雨あがる
二人ですべてを捨てて旅に出た時。既に旅立ちの決意をしていた男にその場で付いて行くことを決めた彼女は、着の身着のまま、全く何の準備もしないでの出立だった。 深窓の姫君とはいえ、女官をはじめとする宮仕えの者たちがいなければ、自分一人では何もできないことを、彼女はよくわかっていた。 そして、女官が王女に仕えるサービスを市井の中で求めるならば、それ相応の対価を支払わねばならないことも知っていた。 王宮からは何一つ持ち出すことはできなかったし――いや、たとえ出来たとしても、彼女の夫となる男は、それを潔しとはしなかったろう――彼女は自分自身の財産を何も持ってはいなかった。 夫の携えた路銀が生活費のすべてだった。何も心配しなくてよい、と夫は言ったけれど、彼女はそんなにおめでたい性格ではなく、お馬鹿さんでもなかったので、お金を稼ぐ方法を真剣に考えていた。 そして結局は無力な自分が口惜しく、腹立たしくもあった。 「お金の話はもう何度もしたはずですが」 やはりこの日も、夫は同じ言葉を繰返す。彼はいつも、稼ぐのは自分の仕事だから、彼女が贅沢をせずに付いて来てくれればそれで十分だと、そう言っていた。 その言葉を聞くと、彼女は嬉しいと同時に少し寂しくなる。 「ええ、わかっています。でも前に、わたくし、一つだけお願いしましたね。危ない仕事はしないでくださいって」 二人が約束をしたのは、王都を出てしばらく経ってからだった。 王都を出た直後は、追っ手があることを気にして、身を潜めていなくてはならなかったので、金を稼ぐ方法など考えている余裕はなかった。 ある程度落ち着いてから、いつまでも隠れ住んでばかりはいられない、となった時、彼女は漠然と、夫は得意の剣で身を立てていくのだろうと思っていた。彼は、小国とはいえ王国一の剣豪としてならした近衛騎士だったのだ。 どこかへ仕官するのかと尋ねた彼女に、彼は笑って答えた。素性の知れない者を正式に迎える国などないでしょう、と。言われてみれば、クラインだってそうだったのだ。 流れ者は傭兵にしかなれない、という夫の言葉に、それから気をつけて周囲を見ていると、宿場町でもそれらしい人々を見かけることがあった。 夫ならきっと、あの中の誰よりも強いから誰よりも上手くやるに違いない。そんな彼女の他愛もない安心も、やがてすぐに裏切られる。 ある朝見かけた商隊がその日のうちに野盗に襲われ、用心棒もろとも全滅したという知らせを聞いて、血の気が引いた。 傭兵というのは死ぬかもしれない危険な仕事なのだ。だから人は高い金を払うのだ。 それに思い至った彼女は、泣きながら夫に頼み込んだ。絶対に危険な仕事はしないで欲しい。 彼はいつものように言葉少なに、あなたがそう言うのなら、と約束をした。 「その約束は守っているはずですが」 それは嘘ではない。 その代わり、何をして稼ぐのか、夫は妻に質問させなかった。危ないことはしていない、と言うだけで、いつもはぐらかした。 それでも彼女は彼を信じていたから、詮索しようとはしなかった。この日までは。 「賭け事などもしていませんから安心してください」 「では、何をしていますの」 「お話しするようなことでは…」 「やはり教えてはくださらないんですね」 初めて、夫は困ったような顔をした。 「疑っているんじゃないんです。あなたの口から聞きたいだけなんです」 夫が戻ってきたらこの話をしようと決めていた彼女だったので、堰を切ったように言葉を続ける。 「わたくし、この前の街で聞いてしまったんです」 それは先週、この宿場よりも大きな街に数日泊まった時のことだった。 久しぶりに滞在した大きな街だからと、彼女は目立たない格好で買い物に出かけた。細々とした物でどうしても田舎では手に入らない物がある。 買い物を終えて宿屋に入ろうとした彼女は、そこで身なりのいい男たちが何人か、立ち話をしているのに出くわした。 「…ここに泊まっているのか」 「ああ。今入っていった」 「ガタイがいい割には小心な奴だったな」 「閣下の気合に圧されたんだろう」 「あんな腕でよくも我々に挑戦してきたもんだ」 「いや、構えは腕が立ちそうだったがな」 「確かに。だが肝っ玉があんなに小さくてはな」 嘲りと侮蔑の混じった笑い。 その先を聞きたくなかった。直感で、彼らが誰のことを話しているのかわかった。 この宿に泊まっていて、背が大きくて、剣術の強そうな人といったら、一人しかいないではないか。 だが彼が小心者とはどういうことだろう。 そこで考えは止まってしまい、気が付けばもう部屋の前だった。 夫がまだ帰っていなければ人違いだ、そう思ったのもつかの間、部屋にはいかにも今帰ったばかりという夫がいて、しかも、街で稼いできたと言って、数枚の金貨を見せた。 その場では微笑んだけれど、その時から、夫がどうしてお金を稼いでくるのか、どうしても知りたかった。 本当は知るのが恐い気もしたが、それでも知らねばならないと思った。 なぜ見知らぬ男達の嘲笑を浴びて、金を持ち帰ってくるのか。 話の次第によっては、たとえ危ない仕事ではないとしても、絶対にやめてもらわねばならない。お金のためでもそんなこと、してほしくない。 「そうですか、感づいていたのですか」 慌てる様子も悪びれる様子もなく、彼は落ち着いていた。 「心配をかけたくなったのですが、かえって心配させてしまったようですね」 「以前メイから、どーじょーやぶりというのを聞いたことがあります。剣術の強い人を訪ねて勝負をするという話でしたけど、もしかして、それで負けてしまったのですか」 「道場破りですか。私もその話は聞きました。ですが、それでどうやってお金を稼ぐことができますか」 「勝つと賞金がもらえるとか」 「そういうのは、悪いことをした人を捕まえた時の話ですね。危ない仕事です」 「じゃあ、あんまり強いので感激してお金をくれるとか」 「自分が負けたのにお金を出すんですか」 「うーん、言われてみればそうですわね…」 彼女は首をかしげて考え込む。 「いきなり知らない奴がやってきて、あなたの剣の評判を聞いたのでぜひ自分を勝負をしてほしいと言ったとします。それで負けたら、悔しいし、相手をひどく恨むでしょう。相手はそれでも、名声を得て仕官の道が開ければ、挑戦する甲斐もあるでしょうが、私の場合はどこかに仕官したい訳ではありません」 「じゃあ、どうするんですの」 「逆に考えてみればいいんですよ」 彼はなぜか楽しそうだった。 「逆?」 「先に負けてしまえばいいのです」 「何ですって?」 「ぜひ勝負をしてほしいと言った相手が、試合の途中で、参りました、やはりあなたの方が強い、さすがだ、と言って剣を置いたら、誰でもよい気分になります。たいがい気持ちが大きくなってご馳走してくれる。実は身体の弱い妻がいて、と言えば、同情して土産まで持たせてくれる。礼儀正しい貴族の精神を見ることができます」 「身体の弱い妻って、わたくしのことですの?」 「少なくとも私よりは弱いでしょう」 彼女は思わず口をあけたまま、夫の顔をまじまじと見た。 夫は決して弱そうには見えない。本当に強いのだから当たり前だ。その夫がわざと負けて見せるという。しかも嘘ではないが上手いこと言って、貴族を手玉に取っている。 「まるでイーリス…」 なんと賢いやり方なのか。夫はもともと無口な性分だ。多分、実直そのものでとつとつと語る姿が成功の秘訣なのだろう。 「吟遊詩人のイーリス殿ですか、懐かしいですね」 だが、貴族はたかる相手と割りきっていたイーリスと違って、彼自身貴族の出なのだ。 剣に生きてきた彼が、生活のために他人の前に膝を曲げる、しかも恐らく自分より腕が劣るであろう者の前で弱い振りをするなど、本当なら笑ってできるはずのことではない。
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