悲鳴が悲鳴でなくなる日大人の犯罪・子供の被害

〜 山北町水難事故の側面概念 (1) 〜

 

 最近年、誰がどう見ても異常気象=地球の悲鳴であるはずの自然現象が、我々にとって「異常」でなくなりつつあるという、人類にとって絶妙に致命的な傾向が著しく表れているのに気付き、且つそれに対して危機感を抱いている人はどの程度いるのだろうか。

 「異常」、「非常識」などという言葉に対して不変的なイメージを持つ人は多いらしいが、例えば僕がどんなに異常と思うことでも、他の人が同じ事柄を捉え、それを各自の価値観と照らし合わせた結果、「通常(普通)」と判断する人が、「異常」と判断する人の割合を上回れば、世の中的にはまさに僕が「異常」となる。「最近の若いもんはなっとらん!」という言葉をよく聞くが、なっとらんと思う人間が少数派にまわった時点で彼らいわくの「なっとらん」は世界標準となり、なっとらんことを問題視するほうがなっとらんという世の中が完成する。

このことだけに限れば、今の我々はまだ「なっとらん」と言われれば「確かにそうかもなあ」と思える「ものさし」を持っているわけだが、そうかもと思いつつ将来的に「なっとる」人間になろうと頑張っている人が少数派である以上、あと50年も経てば確実に前出のような世の中が到来するわけである。(このことは一部学者やおえらい方々の間では「国難」と言われているらしいが、現状の風潮から察するに、その人達がいなくなれば、そんなことは国難でも何でもなくなってしまうのだろう。)

 まあそれは本題とそれるので未来の題材にとっておいて。冒頭部分。異常気象も毎年起きればそれが普通の気象なる。この常識の変化は実に恐ろしいと僕は思うのだが間違いなのであろうか。近年毎年毎年何らかの自然現象で大きな被害が出ていて、そしてそれは、記憶に誤りがなければ、僕の少年時代に、周囲の大人やテレビのニュースが口々に「異常気象」と叫び称していたものと類似する現象であるはずである。ところが、昨今の現状について今、僕の周りに「異常気象だ!地球の悲鳴だ!地球は危機的状態だ!」と騒ぐ人はいない。そしてなんだあのメディアの「またですね」テイストに満ち溢れる報道姿勢は。。。

 我々は、大雨や異常高低温、四季の乱れ(季節はずれのなんたらかんたら)、梅雨が明けない、梅雨に雨が降らない、今年でいったら台風の発生位置の異常などと聞けば、まだそれが「普通じゃない」、「おかしい」ということに気付けるはずであるが、このままでいくと、やはりこの事柄も、「おかしい」などとは思わなくなる日は近いのかもしれない。「いつもの異常気象」などという根底的矛盾を抱えた言葉が報道で使われるこの時代の次に、どんな時代がやって来るのだろうか。

 既に都会の人々の日常会話の一部に、「また光化学スモッグだね」という謎に包まれた言葉がある。「いつもの酸性雨だね」、「また竜巻だってよ」、「今年の洪水は去年よりは楽ね、100人くらいしか死ななかったんでしょ?」、「ああ、○○の大発生ね、もう慣れたよ」、「えっ?梅雨って雨が降るの?」なんていう近未来の日常会話の末、人類が歩む道に選択肢はない。

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