「殿下、今日の報告は以上です」
アイシュが紙の束を閉じながら言った。
「ごくろうだったね。今日が君の担当で助かったよ」
セイリオスは、お世辞に聞こえない誠実さで礼を言った。
「私なんてまだまだ鈍くさくって〜」
「君のことを相変わらずそんな風に言っている者たちがいるのは知っている。まったく人を見る目がないものだと思っているよ」
「恐れ入ります〜」
以前の彼なら、ひたすら謙遜して否定するところだが、いまは素直に受けとめる術を心得ている。
「そういえば、殿下、官房長が、またどこかの姫君の絵姿を集めていましたよ。神殿の神官長のところにも、いくつかお話が来ているらしいです」
アイシュの言葉に、セイリオスは苦笑いする。
「また縁談か、みんな懲りないな」
「それも仕事のうちですから」
本気とも冗談とも、皮肉ともつかない笑いを残して、アイシュは退がっていった。
数年前の事件を乗り越えて、アイシュは、文官としてはもちろん、政治の秘密を分け合う部下としても、十分信頼できる人物になった。
互いに信頼し合って仕事ができる者を、王宮内にどれだけ多く持つことができるか。
それは国王にならねばならない自分の命運を決める重大なことだと、セイリオスはよくわかっていた。
一日の仕事が終わる時間を告げるように、窓から入るオレンジ色の光が長く伸びている。
そのまま顔を上げて空を見る。
空は燃えるような夕焼けだった。
かつて、城門を出た森の湖で、こんな赤い空を見たことがある。あれは、あの時一緒だったのは・・・。
突然、ノックの音とともに扉が開いて、セイリオスの思考は中断された。
「よう、セイル、憂国の王子って顔してるな」
「ノックをしたら、返事を待つものじゃないかね、シオン」
「固いこと言うなって。黄昏の王子ってのもいいな」
「なんだ、それは」
「要するに、シケたツラしてやがるって言ってるんだよ」
シオンのこの態度は変わらない。多分、ずっと変わることはないのだろう。
「ただ少し昔のことを思い出していただけだ」
その時、ふとセイリオスの胸をある思いがよぎった。
いつも同じ事を繰り返しているような気がする。自分が胸の痛む決心をするとき、それはいつもこの執務室で、朝だったり夕方だったり昼間だったり、時間はバラバラだったけれど、そこにはいつもシオンがいた。
これは何のデジャヴュだろう。
「どうした。嫌な思い出か」
「いや・・・お前の用事はいつもろくでもないから、ちょっと警戒しているだけだ」
「心外だね。そりゃあ俺のせいじゃないぜ」
いつものように大仰に肩をすくめてみせたシオンだったが、
「ま、ちょっとは当たっているかもな。もうすぐ大臣たちの早く結婚しろ攻撃第・・・何弾だったかな、数え切れないが、とにかく新シリーズが始まるぞ」
「ああ、さっきアイシュも同じ事を言っていたよ」
「アイシュがご注進に及ぶくらいだからな、今回のは相当大掛かりだぞ。だが、アイシュと同じネタしかないと思われるのは不本意だ。シオン様のゴシップ網を甘く見ないでもらいたい」
ゴシップと称して、シオンはいつも、以前ほど気軽に城下へ出ることのなくなったセイリオスのもとに、王宮や社交界や街中で起こったさまざまな出来事や流行りの噂話を持ってくる。
「今日、軍部のあいつと騎士団のあいつが、経理の部屋で慇懃無礼に大喧嘩してた」
「やれやれ。またか。やはり武官で使える奴が一人、どうしてもほしいな」
「来月、某家と某家で今度密かに見合いのためのティーパーティーをやるそうだ」
「今の時期に見合いというと・・・あそこか」
どこの家かすぐにわかってしまう自分が、少しだけ嫌な奴に思える。
「今度某男爵のところの小間使いに子供が産まれる。男爵がちゃんと認知するかどうか、密かに注目の的だ」
「・・・子供か。シオンもせいぜい気を付けてくれよ」
「俺はそんなヘマしないって言ってるだろ。お前の話だってあるんだ。セレスティアじゃ、王家に養女をもらってでもお前とくっつけるつもりで打診してくるぞ」
「しつこいな、あそこも。・・・やはりシオンのゴシップだけあって、結婚絡みが多い」
後半は無駄口で、そう言ったセイリオス自身、家や国のためには絶えない血筋が重要で、だからこそ結婚や出産は一族の一大事であることをよく承知していた。恐らく、身をもって、誰よりも。
「ま、結婚しねえ、子供もつくらねえって跡取りは困りもんだからな。お前のこと言ってんだぞ、これは」
「わかってる。日月(じつげつ)の教えだろう。昇る太陽を月が追い、沈む月を太陽が追うように、王と王妃は互いに相和し王国を照らすべし。美しい夫婦愛を定めたように見えるが、要は独身の王は許さないという道徳だ。王国の存続のためにはやむをえない。わかっているよ」
「イヤだねえ、王国の存続とかいう前に、愛がなきゃだめなの、結婚ってのは。そんな態度だから、女嫌いの皇太子の噂が立つんだぜ」
シオンがそんなことを言うのは今日に限ったことではなくて、同じようなことをしょっちゅう言われていたのに、この日はなぜか、流れていかず心に引っかかった。
夕映えが部屋の中を赤く染めている。この部屋のこの場所に座って、何度も見たはずの景色なのに、ある一時の光景が突然鮮やかに甦ってきた。
自分が手ずから叙任した新人騎士は、ダリスでの困難な任務を終えて無事に戻り、自分の前に立っていた。
金色の髪が夕日に映えてとても美しかった。
「私だって好きな女性くらいいたさ」
その金色の幻が感傷的に気分にさせたのか。感傷的な気分がそんな幻を見せたのか。
いつもなら、お前だって結婚してないくせに、とまぜっかえして終わるはずの会話は、セイリオスの心の中に向かって転がっていく。
「私の愛した女性は、みないなくなってしまうんだよ」
ともすれば自虐的になりそうな雰囲気をぶち壊そうと、シオンはわざと大きく舌打ちすると、
「今さら妹とか言い出すなよ、シスコン皇太子」
茶化して終わりにしようとしたが、
「一人じゃない。死んだ母のことは言うまい。慈しんで育てた妹が他の男を好きになるのも当然のことだ。駆け落ちの形になってしまったことは不本意だったが、しかたがないのかもしれない」
末の王女が数年前に駆落ちしたことは、公然の秘密というものだった。表向き、病気療養のため国外にいることになっているが、それを信じているのは子供だけだろう。
最愛の妹が困難な愛の道を選んだ時、初めは許せなかった。けれどついには、彼女が選んだ男と生きていく道を、見送った。
残された自分は、このまま国のために殉じるように政略結婚するしかないのかと考えた時もある。
だが逆に、妹の生き様を見たからこそ、生涯の伴侶はせめて、自分の意志で決めたいという願望を捨てることができなかった。
「一度は心に決めた人もいたんだがな」
金色の幻を追いかけて、今度は意識的に、別の日のことを思い出そうとしてみる。
だが、なぜだか今度ははっきりと思い描くことができない。季節も時間も曖昧なままで、トレースできるのは自分の感情だけだ。
久しぶりに会った若者は、騎士の正装で、それまでは高く結っていた金の髪を首の後ろで束ねてこの部屋に立っていた。
変わったのは服装や髪形だけではない。面差しも体つきも、何もかも一変させて、自分をまっすぐに見つめていた。
アンヘル族の分化とは、そういうものだった。
もともと分化するために王都に出てきたのだ。本人が望んでいたのと同じくらい、自分も望んでいた分化だった。
だが、あの子が男になることを、一度たりとも望んだことはなかったのに。
「お前、まだ・・・」
「他の者が噂しているように、女嫌いで、男を男として愛せる嗜好の持ち主だったらよかったのにと思うこともある」
「・・・しゃれになんないこと言うな」
「皇太子妃にするにはなかなか大変かもしれないが、できれば妹のように、一度だけわがままを通してみたかったのだが、男になってしまってはね。私も諦めた」
そう言ってセイリオスは笑ってみせる。
「彼が男になった理由を考えてみるんだ。私がダリスに行かせたからだろうか。戦場の経験のせいなのだろうか。あれほど剣の師を慕っていたのだから、たとえ彼がいなくなっても、女になると思っていたのに」
「…騎士団に入れといて何言ってんだ。女にしたいなら、王宮で行儀見習いでもさせときゃよかったんだ」
「ははは、確かに。でもお前がいたからな、だめだ」
セイリオスの想いに、シオンは最初から気付いていた。今はこうして冗談めかして話せるが、かつては手酷く傷ついていたのも知っている。
分化の本当の理由など、考えてもわかるはずがない。ただ推し量るしかないとしても、材料が少なすぎて、想像で語るには、重過ぎる話だ。
「なあ、シオン。私の前からいなくなってしまった女性達のことを考える時、私は不思議な気持ちになる。
死んでしまった人、遠くへ行ってしまった人、目の前にいるけどもういない人。
彼女たちを思い出す時、必ず同じ男のことを付録のように思い出さねばならない。これはどうしたことだろう、シオン」
シオンは少し目をすがめた。逆光でセイリオスの表情が読めない。
「・・・偶然だ」
「ああ、そうだろうね。私は、偶然という名の運命に付き合う覚悟はできている。私の人生なんて・・・いや、誰であっても人生なんて、すべてそうだろう。だからね、シオン。彼にも、私にとことん付き合ってもらうことにするよ」
「あいつを恨んでるのか。それとも羨ましいのか」
「そうなのかもしれない」
セイリオスは首を振る。
こうしてはっきりと言葉にして聞いてくるから、だから自分はシオンに心のうちを吐き出すのだ。自分で避けている問いを突きつけてくれるから。
「どちらかというと、悔しいのかもしれないな」
「へえ。可愛い妹を奪っただけでは飽き足らず、その他もろもろ因縁のある男が、幸せなのは許せないってか」
「いや・・・ただ、私の遠くで、私の知らない風に幸せなのは許せない、というだけだよ。私のしようとしていることが、妹にとって幸せなことかどうかわからないけれど・・・・・・私にとっては妹を取り戻す唯一の方法だ。それに、彼にも約束したから――」
最後の「彼」というのが妹の夫である男を指すのではないのは、明らかだった。
「私は、国のため、民のため、みんなのために皇太子をしているんじゃないんだ。すべては私自身のエゴのためだ。わかっているんだ」
「いーんじゃねえの。誰だってそうだろ」
それを愛と呼ぶのだ、とシオンは呟く。
「メイがいた世界のように、身分のない国にするのは無理そうだけれどね」
突き抜けた朗らかさを見せて笑うセイリオスに、
「今日のゴシップの最後だ」
「まだあるのか」
「陛下がかなりやばい」
最初と同じ口調に戻ってシオンが言った。
「貴族連中の動きが慌ただしいのもそのせいだが、まだみんな、もう少しもつと思ってる。だが、神殿では女神の託宣を聞く準備をしている。今夜のうちに、侍従長がお前の部屋に来るだろうな」
「――そうか」
そうだったのか。自分の心を騒がしていたものは、この予兆だったのか。
セイリオスは大きく目をしばたかせた。
残照と薄闇が混じった曖昧な色合いが、窓から執務室の中に滑り込んでくる。
「お前には、呼び戻してこき使いたい男がいるようだが、俺は俺で好きにやる。お前を国王にして俺の好きな国を作ってもらうってのが俺のエゴだ。がんばってもらうぜ、セイリオス」
「私も、頼りにしているよ」
皇太子である運命を呪ったこともある。
それでもその運命を全うしようと力を尽くしてきた。
そんな風に自分を突き動かしてきたものが、責任感なのか、育ててくれた人への恩義なのか、それともただの諦念だったのか、今ではよくわからない。
だが、すべては自分のためと思えるならば、何も人生を呪う必要などない。
そう、自分のため。
両親のため。妹のため。自分が想った人のため。自分を信じてくれる人のため。
それらがすべては自分のため
自分の世界に向き合って心を決めたセイリオスは、穏やかに、それでいて力強く、シオンに向かってうなずいた。
夜明の鐘を待たずして、王都に国王崩御を知らせる鐘が鳴り響いた。
しかるべき服喪の期間の後、新王セイリオスが発表した布告は、人々を驚かせた。
「ディアーナ=エル=サークリッドに帰国を許す。」
駆落ちした相手の男ともども呼び戻す、というもので、新王である兄同様に国民から愛されていた妹姫の帰還は、人々を熱狂させるに十分だった。
日月星辰(じつげつせいしん)を動かす運命の輪の一回りが、クラインの地でまた人々の人生の道のりを交錯させようとしている。
エピローグ
→こちらへ(第4話)
後編(3・4話)は前編から2年半経ってから書きました。
第3話がこんな話になるとは、誰が予想したでしょうか。書いた本人もわかりませんでした。
最初の予定では、殿下がシルフィスを好きだ、という気持ちが全面に出た話で、ラストでシルフィスが男になって殿下失恋、というような構想だったんですが、片想い的シチュエーションを描き切る力がなく、断念しました。
私の中では、シルフィスが男性に分化するのは隊長がいなくなったとき、というフォーマットになっております。
タイトルの「日月」というのは、文字通り年月・月日のことでもあり、正義や物の道理、という意味もあります。天が許さない、という時の天みたいなもんですね<太陽と月
ここではセイリオスの過ごした歳月と、彼が考える進むべき道、というのを両方ひっかけてます。
中国では、太陽は皇帝、月は后を表すそうなので、「日月の教え」というのを勝手に作ってみました。
ところで、どうもシオンが殿下に片想いのように読めるんですけど、そういうつもりで書いたわけじゃないんですよ。ないんだけどなあ。そう見えるんだよなあ(爆)
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