甘い接吻
〜時代劇浪漫譚妖恋話−外伝其之一〜
(Written by まりあ さま)

〜上様お忍びの巻〜


 
壱之段
 
 

ある昼下がり。
大奥の御台所リリア内親王は、琴の弦を弾いていた。噂通りに彼女は芸術を愛する様で、その音色は単調でありながらも、朗らかで柔らかな優しく、御台所の部屋はまるで都の情緒溢れるものに変えていた。都から来た姫君のものはその雅さに都を忍び、裾を涙で流すものまでいたくらいだった。
「そちらへ!なんとしても捕まえるのですっ」
だが、そんな雰囲気をぶち壊す声が鳴り響いた。女達の声に、姫君の侍女が騒がしいとばかりに一体何事かと思い、顔を見合わせる。リリア姫の方は、琴を止め、顔を上げる。
「宮様?」
古くからリリア姫に仕える侍女が不思議そうな顔をさせた。リリア姫は、構わずに自ら立ち上がり、障子を開けた。と、・・・その時である。
「匿って下さいましっ!」
開けた途端、そんな言葉と共に黒い影が御台所に飛び込んできた。途端に、リリア姫の侍女達は悲鳴をあげる。リリア姫は、そのままゆっくりと障子を閉め、その影に顔を綻ばせた。
「ディアーナ姫様?!」
侍女達は、破顔をする。その影は、何と将軍の妹ディアーナ姫その人だったのである。リリアは、懐から手拭いを取り出し、ディアーナに差し出す。
「汗をおかきですよ。お茶の用意もしましょうか?」
にこりと微笑むリリアに、ディアーナはありがとうございますと顔に掻いた汗を拭った。リリアは、いいえと笑みを返し、お茶を早急にお出しする様に侍女にお願いをした。それから、ゆっくり呼吸を整えさせ、ディアーナに座布団を用意をし、そこに座らせた。リリアは、にこにこと微笑みを絶やさず、自身も彼女の前に座った。別段圧迫感は一切感じられなかった。ディアーナは、一安心した様に胸を撫で下ろしたその時である。
ばたばたと渡り廊下が騒がしくぷつりと止んだかと思ったかと思うと、リリアの部屋の前で立ち止まった。白い障子にくっきりと影が一つ。ディアーナは、その影に慄いた。リリアがディアーナに奥に隠れる様に指示をすると、彼女はこくりと頷き、奥の方へと隠れた。そっと襖を一寸ほどのゆとりを開けると、リリアの豊かな、美しい髪をした後ろ姿が見えた。彼女は、ディアーナが飛び込んでくる前の様に、琴を弾いていた。
「奥方様、失礼します」
高々宣誓して入って来たのは、ディアーナの養育係だった。この養育係は、至極ディアーナに当たり意地悪をする。いや、ディアーナだけではなく、侍女達をも蔑み、誰からも疎まれる存在だった。何故城に抱えられているのか、とさえ噂される程の者である。
どっきーん。
養育係を見た途端に、ディアーナの顔が一気に強張った。
ディアーナの養育係は睨みを利かせ、じろじろと辺りを見回していた。リリアは、朗らかな笑みを浮かべながら、養育係を出迎えた。
「何か?」
何事もなかったかの様に、すまし顔で養育係に顔を向けずに、リリアはまだ琴を弾いていた。
「はい、失礼ながら、ディアーナ様が来られなかったでしょうか?」
そこでリリアは、やっと顔を上げた。洗練された美しい物腰で、細められたコバルトブルーの瞳も気品に満ち溢れていた。
「ディアーナ姫が?」
「はい」
同じ女として嫉妬してしまうほどの美しさに、養育係はどうにか押え込みながらも、尚も続ける。
「残念ながら、妾の処には来ておりませぬ。・・・その方等、姫を見たかや?」
リリアの流し目に、侍女達は口を揃えて存じませぬと返事をした。養育係は、出鼻をへし折られた様な気分に苛まれ、苦渋の顔を浮かべた。
「・・・左様でございますか。申仕分けありませぬ。これにて失礼致します」
言いながら、養育係は立ち上がる。
「折角の御越しじゃ。茶でもどうであろう?」
リリアは、気を利かせた様に声を掛けると、養育係は結構ですと断った。あくまでも顔には出さなかったが、悔しそうな雰囲気はありありと見て取れた。養育係は、廊下を出ると、本当に悔しそうにどかどかと無作法にも足音を立てて去っていった。リリアは、足音が去っていったのを目を閉じながら、聞き分け、それから後ろを振り向き、にこりと笑みを浮かべた。
 
 

「もう宜しいですよ、ディアーナ姫」
満面の笑みを湛えたディアーナが襖を開け、リリアの元に駆寄った。
「格好良かったですわ!ありがとうですわ、リリアお義姉様っ」
やや興奮した様に頬を紅潮させながら、抱き着いた。侍女達は、はしたないといった様子であるが、リリアは優しく抱き止めた。
「うふふ、大した事はしておりませんよ」
「あの養育係、いつもわたくしを目の敵にしていますの。ほとほと参っていましたの」
肩を竦めながら、ディアーナが言うと、リリアはくすくすと笑った。
「その様ですね」
お茶が来たのを見遣り、リリアはそれを受け取り、侍女に笑みを浮かべ礼を言う。それを、自身で用意した御茶菓子と共にディアーナに勧めた。
「ありがとうですわ。でも、本当にリリアお義姉様が居て助かりましたわ」
「ふふ、そうですか?そう言って頂けると、とても嬉しゅう存じますよ。でも、程々に御勉強の方も為さった方がいいですよ。殿も御心配しておりますから」
相手を尊重しながら説き伏せる様に言うと、ディアーナは素直に頷き返した。
「はいですわ。でも、あの養育係だけは好きじゃありませんの」
お茶と御茶菓子にありつきながら、幸せそうに微笑んだ。御輿入れの際、かなり心配していたものの、今ではすっかりディアーナは、本当の姉の様に懐いていた。
「そういえば、城内の生活は慣れましたですの?何かあったら、わたくし、お力になりますわ」
「ありがとうございます。殿と姫様のお陰様で少しづつですけど、慣れてきていますよ」
リリアは、先程養育係に見せた感じはすっかりなりを潜め、朗らかな笑みを向け、ディアーナに優しい視線と共に応えた。彼女は、末の娘であった為妹がおらず、将軍の妹である彼女を心からの真の妹の様に思う様になっていた。
「そうですの。良かったですわ。でも、城下町の事は何も知らないですわよね?」
「そうですね。こちらへ参る時に、牛車の中から拝見させて頂いた程度でしょうか?」
リリアは、下町の様子を思い出していた。彼女の乗った牛車とは大層立派なもので、「唐車」または「唐庇車」と呼ばれる上皇や摂政関白等大変高貴な人が常用するものなのだが、そこから物見窓と呼ばれた窓みたいなところから見えた景色は、彼女にとって真に新鮮なものだった。着飾った都とは違って生き生きとした活気のあるクラインの下町が人の有り様を様々に彩っており、大変興味深いものだと感じ取っていた。それと同時に、やっと恋に待ち焦がれたセイリオスの政治がどれ程繁栄しているかという事も分かり、彼女は彼の元に嫁ぐことの出来る事への誇りと幸福感に満ち溢れていた。
「下町はとっても面白い処ですのよ。私の御友達もいますし」
「まぁ、下町に御友人が?」
リリアは、目を丸くさせながら、それでも興味深くディアーナのきらきらと生き生きとした顔をこれまた自分の事の様に嬉しそうに、慈愛のこもった姉の様な視線で見詰めた。
「はいですの、実は・・・」
そう話し出したディアーナは、下町の事を全く知らなかったリリアに色々と延々と語った。それを飽きもせずに、全てに熱心に耳を傾け、未知の世界を知る事に歓びを見出しているリリアの姿が見受けられた。彼女達の話は、夕刻まで続けられたとか。
 
 

その夜。
御台所の寝室には、時の将軍セイリオスが来ていた。大奥に御台所を迎えて以来足繁く、将軍は大奥に来ていた。勿論、他の誰でも無い奥方リリアの許である。あれだけ疎遠だった大奥に息吹を運び、普通女達の妬みと羨望の脚光を浴びる事になるリリアであるが、持ち前の器量さと優しさであろうか、大奥を見事に束ねあげつつあった。流石は寸分違わずの才女というべきか、セイリオスさえもその容量の良さは舌を巻くくらいであった。だが、リリア本人は至ってその様な事で権力を振るう事は滅多に無かった。先程の様な事例は、寧ろ珍しい事であろう。
「・・・今日ディアーナを庇ったと、養育係がかんかんだったよ」
酒を振舞う妻に対し、セイリオスは何気なしに問い掛けた。
「そうですか。・・・殿、余計な事をして申し訳ございませんでした。ですが、あの養育係の方の指導を少々拝見させて頂いたのですが、姫様に必要以上に厳しい様でしたので・・・」
ここが彼女の頭のいい処だと感じる瞬間だ。相手の手前の考えておきながらも、自身の意見もきちりと伝える。そこがまた嫌味でもなく、寧ろ人にすっと浸透しやすい様に入り込ませるのだから、不思議だった。昔から知っている彼女に、心底惚れた点は一目見た時に見た美しい容姿だけでは無い。頭の良さに、この人徳ゆえにだ。
「厳しくするのも時には必要なことだと思うけど?」
セイリオスは、酒を呷り、リリアに杯を差し出す。リリアは、朗らかにセイリオスをも諭す様に微笑みながら、酒を注ぐ。
「確かにそうでございましょうけど。ただ闇雲に厳しいというのも無意味でございますよ?」
「あの養育係はそうである、と?」
「・・・懸命な殿ならば、わたくしから何か申す事もありますでしょうか?」
奥床しさの中に気品と芯の強さを垣間見られ、セイリオスはますます参ったなと苦笑する。実の処、あの養育係は以前から問題があるとは思っていたのだ。だが、これもディアーナの為と思う為に心を鬼にして、そのままにしておいたのだろうが、果たして良くはなかったのだろうかと今更ながらに考えてしまう。
「だが、彼女が博識なのは誰もが認める事だよ?」
「それはそうでありましょうけど、御人がなっていないご様子です。大変余計な事だと存じますが、上に立つものとしては些か問題があると存じます」
とくとくと酒を杯に注ぎ終えてから、リリアは真っ直ぐとセイリオスを見詰めた。
「・・・女のわたくしがでしゃばる事ではないと心得ております。ですが、姫様の事をお考えならば、どうかそういう意見もある事だけはお心に御留め下さい」
まるで自身の事の様に苦しそうに、そして、悲しそうな瞳で一瞬だけ見詰め、リリアは目を伏せた。
それが決して演技ではなく、本心から出した言葉だとセイリオスは思った。
「全く君には参るな。私はお手上げだ」
セイリオスが降参だとばかりに手を挙げると、リリアは目を丸くさせ、何でしょうかと心底不思議そうに可愛らしく小首を傾げた。
「殿。僭越ながら、わたくしは自分の意見を言ったまでですが・・・」
こういった少々天然ボケの入った処がまた愛らしく、セイリオスは苦笑する。
「その意見に参ったって言っているんだよ?」
肩に手を乗せそのまま抱き寄せると、リリアはあっと小さな悲鳴を上げ、顔を真っ赤にし、俯いてしまった。未だに初々しい反応を見せる妻に、セイリオスは愛しいそうに口元を笑みを作った。
「・・・それよりも、ディアーナ姫から下町の事を色々とお伺いいたしました」
照れの隠しを誤魔化す為か、リリアは視線を泳がせながら、ぽつりと呟いた。
「ディアーナに?」
多少身動きをしセイリオスの顔を見詰めながら、リリアはコクリと頷いた。
「下町の人情味の溢れる方々や美味しい団子屋、それに、歌舞伎や浄瑠璃の事。それから、本当に人様が一生懸命働いている様子等もお聞きいたしました」
手の平をあわせながら、まるで子供の様な無邪気さをもって楽しそうに何時にも増して饒舌的に語り出すリリアを見ていく内に、セイリオスはある事を思い立ってきた。そして、彼は何かひらめきを思い立っていた。
 
 

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