大人の犯罪・子供の被害悲鳴が悲鳴でなくなる日

〜 山北町水難事故の側面概念 (2) 〜

 

 行動の決定権。いつの世においても、社会や家庭という組織の中では、その権限は大人にあるものだ。理由は、知識、経験、状況認識力、判断力、統率力等全てのステータスにおいて、ほとんどの場合、大人が子供を上回るからに他ならない。それは至極当たり前のことで、多くの場合子供もそれを知っているから、全て任せてその決定に従う。また従わなかったとしても、大人は強権を発動し、子供を従わせることができる。これらは大人に与えられた大いなる権利であり、そして本来、大人が持つに相応しい権利でもある。しかし。

 権利。そこにそれがある以上、もれなく義務と責任が存在することを忘れている大人は、その権利を持つに相応しくない。即刻放棄し、子供の未熟な判断力に、各々の意思と行動の決定を委ねたほうがまだマシである。大人(特に親)は、子供の行動の決定権を持つ以上、間違った決定は許されない。

1999年8月15日の山北町水難事故、あれはどういうことか。あそこにいた大人は、子供を殺したかったのか?仲間全員で心中がしたかったのか?それならそれでいい。それが大人の下した決定というなら、何か我々にはわからない事情でもあるのだろうから口は出さないし、捜索にかかる税金の一部も同県民としてためらうことなく担おう。しかし。「非常に反省している」(=救助された方談)という情けなさすぎるコメントを聞いた瞬間、他人事ながら悲しみと憤りに襲われるハメになった。

別に大人がサイレンや警告を無視するのはいい。誰にどう止められても中州にいたければいればいいし、放流があってもいつものことだから大丈夫と信じたければ信じればいい。それは大人の判断での大人の意思なのだから。その結果流されようが飲み込まれようが、他人は誰も(少なくとも僕は)悲しまないし、また運良く助かったら、周囲に感謝し、それこそ後悔し猛省して、その経験を人生に活かせばいい。ところが。子供は違う。知らない大人がハンドマイクで危険と叫ぶ。しかし、かたくなに自分の最も信頼する大人の愚かな判断を信じ、従い、そして濁流の中に消えていった。

 殺人(過失致死)で断罪されても決しておかしくはない。むしろそうなるべきである。同じように判断力を委譲しているパターンの、「医療ミス」で患者を死亡させた医師が過失致死であるという論理と考え方は同じで、医者の患者に対する「これを飲めば大丈夫」という言葉と、親の子供に対する「ここにいれば大丈夫」という言葉の威力は変わらない。大人の意思と判断で子供の生死を左右することなど恐ろしい程に簡単。だから。そうである以上、悪意だとか殺意だとか、そういう次元より前で、断罪されるべきではないか。というより、そうでないと同じことはまた必ず繰り返される。

 危険な車道を危険と教えなければ子供は自分で気付くまで安心して車道で遊ぶ。しかし気付く前にとり返しのつかない事態が起きることくらいどんな大人でも想像できるだろう。危険な中州を危険と教えられない大人、今回に至っては危険との警告をも無視する暴挙を展開した大人たち。そんな彼らを見て育つはずの子供達が、ありき将来、どんな子育てをする大人になっていったのかは想像に容易い。大人だけで何をしようが構わないが、子供の行動を決定し、命を預かり、延いては一人の人間の人格形成の大部分を担う権利を持つ以上、間違った判断は許されない。今回の事故から、我々がそのことを再認識し、しっかり心に刻み付けることが、全被害者への最大の弔いとされることを望んでいる。

 権利の裏には、必ず義務と責任が存在する。

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