうなずくのを見て、聞いてくれているというのを確認すると、ガゼルは一気に続けた。
「かあちゃんがさ、この子はばあちゃんがこの世に送ってくれたんだって、言ったんだ。家族からばあちゃんがいなくなっちゃったけど、かわりにこの子が来たんだよって。だから、この子を見てばあちゃんを思い出して、ばあちゃんを好きだったのと同じくらいこの子を好きになろうって。それで俺、おばちゃんのこと思い出して、会いたくなったんだ」
「私のことを?」
「うん。ばあちゃんが死んだ日に会っただろ。だからおばちゃんにも、妹のこと教えてあげようと思って」
「そうなの」
 その人は、それまでの微笑みから、目元も口元もゆるめて、大きく笑った。
 ガゼルもそれに合わせて、思いっきり口をあけて笑う。
「妹のこと、喜んでくれる?」
「もちろんよ。妹さんのことも、とても嬉しい。それだけではなくて、そんなときにわたくしのことを思い出してくれたことも、とても嬉しいわ」
「んー、やっぱり、ばあちゃんが死んだ日に会ったおばちゃんは、なんか特別なのかな、俺にもよくわかんないけど」
 屈託なく言い切ったガゼルに、その人はそれ以上何も言わないで、小さくひとつうなずいた。
 その時だった。
「ガゼルーッ! どこだー?」
 遠くから、若い男の声がした。
「あっ、兄ちゃんだ」
「あなたを探しに来たのね。返事をしてさしあげなさい」
「うん。おーい、兄ちゃーん、こっちこっちー!」
 促されて、ガゼルは大きな声で、兄がいるらしい方へ呼びかける。
 何度も叫んでいたら、兄が姿を現した。一番上の兄だ。
「探したぞ。どこまで入り込んでるんだ、お前は」
「神殿に行くって、ちゃんと言ったよ」
「出て行ったきり帰ってこないから、母さんが心配してるから、わざわざ迎えにきてやったんだぞ。妹も増えたんだし、母さんに心配かけるんじゃない。用もないのにふらふら出歩くな」
「用があったから来たんだってば。おばちゃんに会いに来たんだ。な、おばちゃん」
 振り返ってみたが、そこには誰もいない。さっきまでいたはずの女の人は、姿を消していた。
「誰もいないじゃないか」
「おかしいなあ。さっきまでいたんだ。きっと、兄ちゃんが来たから、帰っちゃったんだ」
 ぷうっと頬を膨らませると、兄はガゼルの頭をがしがしと撫で回した。
「あのなあ、このあたりは偉い人たちがお墓参りに来るところなんだ。勝手に入るんじゃない」
「そうなのか? じゃあ、さっきのおばちゃんも偉い人なのか?」
「さあな。そうなのかもな。もう行くぞ」
 もともと物事にこだわらないタイプの兄だったので、ガゼルの言葉には構わずに、腕をとってぐいぐいと引っ張っていく。
 この兄に逆らってもしょうがないので、ガゼルはそれに従って帰ることにした。
 あの女の人にちゃんと挨拶ができなかったのが残念で、もう一度会いに来ようと思いながら。
 

 それからガゼルは、時折、思い出したようにこの場所を訪れた。一週間で来ることもあれば、半年ほどあいてから来ることもあった。
 家族に何かあった時には、それがいいことであれ悪いことであれ、彼女に知らせたくなって、ここへ顔を出す。
 誰かが病気になった。
 誰かが結婚した。
 誰かとけんかした。
 誰かと仲直りした。
 心に浮かんだことをとりとめもなくしゃべるガゼルに、彼女は、時に相槌をうち、時に短い質問をはさんだりするだけで、いつも微笑みながら耳を傾けてくれる。
 家族のことを話しているうちに、友達の話をしたり、街の出来事を話したり、思いついた他愛ないことを話題にして、だいたい、おなかが空いたらそれでおしまい。ガゼルは家に帰る。
 ただそれだけの時間だったが、楽しかった。
 ここへ来れば、必ず彼女に会うことができる。
 ガゼルの期待が裏切られることはなかった。
 

 ガゼルが十三歳の夏のことだった。
 その日も、神殿の奥の奥、他には誰も訪れない木立にやって来たのは、あの女の人に会うためだった。
 今日の話は、自分にとって楽しい話ではないのだが、足取りは重くない。むしろ軽いといえる。
 今ではもう、ここであの人と過ごす時間が、自分の心の中にたまったものを吐き出して洗濯するための時間なんだと、ガゼル自身もよくわかっていた。
 いつもの場所にやって来て、いつもと同じようにその人がいるのを見つけたガゼルだったが、とあることに気が付いて、挨拶の前に声をあげてしまった。
「その花、どうしたの?」
 その人は、白いかすみ草の花をたくさん抱えて立っている。
 ほっそりとして優しい笑顔のその人に、きゃしゃなかすみ草はとてもよく似合っていて、思わず見とれてしまうほどだ。
「ある人がくれたの。きれいでしょう」
「うん、すっごくきれい」
「そう言ってもらえると、わたくしも嬉しくなるわ。このお花、大好きなの」
 本当は、花よりもおばさんの方がきれいだ、と言いたかったのだけれど、さすがに照れくさいのでやめておく。
 以前なら、思ったことを何でも口にしていたのに、最近は、ためらってしまうことがある。
 それでも、兄や姉からは、口が軽いとか、口は災いの元とか、言われ続けているのだが。
「ガゼルの方こそ、今日はどうしたの。何か心配事?」
「え? 顔見ただけでわかる?」
「ええ。なんとなくですけれど」
「そっかあ。・・・・・・あのさ、父ちゃんが、仕事で出かけることになったんだ。偉い人のお供で、南の方へ行くんだって。半年くらいは帰らないんだって」
 夕べ知らされた一大事に、さすがのガゼルも表情が曇る。
「半年というのは、長いのかしら」
「あったりまえだろ。何言ってんだよ、おばさん。今まで毎日一緒にいたんだぜ!」
 思わず声が大きくなる。
「ごめんなさい、貴族のおうちだと、親子でも離れて暮らしたりするものだから」
「んー、俺んち、一応貴族だけど、そんなに格式高いわけじゃないし。はっきり言って貧乏だし。仕事だからしょうがないってのは、わかってるんだけどさ」
 ふう、とガゼルは大きく息をついた。
「貴族の仕事って何なのかな。家は一番上の兄貴が継ぐとして、俺は何をしたらいいんだろ」
「ガゼルは、何かやりたいことがあるの?」
「俺さあ、けっこう街の中でいろんな手伝いとかしてるんだ。八百屋で荷物運びしたり、パン屋で呼び込みやったり。そいでリンゴとかパンとかもらうんだ。体動かすのって楽しいし、それで人の役に立って、食いもんもらえるなんて、すごくいいよね」
「ガゼルらしいわね」
 笑顔でそう言われて、
「おばさんもそう思う?」
 ガゼルは機嫌がよくなったけれど、またすぐに口をへの字にした。
「でもさ、貴族は商売しちゃいけないから、大きくなっても自分で店は持てないんだ。手伝いも楽しいけど、手伝いって仕事じゃないよな?」
「そうねえ・・・・・・ガゼルの考える仕事って、どんなものなのかしら」
「えっと、別に金がもうかるとか、そういうことじゃなくて、なんていうか、ちゃんと自分で責任もってやるっていうか、一生続けるっていうか、うまく言えねーけど」
 子供ながらに、ガゼルの考える仕事像というものがある。
 自分の父親も、自分の目に見えないところで、責任を持って大人の仕事をしているのだろう。
 だが自分に見えない以上、父親のような仕事がしたいとは言えないし、第一、家を継がないなら、父親の仕事をやりたくてもできないはずだ。
 ガゼルの頭の中ではそうなっていた。
「えらいわ、いろいろ考えているのね」
 うまく言葉にはできなかったが、女の人は一応わかってくれたようだった。
「好きなことが仕事になれば、それが一番幸せでしょうね」
「好きなことかあ・・・・・・。あ、そうだ。俺さ、街の子供たちの面倒見るのって、好きなんだ。一緒に遊ぶだけじゃなくて、けがしないように見てたり、ケンカしてたら、ちゃんと注意したりするんだ。これが仕事になったら、すごくいいかも」
 どうすればこれが仕事になるのか、今のところさっぱり見当がつかないが、そう思っているだけで、心がうきうきしてくる。
「あなたなら、きっとできると思うわ」
 その言葉も、気休めじゃなくて心の底から励ましになった。
 以前にも、こうやって、この人の言葉で心が軽くなったことがある。
 そうやって以前のことを思い出して、ガゼルは、ふと思った。
「そういえば、おばさんて、昔からあんまり変わんないね」
 上品そうな服装も、大きく波打つ髪も、そして何より、穏やかで美しい微笑も、以前と変わらないように見える。
「昔だなんて、まだお会いしてから何年かしか経っていないでしょう」
「そうだけど。前は母ちゃんみたいだと思ったけど、今は姉ちゃんみたいな感じがする」
「それは、ガゼルが少しずつ大人になっているからではないかしら」
 かすみ草の花束を抱えたままの笑顔に、もうそろそろお帰りなさいと促され、なんとなく不思議な気持ちで家路についた。
 帰り道に、もうひとつ気づいた。質問するのはいつもあの人で、答えるのはいつも自分だ。
 父親と半年離れることを、長いのかと聞いたあの人は、もしかしたら、家族と長い間離れていたことがあるのだろうか。あるいはもしかしたら、一緒に暮らす家族がいないのだろうか。
 今度会ったら聞いてみよう、と思ったのは嘘ではない。相手のことを何ひとつ知らないことに、ようやく気づいたのだから。
 だが、少年の日々はせわしなく過ぎていく。
 日常から切り離された神殿裏の秘密の場所をガゼルが訪れるのは、数ヵ月後のことになる。
 
 


→つづく

 

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