○月○日 色々と事件があって、しばらくこの日記が書けずにいた。 まだしっかり頭の中が整理できていないのだけれど、とりあえずあったことを忘れないうちに書いておこうと思う。 ――その日の午後は授業がなく、城下にお忍びにでも出ようと思って、わたくしはうきうきしながら廊下を歩いていた。その時、すぐ近くで誰かが叫ぶ声が聞こえた。 ――誰か、助けて! 確かにそう聞こえた、と思ったわたくしは、急いで声のした方に走った。そしてすぐに、王宮の文官達が務める総務室の前ので、真っ青な顔をしたメイドと数人の女官が右往左往しているのに出くわした。 ――どうしたの、何があったの? ――姫さまっ! メイドの一人を捕まえて無理矢理に事情を聞くと、総務室で火が出たという。 そう言われてみれば心なしか空気が焦げ臭い。よく見ると、半開きの部屋のドアの隙間から、うすく白い煙が漏れ出しているのが見えてゾッとした。 ――とにかく、火を消さなくちゃ。水を運んで来ないと。人手ももっと要るわ。 ――姫さま、じ、実は…。 メイドはガタガタ震えながら部屋を指差した。 ――あの中にまだ人が。 ――なんですってっ! 煙に気付くほんの少し前に女性がこの部屋に入るのを確かに見た、後ろ姿だけで、それが誰かはわからない…という。 ――本当なら大変じゃないの。 わたくしは慌てて回りを見渡した。残念ながら騒ぎを聞きつけてやって人がやって来る気配はまだない。いや、一人だけ、私が話しかけたのよりももっと若いメイドがバケツを下げてバタバタと駆けてきた。 ――もっと水を。それからあなたはその辺から人を呼んで来て。大急ぎでね。 指示しながら、わたくしは彼女からバケツをひったくり、その水を頭からかぶった。 ――ひ、姫さまっ! 周囲の誰もが唖然として止められないでいる隙に、わたくしは総務室のドアを開けて中にすべり込んだ。 物の焦げる匂いにむせそうになって、わたくしは口を押さえ、部屋の中を見回した。部屋中央にあるテーブルの上に広げられた書類らしきものが炎を上げており、床のあちこちにも小さな火が飛び火していた。そして。 炎と煙を背景に、正面に確かに人影が立っているのをわたくしははっきりと見た。 黒い、闇を溶かし込んだように黒い装束に、顔の下半分を覆うマスクという、どうみても尋常でなく怪しい風体。背はわたくしよりずっと高くて、何より印象的だったのはその長い髪だった。青銅色の髪が炎に照らされて鈍く光ってみえた。 ――女のひと…? 記憶の底をつつく何かを感じながらも、わたくしはそこで出くわした異様な人物を呆けたように見つめるだけだった。 「あらあら、本当にじゃじゃ馬なお姫様ね。…こんなところにわざわざ入ってくるなんて。」 幻聴ではないと思う。その人物は確かにわたくしに話し掛けてきた。その声は凛と張ったよく通る声で、その声音は嘲るようでいて純粋に事態を面白がっているようでもあった。そう、彼女は――やはり女の人だ、とわたくしは思った――確かに笑っていた。 「血は争えないわね…本当に。」 呆れたように言うと、彼女はそっと人差し指をマスクに隠された口元まで持っていき、「静かに」という身振りをしてみせた。 「わたくしにここで会ったこと、誰にも話さない方がよろしいわ、お姫様。」 その時、大声でわたくしの名前を呼ぶ声とともに、わたくしが入った背後のドアから、誰かが部屋の中に駆け込んで来た。 「あなたの騎士様がいらしたようよ。これに懲りて、あまり無茶はしないことね。」 わたくしの耳に届いた、それが彼女の最後の台詞だった。 「何をやってるんだ、大丈夫かっ」 「お兄様…!」 わたくしはお兄様の腕に抱きとめられ、そのまま引きずられるようにして部屋を出た。 最後に後ろを振り向いたとき、そこにはもう何の人影も見えなかった。 ――消えた…? そして、わたくしはそのまま気を失ってしまった。 後から聞いたところによると、火事は部屋の中をところどころ焼いただけで、大きな被害もなく消し止められたのだそうだ。 火事そのものよりも、気を失ったわたくしが火の中から運び出された、という事実の方が重くみられて、わたくしはお父様とお兄様からさんざん叱られた上、怪我ややけどを負ったわけでもないのにベッドに入れられてしばらく自分の部屋から出ることも禁じられてしまった。だからあの謎の女性のことを考える暇はたっぷりとあったのだ。 焼け跡に怪しい人物の跡が見つかったという知らせは聞かない。たぶんあの人は、部屋の窓から外へまんまと逃げおおせたに違いない。一体誰だったのだろう。 あの部屋で誰かに会ったなどという話を、わたくしは誰にも一言も話さなかった。お兄様にさえも。 ベッドに縛り付けられているわたくしを見舞いに毎日のように訪れるお兄様にわたくしはそれとなくあの日のことを聞いてみたけれど、お兄様はあそこにわたくし以外の誰かがいたなどと、少しも思っていない様子なのだった。 ――お兄様はあの人をご覧にならなかった。 もしかして、あれは夢、幻、でなければ炎の見せた錯覚だったのだろうか? いいえ、そうじゃない。わたくしは、なぜかそう確信していた。 事件からしばらくして、お兄様から最近の王宮内でのニュースを聞かされた時に、その確信はますます強まった。 お兄様いわく。 あの火事の後始末をしていたところ、今まで誰もが知らなかった書類の山が部屋から発見されて、ちょっとした騒ぎになったのだという。その書類は――お兄様はあまり詳しいことは教えて下さらなかったけれど――一部の貴族と王宮の官吏の癒着(とお兄様は難しい言葉でおっしゃった)を示すもので、それが元で罪に問われる人が何人か出るだろうとのこと。 ――火事のおかげで上手い具合に王宮内のゴミが掃除できるようだよ。 ――不思議な偶然ですわね。 お兄様に相づちを打ちながら、わたくしはその「偶然」について考えてみた。 火事を隠れみのに何かを盗んで行くことは出来る。 だから、その反対に、今までそこに無かったものを置いていくことだって出来るはずだ。 帰って行くお兄様には、また何かニュースがあったら教えてとお願いした。 一人になって目を閉じると、炎を背景にしてあの人物のシルエットが瞼の裏に浮かび上がってくる。記憶を探って、頭の中でそれに特徴を付け加えていく。黒い衣、長い髪…そして、わたくしを見つめていた青い瞳。不敵な笑いを浮かべたその女性の像は、それから何度もわたくしの夢を訪れたけれど、その姿はなぜかとても懐かしいものに思われて――不思議と恐ろしいという気持ちは起こらないのだった。 ○月○日 わたくしの謹慎はしばらくして解けたけれど、だからといってお忍びに出る勇気はまだなく、今は王宮内をぶらぶらして過ごしている。 そんなわたくしに、城下にいる友人達がどうしているかと手紙をくれる。心配してくれているらしいらしい文面が素直に嬉しい。 もうひとつ、とっても嬉しいこと。 お母様が王宮にお帰りになった! わたくしの事件がお耳に入ったその日の内に離宮から一人でお戻りになり、お付きの召し使い達が後から慌ててやって来る始末だった。もうすぐ赤ちゃんが産まれるお体であるのにと、お父様の心配される様子はただ事ではなかったけれど(本当に、お母様のこととなるとお父様はお人が変わってしまわれる)、いつものことながらお母様はご自分の意見をきっぱりとお通しになった。 一旦お母様が戻られると、これまでどうして離れていられたのかわからない位、昼も夜も一緒でないと我慢できなくなってしまい、お兄様には「赤ん坊に戻った」とさんざんからかわれてしまった。 そういうお兄様だって事あるごとにお母様のお部屋に顔を出すくせに。「お兄様」とはいってもわたくし達は同い年なのだから何かと年上風を吹かすのはやめて欲しい。 とにかく、今はお母様もいらっしゃるし、授業もずっとお休みだしで、幸せ。もしかしたらあの事件には感謝しないといけないのかも…。 |