願い |
この時が 永遠に止まればいい |
「コーヒーでもお入れしましょうか」 神羅ビル。 定時はとっくに過ぎ午後9時半をまわったというのに、その部屋はまだこうこうと明かりがついていた。ツォンと彼の前に立っている女性以外の社員は帰宅して姿はない。少なくとも、このフロアには他の社員はいなかった。 「いや、かまわない」 ツォンは軽く、首を振る。そしてその女性社員を見た。 「君は先に帰るといい。後は私がやっておく」 「ですが、その書類をB区支部長に提出しなければなりませんので・・・」 「彼はもう帰宅しているのだろう? 私が明日にでも渡しておこう」 ツォンは、その手の中の書類を軽く叩いた。女性社員は、ほっとした表情を浮かべる。ツォンが目を通し終わるまで待っていなければならないと、内心げっそりしていたのだ。ただでさえ今日は超過勤務なのに、これ以上遅くなるのはごめんだった。 ツォンはそんな彼女に、少し笑って見せる。 「ごくろうだった」 「あ、いえ・・・」 「支部長に、退社時間を過ぎたら秘書ではなく今度からは自分で持って来るようにと、私が言っていたと伝えてくれ」 彼女は、くすり、と笑みを漏らした。 「はい」 そして、ツォンに一礼すると部屋を退出する。 空気が漏れる音がして、女性社員が出ていった後に扉が閉まった。 それを見て、ツォンは大きく息をついた。 厚い書類の束をデスクの上に投げ置き、椅子から立ち上がる。 ツォンはもともと残業を多くする方ではない。時間中に集中して事を成せばいいと思っている。 よほど自分が興味のある件ならともかく、プライベートを削って仕事にはげむのはツォンの考えに反した。オフィシャルとプライベートの区分があいまいになる事、非効率的な事は、ツォンが最も嫌う所である。 が。 「そうも言っていられない・・・か」 書類の束が山積みになっているデスクの上を見る。どれもこれもツォンが自身で最終チェックをしなければならないものだ。それだけではない。隣のデスクの上で稼働中のPCには、その十倍もの量がツォンの決裁を待っていた。 月の締め近くはいつも多くなるが、今月は異常なほどだった。 とても一日や二日で終わる量ではない。 古代種が手に入ったと、プレジデント神羅が急に強気な業務の拡張を示唆したせいもある。それにともない大幅な人員強化をしなければならなかった。 ツォンはネクタイを緩めた。 壁際のソファーに身を沈める。 さすがに、疲れた。 軽い、浮遊感。まぶたが重かった。 エアリスはどうしているだろう。 ふいに、そう思った。 あとで、会いにいってみようか。 いや・・・。 自分が行けば、彼女は嫌がるだけだ、と思う。 捕らわれの身の彼女を、さらに苦しめることはないはずだった。 ツォンは目を閉ざした。 幾度季節が巡っても。 初めて会った時と決してかわりはしない距離。 エアリス。 ツォンは眠りへと落ちていった。 君が遠い。 エアリスは唇を噛んだ。 監獄と言うには快適な部屋に、エアリスは閉じ込められていた。あまり広くはないが、清潔で使い勝手のいい部屋だ。窓は広くて見晴らしがいいし、ベッドはエアリスが三人は寝れるほどゆったりとしている。空調も当然ながら快適だった。 これで扉の外に監視がいなくて、扉と窓に鍵がかかっていなければ最高なのだが。 自分の意志を無視されて閉じこめられていることも嫌だが、それ以外にも腹立たしい事があった。 「・・・ツォンのヤツ・・・」 なぜ一度も顔を見せないのだろう、と思う。 以前は、エアリスが嫌がっているのに、しつこく現れたのに。 彼女が神羅に捕らえられてからは、会いに来た事はなかった。 わたしが神羅の手に入ったから? 「だから、もう会う必要もないってこと?」 口に出した自分の言葉に、エアリスの胸はズキリと痛んだ。 別に、会いたいわけじゃない。 エアリスは胸の内でつぶやく。 ツォンの顔なんて、見たくもない。 エアリスの握りしめた拳が、かすかに震えていた。 本当は彼も自分に会いたかったわけじゃない。それが仕事だったから。自分が捕らえられたら、ツォンはもう自分には用がないのだろう。 そう思う。 どうして会いに来ないのか。 さんざんこっちを振り回しておいて、勝手にツォンたちの都合で放り出されるのが馬鹿にされてるようで腹が立つのだ。 エアリスは目を伏せた。 どうして。 ―会いに来てくれないのか。 「・・・・・・」 エアリスは壁にかかった時計を見た。ちょうど10時をさしている。 「・・・バカみたい」 軽い調子で呟くと、エアリスは腰かけていたベッドから立ち上がった。 なぜ自分がツォンのことなどでいろいろ思い悩まなければならないのか。 エアリスは扉の前に立つと、強くノックした。すぐに、見張りの男の声が返る。 「なんだ?」 「ツォンの所に行きたいの」 うじうじ悩んでいるのは性にあわなかった。 直接会って、文句の一つも言ってやるのだ、と思う。 そうすれば、すっきりするに違いない。 「もう帰宅されているはずだ」 「残ってるかもしれないじゃない。大事な用なの」 エアリスは内心、ペロリと舌を出してそう言う。しばらく間があって、扉は開いた。 ふわり、と側で空気が動いた。 人の気配。 いつもなら誰かが現れれば、その気配に敏感に目を覚ますツォンだったが、よほど疲れているのか、それとも神羅ビルの中という油断からか、すぐ間近に気配を感じるまで気づかなかった。 しかも、まだ意識がはっきりとしない。いや、意識はあって自らに激しく舌打ちしているのだが、身体が動かなかった。ツォンにしては珍しい事だった。 「ツォン?」 小さな、囁き。 エアリス? ツォンはそう思い、即座に否定する。 まさかな、と思う。 ためらいがちに、再び声がした。 「ツォン?」 やはりエアリスの声だ、とツォンは思う。 「・・・・・・ツォン、眠ってるの・・・・・・?」 ほんのかすかな囁きが、耳のすぐそばでする。 ああ、夢か。 そう、ツォンはどこかで納得していた。 エアリスが自分に、こんなに優しく話しかけるわけがない。 だが。 かすかな、けれど確かに柔らかな感触を感じて、ハッとツォンは目を覚ました。 「・・・・・・エアリス・・・」 そこに、エアリスがいた。 「やっぱりいるね。明かりが漏れてる」 エアリスは言って、ツォンのいる部屋を指さした。その扉から、薄暗い廊下に明かりが漏れている。男は肩をすくめた。エアリスは男を見る。 「もう、ここでいいよ。帰りはツォンがいるし。逃げられるわけないでしょ?」 「・・・・・・そうだな」 男は少し考えてから、頷いた。ツォンがエアリスを逃がすとは絶対に考えられない。 男は言った。 「お前がその部屋に入ったら、俺は戻ろう」 「はいはい」 エアリスは軽く言うと、部屋に向かった。男の視線が追って来るのが分かる。エアリスは扉の前に立った。扉は音もなくスライドする。 エアリスが部屋に入ったのを確認して、男は薄暗い廊下を戻って行った。 エアリスの後ろで、かすかな空気の漏れる音とともに扉が閉まった。 エアリスは室内を見回し―絶句した。 ソファーで疲れたように眠っているツォンを見つけて。 ここに来るまでに、どう言ってやろう、どうきりだそうと、いろいろ考えていたエアリスだったが、こういうシチュエーションになるとは思ってもいなかった。 エアリスはデスクの上の山積みの書類に、ちらりと目をやった。 ほんと、『サラリーマン』って感じよね。 などと、思う。 普段のツォンからはそんな感じは受けないのだが。 エアリスは静かにツォンに近寄った。 エアリスはなぜか、くすりと笑ってしまう。 ツォンはネクタイを緩め、ワイシャツのボタンも二つほどはずしている。 エアリスが知るツォンは、いつもきっちりしていた。彼のこんな姿は初めて見る。 エアリスはソファーの側に膝をついた。 ツォンはハンサムだと思う。特に今のように眠っているなら、眺めていたいぐらいには。 本当はツォンの目も嫌いではなかった。雨上がりの夜の闇のようで、綺麗だと思う。 けれどツォンの目は冷たくて、やはり嫌いだ、とエアリスは思いなおした。 ツォンは嫌いだ。 彼は冷酷で、勝手で。 「ツォン?」 エアリスは小さな声で、囁くように聞いた。 規則正しく、ツォンの胸はかすかに上下している。 「ツォン?」 もう一度、聞く。 ツォンなんて嫌い。 彼が浮かべるのは冷笑だったり、威圧的な笑みだったり、そうでなければ無表情で。 笑ってくれればいいのに、とエアリスは自覚をせずに思った。 もっと、優しく笑ってくれればいいのに。 そうしたら、彼の瞳は、どんなに素敵だろう・・・。 「・・・・・・ツォン、眠ってるの・・・・・・?」 返事はない。 エアリスはツォンを見つめた。 優しく、笑ってくれればいいのに・・・・・・。 エアリスはそっと、ツォンに口づけた。 ツォンはビクリとし、目を見開いた。 エアリスはばっと後ずさる。 「・・・・・・エアリス・・・」 驚いたような、信じられないような目で、ツォンはエアリスを見ていた。 エアリスの頬が、かあっと朱に染まる。 エアリスは口を覆い、耳まで赤くなっていた。 「わ・・・わたし・・・・・・っ」 「・・・・・・」 「違う、わたし・・・違うの、ただ・・・っ」 言葉が、続かない。 エアリスは震えていた。激しい羞恥と自分がした事のショックに。 |