雨あがる
幾日も続いた雨に降り込められて、宿屋には人があふれていた。 増水した川のせいで街道が封鎖されているため、足止めされた旅人たちが、宿屋の広間兼食堂で時間を持て余している。 酒を飲む者、話しこむ者、カードに興じる者、みなそれぞれの方法で時間を潰している。 雨音が急に強く聞こえたのに数人が顔を上げると、宿屋の主人ともう一人が扉を開けて外から戻ってくるところだった。 「ありゃあ、おやじ。早かったな。薪は十分揃ったのかい」 「おう、こちらの旦那が薪割りを手伝ってくれたんでね。旦那、いつもありがとうございます」 旦那と呼ばれた長身の男は渡されたタオルで濡れた服の雫を払いながら、 「…ああ」 短く答えた。不機嫌なのではなく愛想がないだけだとわかっている主人は、自分もタオルを使いながら盛んに話しかける。 「旦那のようなちゃんとした身分の方がこんな風に手伝ってくださるなんて、ありがたいけど申し訳なくて」 「いや、じっとしていては身体が鈍るので…」 「ご謙遜でらっしゃいます。旦那といい奥方といい、貴族さまとは思えないご親切な方で、わたしゃあ感激ですよ」 気のいい主人は、自分の物言いが実は無礼な内容であることに気付いていない。 「そういやあ、奥方さまのお加減はどうなんですかい」 同宿の行商人たちも、しばらくの間宿をともにしたせいで、この男が見た目ほど恐くはなく、むしろ気さくな方だと知り、親しげに話しかけてくる。 「そうですよ、旦那。奥方は相変わらず調子が悪いんで?」 「今日はずいぶんとよいようだった。ちょっと様子を見てきます」 タオルを戻しながら律儀に礼を言うと、男は階段へ向かう。 「ずいぶんと奥方思いの方だよなあ」 「まったく。奥方もおやさしいし。本当の貴族っていうのはああいう方々のことなんだな」 広間の者たちが囁き合うのに聞こえない振りをしながら、二階へと上がって来た彼は、泊まっている部屋の扉を小さく叩いてから引き開けた。 「今もどりました」 「おかえりなさいませ」 妻が、薔薇色の髪をきれいに梳かして、窓から雨を見ていた。 彼女の具合が悪いというのは本当ではない。以前旅の途中で、隣国の姫君に似ていると言われて以来、用心してあまり人前に出ないようにしているだけだ。 これほどの長雨でなければ、一つの場所にこんなに長く滞在することもなかったはずだった。 そのせいで人目を避けるために、病気と偽って部屋にこもっている。 本当の彼女は健康で外出好きな娘で、今だって仮病なのだから寝間着で過ごしていてもいいのに、気持ちだけでもすぐに遊びに行きたいのか、人前に出ても恥ずかしくない完璧な身繕いで窓の前に座っている。 「雨はまだ止みませんわね」 「…退屈ですか」 夫の問いに彼女は外の景色から目を離し、振り返った。 「そうですわね。刺繍もずいぶん進みましたし。こういう時にお勉強すれば、きっと一生懸命勉強するんだろうと思いますわ」 「では何か勉強をなさいますか」 そこにあるからかいの響きを聞き逃すことなく、 「もしもお勉強したら、の話ですわ」 彼女は拗ねた甘え声を出したが、すぐに居住まいを正して、夫の方に身体ごと向き直った。 「レオニス、わたくしお話がありますの」 「なんでしょうか」 「その前にどうか着替えてきてくださいね。ごめんなさい、わたくしったら気が利かなくて」 外での作業で湿った服のままだった彼は軽く頷くと、続きの寝室へと入っていった。 山の中の小さな宿屋でも、たまに泊まる貴族のためにスイートがある。この宿屋の唯一の続き部屋を、二人はこの一週間占めていた。 こざっぱりとした服に着替えた彼が戻ると、ちょうど彼女がお茶を入れたところだった。 「いい香りだな」 「奮発してとっておきのお茶を出してきましたの」 「ほう」 「いつもレオニスが宿のご主人の力仕事を手伝うから、だからおかみさんがわたくしの代わりにお洗濯をしてくださいます。レオニスのおかげですわ」 「洗濯をしてくれるから、その礼に薪割りをしているだけです」 「そう言ってくださるの、とても嬉しいです。でも」 お茶をはさんで向かい合って座る夫に対して、彼女は顔を曇らせる。 「わたくし、あんまりあなたに頼っちゃいけないと思いますの」 「頼っちゃいけない、ですか」 「そうです。このお部屋はこのお宿で一番高いお部屋なのでしょう。それくらいわたくしにだってわかります。こんな贅沢できるくらい、お金があるとは思えません」 「贅沢ではありません」 男の声は優しいままだった。 「本来あなたにふさわしい部屋と比べれば、贅沢でもなんでもありません」 妻はかぶりを振る。 「わたくし、もっと狭いお部屋でも平気ですわ。お金は大事に使わなくてはなりません」 「忘れてはいないと思いますが、私には騎士団時代の貯えがあるのです。あの頃は遊ぶ暇もなかったのでそれなりの額になっていました。心配することはありません」 「…嘘です」 少しうつむき加減の彼女の声は、思いつめた響きがある。 「お金というのは使えばなくなってしまうものです。贅沢は続けられません」 「あなたにお金の心配をさせるなんて、夫として失格ですね」 「そうじゃないんです。そうじゃなくて」 彼女は意を決したように顔を上げた。
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