Calling V



      
 はじめて呼ばれた名前。
 それが自分への想いを語る言葉だったことに、セイリオスの胸は震えた。
「メイ」
 もう一度、彼女の名を呼ぶ。
 それは愛しさに満ちていた。
 煉はセイリオスから目を反らせた。愛しげに姉に注がれる眼差しを、見ていたくはなかった。
 そんなふうに呼ぶなと、そんなふうに見るなと、怒鳴りたくなる。
 煉は、ぎり、と音が漏れるほどに強く奥歯をかみしめた。
 メイは戸惑うようにセイリオスを見、そして彼の真っすぐな瞳に問いかけた。
「あたしで、いいの?」
「君でなければダメなんだ」
 セイリオスはそう繰り返す。
「君でなければ、いらない」
 帰還の魔法が働き出す。セイリオスの足元に再び、魔方陣の光が浮かび上がる。
 メイは焦ったように煉の脇を駆け抜け、セイリオスのそばに駆け寄った。
「殿下」
「メイ。一緒にきてくれ。・・・私と結婚してほしい」
 差し出される手。
 それを、メイはとろうとした。
「行くのか」
 響いた声に、メイは振り返る。
 煉はゆっくりと顔を上げた。
「全部、捨てて。―俺を捨てて、行くのか」
 責める響きはなかった。
 けれど、深く・・・深く傷ついたその瞳。
 母親に捨てられた幼い子どものようなそれ。
「煉・・・・・・」
 メイは、言葉につまった。
 嫌味なほどに何でもできる弟。大人びた彼。けれど自分の前では歳相応の姿を見せる。
 いつでもどこでもメイを追ってきて、そして守ってくれた。余計なお世話だと思うこともたくさんあったが、メイが困っている時には・・・いらない時もだが・・・手を差しのべてくれた。
 それに。
「煉、あたし・・・」
「行くな・・・っ」
 今にも泣きそうな目だった。すがりつくような、瞳。
「行くな、姉貴! ―頼むから!!」
 自分がいなくなったら、どうするのだろう。
 ただ一心に自分だけへ向けられた愛情。自分がいなくなったら、弟は・・・・・・。
 メイの揺れ出した心に気づいてか、セイリオスはメイの空中にとまったままの手を取った。
「メイ」
「姉貴!!」
「・・・・・・あたし」
 光が、その輝きを増していく。
 メイはセイリオスを見た。
「殿下が、大好き。あたし、殿下のことを愛してる・・・!」
 メイはだが、セイリオスの手を振り払った。
「でも、殿下はあたしがいなくても、立派だしちゃんとやれる人だけど、煉はあたしがいないとダメなの」
「メイっ」
 慌てて伸ばされるセイリオスの手を、メイは後ずさって避ける。
「殿下」
 セイリオスを苦しげに見つめ、だが、メイは泣きそうな顔で微笑んだ。
「・・・・・・あたしも、けっこうブラコンだったみたい・・・」
 眩い光がセイリオスだけを包む。セイリオスはとっさに、自らのスカーフをとるとメイへと放った。
 激しい頭痛に目がかすむ。
「メイ!」
「・・・・・・大好きだよ、セイル・・・・・・!」
 最後に聞こえたのは、その言葉。
 セイリオスはそして、意識を手放した。







 セイリオスとともに光が完全に消えた後に、ふわりとスカーフが床に舞い降りた。
「・・・・・・・・・」
 メイはそれを拾い上げる。
 それを握りしめる手は、かすかに震えていた。
 その姿に、煉の胸がズキリと痛む。
 自分は、してはならないことをしてしまったのではないか。
 そんな想いが胸をかすめた。
「芽衣・・・・・・」
「何?」
 振り返った姉の笑顔は、いつもの優しく明るいものだった。
 煉はどこかでほっとする。
「俺・・・・・・芽衣が残ってくれて嬉しいよ」
「うん・・・」
 一瞬姉の目をかすめた悲しみに、煉は気づいた。
 だがメイはそれをすぐに隠してしまう。
「はやく彼女作んなさいよ?」
 ふざけたように、メイは笑った。
 煉は耐え切れず、姉の肩を抱きしめた。
 ごめん、姉貴。
 しかしその言葉は、声にはならなかった。







 セイリオスが目を覚ましたのは、自分の寝室のベッドの上だった。
「・・・・・・」
 ゆっくりと身を起こす。
 壁に背をもたれるようにして立っていたシオンと目が合った。
「シオン・・・・・・」
 部屋には彼の姿しかなかった。
 シオンは軽く肩をすくめて見せる。
「その様子じゃ〜、失敗したみたいだな?」
「・・・・・・ふられて、しまったよ」
 セイリオスは自嘲に近い、疲れたような笑みを浮かべた。
 シオンが片眉だけを微かに上げて見せる。
 セイリオスは話し出した。
 シオンは最後まで珍しく口をはさまずに聞き終わってから、小さく口笛を吹いた。
「美形のシスコン弟ね〜。どーりで俺が軽く口説いても、動じなかったわけだ」
「―シオン!!」
 いつメイを口説いていたんだ!?
 そんな憤りを隠せない声に、シオンは笑う。
 そして、ひとしきり笑ってからセイリオスを見た。
「それで? あきらめるのか?」
 笑って言う。だがその目は決して笑ってはいなかった。
 セイリオスは言葉につまる。
 シオンはセイリオスの返事を聞かずに、部屋を出ていった。
 扉が閉められてから、セイリオスは視線をおとした。
 『大好きだよ、セイル・・・・・・!』
 メイの声が、甦る。
 愛の告白だけをして、去ってしまった残酷な彼女。
「私は、ちゃんとなんて出来ない。立派な人間でなどない・・・・・・!」
 どうして、なぜ彼女は、自分には彼女がいなくても大丈夫だなどと言うのだろう?
 自分も、彼女がいなければダメなのに。
「君を知らないでいれば生きて行けた。君を好きにならなければ一人でも平気だった」
 けれど君を知ってしまったのに?
 君を愛してしまったのに。
 メイと出会う以前の自分になど戻れはしない。
 メイがいなければ、自分が自分としては生きてはいけないのだ。
 セイリオスはベッドから下りると、棚の引き出しを開けた。そこにはリボンが入っている。
 2月14日にメイがくれたものを、包んでいたリボンだった。
 自分は、王として生きる。
 セイリオスが、個人として望むのはただ一つだけだった。
「・・・・・・メイ」
 他には何もいらない。
 何も求めない。
 ・・・・・・君以外は欲しくない。
 セイリオスは、そっとそのリボンに接吻した。
 あきらめない。
 セイル、とメイの声がよみがえる。
 セイリオスは目を閉じた。
 君は、私の名を呼んだ。
 だから、あきらめない。
 決して。







 あの後、教室は当たり前だが酷い騒ぎだった。
 とりあえず全員が学校から帰された。
「テレビまで呼ぶとかいってたよな、芽衣の友だち」
「・・・うん」
 もちろん渦中の人物であるメイは、級友たちに囲まれたが煉がそれを無言の睨みで追い払ってしまったのだ。二人はとりあえず学校を後にし、近くのビルの屋上―空中庭園になっている―をぶらついていた。
「もしかして記者とか来るかもな」
「・・・うん」
「だけど、俺が全部追っ払ってやるから大丈夫だから」
「・・・うん」
「芽衣」
「・・・うん」
「・・・・・・・・・」
 煉は小さく息をついた。それに、メイが我に返る。
「あ、ごめん。何?」
「・・・何でもない」
 不機嫌にではなく、優しく言って煉は笑む。
 メイは罪悪感のようなものを感じて、手首に巻いたスカーフを無意識にいじった。
 煉の目がそれに行く。
「それ、あいつのだな」
 スカーフを見る目が腹立たしいものになるのは、やはり歳のせいか。大人びて見えても、そこまで修業がてきていない。
 メイは煉の目から隠すように腕を振った。
「まあね・・・・・・あっ」
 緩まっていたスカーフが、風にのって流れる。
 メイの体は、無意識に必死でそれを追った。
 スカーフは手すりを越える。
 セイリオスの!
 メイは他に何も考えられなかった。
 勢いよく、手すりから乗り出すようにして手を伸ばす。
「姉貴!」
 半ば飛び出したメイの、片腕を煉の手が掴んだ。
 それと同時にメイの片手がスカーフの端を掴む。
 違う意味で二人がほっと息をついた時、スカーフのはためく場所から光がほとばしった。
 空中に現れる魔方陣。
 そして。
 光に包まれて浮かぶ、セイリオスの姿。
 セイリオスとメイの瞳に浮かんだのは驚き。メイは悲鳴を上げた。
 光が消え―先ほどの教室でもそうだったが、現れる時のほうが帰還の時より光に包まれる時間は圧倒的に短いようだった―、がくん、とセイリオスは体勢が崩れる。
 そこは空中で。
 そして30階のビルの上。
「―セイル!!」
 メイは夢中で手すりを乗り越えた。



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