夜の時間が確実に短くなっているとはいえ、朝日が顔を出す時間はまだ遅い。太陽が姿を見せた後でも、空気は冷たい。 それでも勤勉な街の人々は、暗いうちから起き出していて、この時間はもう大概の者が朝食を終えている。まだ寝ているのは相当の怠け者だと思われても仕方あるまい。 城門に、一人の男が立っている。暖かい季節であれば、森に野草を摘みに行く者や、湖へ遊びに行く者の姿があるのだが、まだ春とは言えぬこの時期では、街の外へ出る市民はほとんどいない。 竪琴を抱えた旅装の男は、人待ち顔で佇んでいる。近付いてくる足音に気付いて振り返ると、見知った人物の予期せぬ登場に、少しだけ驚いた顔をした。 「シオン。どうして」 「俺に黙って行こうなんて、水臭いぞ、イーリス」 イーリスの前で立ち止まったシオンは、朗らかに言った。 「別に、誰の見送りも、受けるつもりはなかったので」 なぜわかったのか、と訝しむイーリスに向かって、 「ほら。こいつが教えてくれたのさ」 差し出されたシオンの右手には、大きな白い花をつけた枝が握られていた。 「今朝開いた。お前に見せようと思ったら、ちょうど間に合ったってわけだ」 「私に、ですか」 「忘れたか。前に言っただろ。去年取り寄せたカメリア、花が咲いたら見せてやるって」 「……ずいぶんと昔のことを」 「俺は律義者なんでね。ほら、やるよ」 言われて受取った枝には、大振りの八重の花が白い花弁を広げている。 「確かに、見事ですね」 外国人としての滞在期限が間もなく切れるから旅立つはずのイーリスだが、相変わらず手荷物は少ない。とても、これから乗り合い馬車で遠く国外へ向かうようには見えない。竪琴だけが目立っていたところに、白いカメリアを持った姿は、ここで突然歌い出してもおかしくないくらいだ。 「しかし、お前も、せっかく背中にしょってた姉さんから解放されたんだ、女連れで旅立つとか、粋なことしろよ。連れて逃げる女の一人もいないのか」 餞別を贈ったにしては、別れを悲しむ風もなく、シオンはずけずけと物を言う。 「そういうのは、私の柄ではありませんから」 「やせ我慢するなって。手紙はあちこちに書いたんだろ。クラインでいい女見つけて駆落ちするくらいの根性がないとな」 「駆落ちなんて、似合わない台詞ですね。そういうあなた自身、決して駆落ちなんてしないでしょうに」 「そうかな」 「そうです。あなたは花嫁をさらっても、まっすぐ自分の家へ連れ帰るだけです。逃げ出したりすることなどありえないでしょう」 「なんだよ、予言か、それは」 イーリスは再び白い花に目を落とすと、少し考えてから口を開いた。 「シオン、私はここで、文字通り生まれ変わったようなものです。あの冬の夜のあなたののおかげですが」 「あー、お前さんと一夜を共にしてしちまった日な、この俺が男と一夜を過ごすとは」 「茶化さなくていいです。悪ぶってみても私には通用しません」 「俺のおかげだなんて持ち上げるなよ。くすぐったくてジンマシンがでる」 おどけるシオンを無視してイーリスは続ける。 「バンシーを通じて自分と向き合えたのはよい経験でしたが、それだけではないのです。このクラインの王都には、変わったお客がいました。王族らしからぬ姫君、未分化のアンヘル、きわめつけは異世界から来た少女。誰もかれも、私の常識をはるかに超えていました」 「確かにインパクトのある連中だったかもな」 常識を超えていたことについては、シオンも認める。 「私は彼女たちから、いろんなことを教わりました。一言で言うなら、そうですね、諦めないで追いかける、ということでしょうか。自分で言うのもなんですが、私は無駄の嫌いな現実主義者だった。例えば、愛だの夢だの、そんな言葉はただの売り物でした。本気で手に入れたいと思うなど、恥ずかしいし、無駄なことだと思っていました」 イーリスの過去を思えば、それもまたやむを得ないことだったろう。 「けれども、たまには無駄なことに思いを巡らすのもよいかもしれない、そう思えるようになりました。あるいはそう、時にはほんの少し勇気を出して、無駄なことを追いかける。そういう時間があってもよいかもしれない」 「勇気、ねえ」 「あなたもですよ、シオン。花のお礼です。これが、別れの言葉の代わりにあなたに贈る言葉です」 商売柄いつも見せる謎めいた微笑とともに言葉を投げられ、とりあえずシオンは黙ってしまう。 シオンには、イーリスの言いたいことがわかっていた。ある意味、遊び人の仮面をかぶってプレイボーイを演じていると言われても、返す言葉がない。他の奴に言われたのなら、ぶっとばして終わりだが、修羅場をくぐったイーリスなら話は別だ。 「あなたも、さらって逃げたいくらいの女性に出会ったら、振られる前に振る、なんて言ってる場合ではありませんよ」 「大きなお世話だ。一人寂しく旅立つお前に言われたくないね」 「私もどこかで、生涯をかけて愛せる人を見つけます」 「うっわー、くさい台詞」 「これでも詩人ですから」 そうして二人は、大人の余裕、と言わんばかりの表情を見合わせて、今度は思い切り破顔した。 どんな思いも、言葉にすると、陳腐で単純なものになってしまう。言葉の後ろに込められた思いを汲み取れるかどうか。それこそがコミュニケーションの成立というもの。 気が付けば、周囲には大きな荷物を抱えた商人らしき旅人たちの姿があり、もうすぐ馬車が来るだろう、と声高に話している。 「どこに行くんだ」 「海の方へ行ってみようと思います」 「また来るか」 「さあ、どうでしょう」 「今度来たら、また珍しい花を見せてやるよ」 「もしも、また来ることがあれば」 「また来いよ、春にな」 さっきまでの饒舌さが嘘のように、短い会話が途切れると、二人は黙って空を見上げた。 空は、どこまでも高く続くかのような冬の色から、どこか白くぼやけた春の色に変わっている。 もう春なのだ。 風少し出でて名残の空ありぬ
岸田稚魚
「名残の空」というのは、俳句の季語です。 もともと古歌で、恋や別離の感情を抱いて見上げる空のことを意味していたものだったが、 ゆく年を惜しんで名残を惜しむ空、という意味に変わってしまい、今では年末の季語だそうです。 ここではあえて、元の意味で、別れを惜しむ空、ということで使いました。 くどいけど、シオンとイーリスの恋の歌じゃないのよ。 これを書く前に砂沢皓さんにお願いして撮ってもらった写真がこちらです→★ |