慶次郎旅日記

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日本国内には、戦国時代を物語る数々の遺品や城が今もたくさん残されている。

これは、それらを訪ね、遠い昔に戦場を駆け回った武者達の記憶を辿る旅の記録である。

<旅日記1>

<旅日記2>

<旅日記3>

<旅日記4>

<旅日記5>

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米沢の地へ

以前から一度は訪ねなければと思っていた山形は米沢市。

ここは、関が原の合戦で西軍と協力した形になった上杉家が、会津120万石から移封された地である。

米沢には直江兼続の居城であった米沢城があるが、いまは上杉謙信公を祭神とする上杉神社として残っている。

 

<2003年9月12日 PM3:00米沢市到着>

今回わしは従者一人を伴って米沢に入った。

さっそく旅館に荷物を置き、市の中心部にある上杉神社へと出かける。

ここには上杉家ゆかりの品を保管している宝物館「稽照殿(けいしょうでん)」が、一般に公開されている。

また、米沢城は伊達政宗が誕生した城としても有名である。

 

<同日 PM4:00旅館にて>

上杉神社から帰ってきたわしと従者は小野川温泉につかり旅の疲れを癒した。

この温泉は普通の温泉よりも温度が高く、従者は熱い風呂になれていないのか、なかなか湯船に入れなかったほどである。

熱い風呂で汗をかいた後は冷たいビールである。

従者と飲み交わすうちに食事が運ばれてきた。

米沢牛を堪能し、大いに飲み、初日の夜は更けていった。

 

<2003年9月13日 AM11:00善光寺へ>

米沢市の南東にある別名「あじさい寺」、「堂森善光寺」

1200年の歴史を持つ米沢でも最古の寺である。

ここには、今回の旅の目的のひとつである前田慶次郎の供養塔がある。

ひっそりと立つその供養塔をしばし眺めたわしと従者は、次にこの善光寺の裏手にある、慶次清水へと向かった。

 

<同日 PM0:00慶次清水へ>

善光寺の裏手に市営球場があり、そのスコアボードの裏に慶次清水はある。

じつは善光寺の住人の方にあらかじめ聞いていたのですぐに見つけることが出来たのであるが、何も知らずに来たならば

見つけるのは困難であろう。

草を掻き分け、蚊に刺されながらやっと慶次清水に着いた。

そこには小さな石の祠があるものの、慶次清水や慶次郎が使ったなどの目印はなく、本当に自然のまま残っている。

清水をひとすくい手に取り、そっと口に運んでみた。寝雪が地下を通って湧いているのか、とても冷たく、

慶次郎もこの水を飲んでいたのかと思うと身震いがする思いであった。

 

<同日 PM0:30甲冑見学>

慶次清水でさんざん蚊に刺されたわしと従者が次に向かったのは、慶次郎や上杉景勝の甲冑が展示されている「財団法人 宮坂考古館」。

ここには旧米沢藩領を中心とする郷土の有形文化財700点あまりが所蔵されている。

さっそく入場料300円を払い、館の中へ入ったわしらは、そこに並ぶ甲冑の数々に声も無かった。

館の中は1室しかなく、興味の無い者なら3分で見て回れてしまうほどなのだが、わしも従者も黙ったまま一時間も見入っていた。

上杉景勝直江兼続上杉謙信前田慶次郎といった戦国時代を代表する上杉家の武将が、あたかもそこにいるかのような錯覚さえ覚えるほどであった。

 

<同日 PM2:00ふたたび上杉神社へ>

初日に見ることが出来なかった上杉神社にある稽照殿に訪れた。

ここでは、直江兼続の愛の前立ての甲冑や、上杉謙信の甲冑、信長、秀吉から送られた品物などを見ることが出来る。

わしが驚いたのは、当時の女性が着ていた着物が今の小学6年生くらいの大きさしかなかったことである。

当時の人たちは栄養もかたよっていて余り背が高くなかったのであろう。

ちなみに、慶次郎の甲冑も直江兼続のものと比べるとすこし小さく、一説には155cmくらいであったという。

 

<同日 PM4:00ホテルへ>

当初、滞在の予定は1泊であったのだが、わしも従者もまったり好きなので、もう1泊することとなった。

駅からは遠いが車で行ったときにお勧めのビジネスホテルを発見。

「HOTEL平成」

ここは、1泊3500円で朝食も400円。また、自動車を無料(ガソリン代だけ)で貸し出ししてたり、温泉への紹介(100円で入浴できる)もしてくれる

とてもリーズナブルなホテルである。

この日は9月最高の気温で、気持ちよく汗をかいたわしと従者は、早速ビールを一気に飲み干した。

 

<2003年9月14日 PM1:00上杉家廟所へ>

ここは、上杉謙信、景勝をはじめ歴代の米沢藩主の御堂があり圧巻である。

こうしてみると、米沢の地はいたるところに上杉家の寺や史跡が今も残っており、米沢に移ってからの直江兼続や上杉鷹山の街づくりが

しっかりしたものであったことを物語っている。

 

<同日 PM2:00春日山林泉寺へ>

林泉寺は上杉家先祖の菩提所を越後高田から移し、直江兼続夫妻や重臣たちの廟所になっている場所である。

<逸話15>に語られている坊主はこの寺の者である。

 

<同日 PM3:00米沢を後にする>

3日にわたる米沢の旅も終わりを向かえ、これまで見てきたものを思い返すと、上杉家が貧窮した時代を送ったにもかかわらず、

土地の者達が力をあわせて守ってきた強い意思のようなものを見た気がする。

会津から移ってきた景勝や兼続、そして上杉家を唯一仕える家と京よりやってきた慶次郎。

400年前のそれら歴史上の人物達の息吹をかすかに感じ取れた旅であった。

 

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小江戸 川越

埼玉県川越市。ここは川越城の城下町として栄え、「小江戸」とも呼ばれている。

川越城は1457年に関東管領の扇谷上杉持朝が、大田道真、道灌親子に命じて作らせたものである。

今は本丸御殿の玄関と大広間が残っている。

 

<2004年4月3日 PM1:00川越に向け出陣>

今回も伴は従者一人と、気ままな旅であるが、前回と違うところは、移動が電車であるということだ。

桜舞い散る季節であるため、酒を飲むことは必定であると考えてのことだ。

 

<同日 PM2:00家康公を偲んで>

われわれが今回目指す川越歴史博物館へは、JR川越線、東武東上線川越駅より歩いて20分ほどのところにある。

巡回バスも出ているのだが、おりしも天気は晴れ、桜は満開であるので、徒歩で行くことにした。

しばらく行くと、東照宮という立て札が目に入った。

徳川家康の遺骸を久能山から日光へ移す途中、4日間とどまって、天海僧正が大法要を営んだ因縁で創建されたものである。

 

<同日 PM2:30花見>

東照宮から喜多院へと続く道は桜が満開で、多くの出店が出ている。

今日は日向に出ていると汗ばむほどの良い天気である。

従者と目が合った...。何も言わずにビールを購入するわしと従者..。以心伝心である。

 

<同日 PM3:00川越歴史博物館>

本格的に飲み始めてしまう前に、川越歴史博物館へやってきた。

ここでは、川越城主所有の品や、甲冑( )、兜( )、武具( )などが展示されており、戦国時代の物も多数ある。

後藤又兵衛の兜や、織田家伝来の南蛮笠形兜武田騎馬軍団所用の甲冑など、興味深いものが多い。

また変わったものでは川越城に仕えていた忍者が所用していた手裏剣や、名のある武将が使うのであろう馬の装飾品が展示されている。

この馬の面や鞍をみると、当時の馬の大きさが想像できるが、かなり小さいことがわかる。ポニーをちょっと大きくしたくらいであろうか。

伊達政宗が159.4cm(当時の平均身長)であったことから、このくらいの馬でも十分だったのであろう。

(ちっちゃい馬とちっちゃい武将が小競り合いしている図は想像するとおかしいが....)

 

<同日 PM4:00再び花見>

小腹の空いたわしと従者は、喜多院の花見会場へと戻り、今日見た歴史の数々をつまみに杯を交わした。

こういう旅は感性が同じでないと、どちらかが飽きてしまったり、行動が制限されたりということになり兼ねないが、

幸い、わしの従者は、わしが勝手気ままに決める行程に文句も言わず付いてきてくれる。

これからも各地に赴くことを約束し、今回の旅を終えた...。

 

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信州 真田の里へ

西暦1600年。上杉征伐の名目で北上していた家康は、西で挙兵した石田三成を打つべく、急遽遠征軍を返し、

関が原の地でこれを破った。そのとき、家康の跡継ぎである秀忠は、3万の軍勢を率いながら、わずか3千の真田軍に上田城で足止めをくらい、

とうとう関が原の決戦に間に合わなかった。

今回は、表裏比興の者といわれた真田昌幸、大阪の陣で活躍した真田幸村、その兄信之のゆかりの地、長野県の旅である。

 

<2004年9月17日 AM8:40長野へ向け出陣>

知らない土地をスムーズに旅するには、その土地の事前情報と、地図情報が必須であると考える。

今回はわしの車ではなく、いつもの従者の運転する車であるため、カーナビが付いていない。

そこで従者には、前もって道程を調べておくように指示をしておいた。

自分で旅をする場所のシュミレーションをするというのも旅の楽しみの一つであると思っていたので、

従者がどこまで調べてくるか楽しみでもあった。

さて、当日。従者が取り出した地図には、きちんと赤入れがされており、主要目的地も記入されて、方向音痴のわしもほっと胸をなでおろした。

これからの旅でこの地図が非常に役に立つことになる。

 

<同日 PM1:15真田宝物館>

この真田宝物館には、松代城主真田家ゆかりの品々を展示しているということで、初日には訪れようと思っていたところである。

従者作成の地図により、難なく到着することが出来たわしと従者は、休憩もそこそこに宝物館へ入場した。

そこには、真田家ゆかりの甲冑( )や、武具が並べられていた。だが、石田三成や武田信玄からの書状など、レプリカが多く、

興が冷める思いであった...(これでは長野まで足を運ばずに、本で見るのと同じである)。

 

<同日 PM2:30松代城跡>

真田宝物館からさほど遠くない場所に松代城跡はある。

ここは、明治維新の際に取り壊されたものを、最近復旧したものである。

新たに作ったものであるため、歴史の重みは無く、感慨にふけるといったことは無かった。

明日こそは...という気持ちで宿に向かった。

 

<同日 PM4:00宿へ>

本日の旅の反省をするべく、宿に到着したわしと従者は、早速ビールを開けた

わしの旅の目的は、普段目に出来ない本物を目にして、当時の武将達の思いを少しでも感じようというのが一つであるのだが、

初日の内容はそれを満足させるものは無かった。

だが、ほろ酔い気分で露天風呂に入り、今日の疲れを癒すと、それまでのがっくりムードも吹っ飛んで、改めて旅に来て良かったと思えてしまうのは、

わしも従者も楽天家であるからであろう。

 

<2004年9月18日 AM11:30佐藤博物館>

2日目のメインである、佐藤博物館へ到着。

ここは、故佐藤忠彦氏が収集した甲冑や武具を財団法人化して一般に公開している、東日本唯一といわれる博物館である。

早速入場券を購入し、中へ入るわしと従者。

そこで目にしたものは...前日とは比べ物にならないくらいのおびただしい数の武具甲冑である。

まず館内で一番目に付くのが、上杉家伝来の扇の馬印。この馬印の前で謙信や景勝といった上杉家の諸将が戦を行っていたと思うと感慨はひとしおである。

ほかにも景勝が具足初めに着用した甲冑、室町時代のさまざまな兜(    )、上杉家伝来の軍配、などが所狭しと展示してある。

さらに、2階へと足を運ぶと、無数の甲冑群(    )がわれわれを出迎えた。

また、川越歴史博物館にあったような馬の装飾品、大名が戦の際、雑兵に貸し与えた貸具足、鎧の下に着込む鎖帷子

鱗状に加工した皮を何枚もつないで作った鱗鎧、頬を守るための頬あて、等珍しいものも数多く展示されている。

この日、お客はわしと従者のただ2人であったため、飽くことなく1時間ほど眺めていると、管理人の方が心配になったのであろう。

2階の我々の元にやってきて声を掛けて来た。そこまで熱心に見学しているのならば、倉庫に眠っているものを見せていただけるというのだ。

我々はそのご好意に甘え、倉庫へと案内してもらった。

そこには、展示している数の倍はあろうかというほどの甲冑がガラスケースに入れられず、ずらりと並んでいた。

これにはわしも従者も言葉が無くなった。

管理人の方が甲冑の裏地や、縫い方などを説明してくれたのだが、その際に無造作に手で触れていた。

わしもすこし触ってみたが、やはり恐れ多い気がする。

さらにもうひとつの倉庫へと案内されたわしと従者は、そこでもびっくりするようなものを見せていただいた。

2mはあろうかという細長い箱を、管理人と従者が棚から下ろし、ふたを開けると、そこには金箔押しの大きな扇の馬印がしまわれていた。

金箔がはがれて展示することが出来ないため、倉庫にしまっているという。

また、別の箱には、景勝直筆の書状が入っており、紐解いて見せていただいた。ガラスケースにも入っていないこんなお宝を見たのは初めてである。

ほかにも陣羽織や旗指物、槍、火縄銃など歴史的価値のあるものをたくさん見ることが出来た。

管理人の方には只々感謝するばかりである。

 

<同日 PM4:30長国寺>

初日とは打って変わってのすばらしい内容に満足したわしと従者は、腹ごしらえのため、信州名物戸隠そばを食べることにした。

天気は快晴で、外にいると汗が出る程の陽気であるため、早速例のものとそばを注文する。

こしのあるそばをたらふく堪能し、真田氏代々の菩提寺である長国寺をめざした。

長国寺には初代松代藩主真田信之の御霊屋(重要文化財)があり、その彫刻は左甚五郎( )、天井の絵は狩野幽筆といわれている。

実はこのとき時刻は4:00を過ぎており、受付も終了していて中には入れなかったのだが、管理人のおばさんが声を掛けてくれ、

特別に鍵を開け、中へと入れてくれたのである。気さくで威勢のいいおばさんであった。

信之の墓碑や、幸村とその子大助の供養塔も見ることが出来、おばさんに挨拶をして長国寺を後にした。

 

<同日 PM6:00ホテルへ>

今回は2泊の予定であったため、事前に安いビジネスホテルを予約しておいた。

長野駅の目の前にあるホテルで疲れきったわしと従者は泥のように眠った...。

さすがにビールはもう飲めない....。

 

<2004年9月18日 AM11:30上田城>

真田昌幸幸村が2度にわたって徳川軍を翻弄した城。それが上田城である。

関が原の合戦後、徳川方に一度取り壊されたが、真田氏に代わって入城した仙石氏(仙石秀久の三男忠政)により復旧された。

上田城に隣接する上田市立博物館に立ち寄ると、ここでも昌幸の甲冑等、数々の武具甲冑( )を目にすることができた。

 

<同日 PM1:30帰路へ>

今回は、従者の作った地図が随所で役に立ち、スムーズに旅をすることが出来た。

また、各地で出会った信州人の人情に触れた旅でもあった。

自然の多い土地柄が、信州の人たちのおおらかな人柄を形成していったのであろう。

それは、昌幸、幸村らの素朴で実徳な性格に良く現れていると思う。

信州...もう一度訪れてみたい地である。

 

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北条攻め

天下統一も目前となった秀吉の再三にわたる上洛要請を無視し続けた北条氏。

西暦1580年、その北条氏と真田氏の間に起こった事件を口実に、秀吉は徳川家康を先陣に、総勢20万人という軍勢で小田原城をとりかこんだ。

この北条攻めの際、関東各所にある北条方の属城は、秀吉の軍勢に次々と落とされていった....。

今回は、これら北条攻めの舞台となった各城を紹介しよう。

 

<2004年11月20日 PM12:30忍城>

埼玉県行田市にある忍城( )は、城主成田氏長が守る北条方の城である。

この忍城攻略を任された石田三成は、秀吉の備中高松城攻めと同じ水攻めを敢行する。

が、石田堤と呼ばれる堤防が決壊し、水攻めは失敗に終わる。

 

この日は11月にしては日差しが強かったので、我々は忍城周辺の水城公園にて例のごとくビールを空ける。

この周辺には、三成が北条攻めの際に本陣を据えた、埼玉古墳群の丸墓山もあり、そちらから忍城を眺めると

当時の城攻めの様子や、川の流れを利用した三成の策を想像できる。

 

<2004年11月20日 PM5:00関宿城>

忍城を後にした我々が向かった先は、千葉県にある関宿城( )。

ここは利根川と江戸川の分岐点であり、水上交通の要であった。

北条攻めの後、徳川家康の異父弟・松平康元が入城した。

ここに立つ天守閣は、もちろん後世に作られたものであるが、大河を望む堤防の上に構える姿は圧巻である。

 

<2004年12月4日 PM10:40岩槻城>

日は変わって、次に目指したのは、大田道灌親子が築城した埼玉県岩槻市の岩槻城( 

北条攻めの頃は北条氏政の弟・氏房が城主であったが、浅野長吉(長政)の軍勢に攻められ、降伏開城した。

いまは公園となっており、かろうじて黒門と裏門ぐらいが残っている。

 

<2005年4月5日 PM11:00八王子城>

年が明け、春の日差しの中、花見気分で訪れた八王子城( 

ここは、前田利家、上杉景勝らの軍勢に攻められ、1日で落城したといわれる。

落城の際、城内にいた女性たちが御主殿の滝に身を投げ、血に染まったとの言い伝えがある。

 

八王子城は山城であり、天気の良い日にちょっとした山登りで訪れるにはちょうど良いところである。

我々は、御主殿跡()で軽く酒宴を張り、その後、山頂を目指した。

山頂から城下町一帯()を眺めると、城を囲む秀吉軍と、城を守る城兵たちの攻防が目に浮かぶようである。

 

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遠州 浜松・掛川

室町時代、遠州国は駿河国の今川義元の支配にあったが、永禄3年5月19日(1560年6月12日)桶狭間の戦いで

義元が織田信長に倒されると、遠州国は武田信玄と徳川家康によって二分された。

徳川家康は武田信玄と対峙するために、岡崎城から浜松城へと移った。

今回は、徳川家康ゆかりの浜松城、掛川城そして小田原攻めの総仕上げ、小田原城の旅である。

 

<2005年4月15日 AM8:00新幹線内>

今回の旅は、従者二人を連れての新幹線での旅である。

あらかじめ従者の一人に旅券を手配させておいたため、朝から一献やりながらの悠々とした出陣である。

 

<2005年4月15日 AM10:30浜松城>

桜の花びらが舞い散る中、浜松城に到着した我々を家康公の銅像が迎えてくれた。

この浜松城( )は、武田信玄の南下にそなえ、三方ヶ原の東南にあった旧引馬城を拡張したものである。

徳川家康は1570年から1586年駿府城に移るまでの約17年間を、ここ浜松城で過ごしている。

その間は、姉川の戦いや小牧・長久手の戦い、さらには武田信玄との三方ヶ原の戦いと、

徳川家康にとって、この浜松在城期間はまさに試練の年であった。

 

<2005年4月15日 PM12:00犀ヶ崖>

室町幕府15代将軍足利義昭は、信長包囲網として武田信玄に書状を送り、それに応えた信玄は西上を開始。

信長と同盟関係にある家康の領地である遠州国にも侵攻してきた。

浜松城で篭城の策を取っていた家康の元に、信玄は浜松城を無視して三方ヶ原を通過しているとの報が入る。

これを聞いた家康は、家臣の反対を押し切り、信玄追撃を実行する。

元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原に到着した家康軍が見たものは、魚麟の陣を敷いて待ち構える武田軍の姿であった。

家康軍は鶴翼の陣に構えこれに対するが、兵力・戦術の差は歴然。大敗を喫することとなる。

家康はわずかな供回りと共に命からがら浜松城に逃げ帰ると、その姿を絵師に描かせ生涯の戒めとしたという。

浜松城まで追撃してきた山県昌景ら武田軍は浜松城には突入せずに犀ヶ崖付近に野営していた。

家康はこの武田軍に夜襲をかけるべく、崖に白い布を張り、橋に見せかけておいて、武田の陣営の背後から鉄砲を打ち込み、武田軍を崖底に追い落とした。

信玄は浜松城攻めを中止し、西上を開始したため、家康は生涯最大の危機を乗り切ったのである。

 

<2005年4月15日 PM3:30掛川城>

掛川城は、今川義元の子、氏真が立て籠もっていたところを、徳川家康が開城させ、甲斐からの武田軍侵攻の防御の拠点とした城である。

後に、豊臣秀吉は、徳川家康を関東に移し、この掛川城には関東の抑えとして山内一豊を配した。

掛川城の天守閣は一豊が作ったものとされている。

 

<2005年4月16日 AM11:30石垣山一夜城>

一夜明けて我々が向かったのは、太閤秀吉が北条攻めの際、一夜にして築城したとされる石垣山城である。

(実際は約80日間であり、完成後、前方の木を切り倒し北条方に見せたため、北条方からは一夜にして城が現れたように見えた)

この石垣山は現在公園として整備されており、家族連れでハイキングがてら来るにもよい所である。

天守台から小田原の町を望むと、約3キロほど先に、北条氏が立て籠もる小田原城がはっきりと見える。

この絶景を見ながらのビール( )はまた格別である。

 

<2005年4月16日 PM1:30小田原城>

石垣山からは、小田原市内を一律200円で巡行しているバスが出ている。それに乗り、次に向かったのは名城小田原城

さすがに観光スポットというだけあって、人手が多く、また城址公園内には動物園があったりと、ちと興醒めな感はあるが、

場内にはさまざまな甲冑( )や武具( )の展示などもあり、観光で来るには良い所であろう。

 

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