祈り W

 息が上がる。
 『世界が』
 自分の心臓の音が聞こえる。
 『悲鳴をあげている』
「・・・・・・はぁっ」
 メイは酸素を求めるように、大きく天を仰いでから膝を折った。
 辺境を襲う天災も、狂獣の被害も、頭では理解していてもメイには遠い存在の話でしかなかった。メイの周りの世界は、多少不安定な天候に眉を寄せても平穏で幸福な・・・ごく当たり前の毎日だったのだ。
 世界を襲う災厄。その原因が自分だと言われても、現実感は希薄だっただろう。
 ―あの夢を見ていなければ。
 昨夜の夢が、メイの脳裏に甦る。
 『破滅』の映像(ビジョン)・・・・・・。ひび割れる大地、崩れ落ちる家屋。逃げ惑う人々の悲鳴、悲鳴、悲鳴・・・・・・! がれきに押し潰される、ひしゃげた肉の音さえも聞こえてくるような生々しさだった。
 あれがただの夢なのか。ただの夢が、あんなにも現実感を感じさせるものなのだろうか。
 まるですぐ側で見ているようなリアルさ。
 むせるような血の臭いも。
 今でもこんなに鮮明に思い出せるのに。
 メイはそのまましゃがみこんだ。
「・・・・・・・・・」
 もしもあれがこの世界の未来なら。
「・・・あたしは・・・・・・」
「メイさん?」
 声をかけられ、メイはハッと顔を上げた。
 知っている顔が、心配そうに自分を見ている。
 たしか、レオニスの部下の騎士の一人だったはずだ。
「そっか・・・あたし・・・」
 周りを見れば、そこは騎士団宿舎の前だった。
 無意識に、ここに来てしまったらしい。
「大丈夫ですか?」
 騎士はそう、メイの前に膝を立てた。
「隊長を呼んできましょうか」
「ダメ!」
「え?」
 返されたメイの強い調子に、騎士は唖然となる。メイは慌てて、にっこりと笑って見せた。
「あの、大丈夫だから」
 言って、メイは小さく舌を出す。
「調子にのって走ってきたら、バテちゃって」
「ああ」
 普段の彼女を知る彼は、それで合点がいったように笑って頷いた。
 メイは照れたように笑いながら立ち上がる。ぱたぱたと、軽くスカートの埃をはらった。
 その時、ちょうど鐘の音が響く。
 騎士は夕焼けに染まりかけた空を見やり、そしてメイを見た。
「隊長も執務を終えられる頃ですね。迎えに来られたのでしょう?」
「う、うん。まあね」
 走ってきたと言ったのに、用がないのでは不自然だった。
 メイはあいまいに頷いて見せる。
 騎士はそんな上司の恋人に優しく笑んだ。
「では、執務室までお送りしましょう」
「えー? いいよ、そんなの。慣れてるんだし」
「貴女(レディー)を護衛(エスコート)するのも騎士の務めです」
 目に楽しげな色を浮かべながら、騎士は胸をはって見せる。
 おどけた彼の様子に、メイは明るく笑った。
 胸が暖かくて、それからそれが今は痛かった。
 ただ当たり前のように生活しているつもりでも、愛しさや幸せはちりばめられている。過ごした年数はまだ浅くとも、この世界はすでにメイにとって大切なものになっていた。







「・・・あ・・・」
 メイは執務室に向かう途中で、こちらに歩いてくるレオニスに気づいた。数人の騎士と話しながら歩いているレオニスは、まだメイに気づいていない。
 メイは、視界に映る景色が急に鮮やかになった気がした。
 世界が、光に満ちる。
 レオニスのちょっとした仕種、何かの言葉に軽く頷く様、微かに揺れる前髪。
 全てが切ないほど愛しくて。
「・・・・・・レオニス」
 レオニスの顔が上がる。メイを認め、少し驚いたように目を見張る。
 そして、メイに優しく微笑んだ。コバルトブルーの瞳が、どこまでも柔らかだった。
 周りの騎士たちは、およそ目にできない上司のそれに驚愕のあまり声もでない。だがレオニスにその自覚はなく、騎士たちが固まってしまっているのに気づかなかった。
「メイ。・・・・・・どうした?」
「えっと、迎えに来たの。もう終わりかなーと思って」
 メイはいつもの笑顔を見せる。そして、少し首をかしげた。
「でも、まだ仕事なんだったら・・・」
「いや、もう終わった」
 レオニスは言ってから、まだ固まっている騎士たちを見る。
「ではわたしは戻るが、何か新しい情報が来たらわたしの方へまわしてくれ」
「あ、は、はい」
「了解いたしました」
 騎士たちは、我に返ると各々慌てたように頷いた。
 レオニスは彼らに頷き返してから、メイを促した。
「では、帰ろうか」
「うん。そうだ、ありがとね!」
 メイは、後半は自分を送ってくれた騎士に向けて言う。
 騎士はにこりと笑って返すと、上司に一礼して去っていった。
「あいつが案内したのか?」
 レオニスがその騎士の背中を見送りながら言う。その声は呆れと困惑とそしてかすかな不快、複雑な響きだった。
 うん、とメイは頷いた。
「おもしろい人だよね」
「・・・・・・あの癖がなければ言うことのない騎士なのだが・・・」
「え?」
「・・・いや、何でもない」
 レオニスはなぜか困ったようにそう答える。
 部下を統制するのも隊長のつとめだが、その部下の頭の痛い性癖を愚痴るのも情けない。
 レオニスは何もなかったふうに、メイを促した。
「行こう」
「うん!」
 二人は並んで歩きだした。歩幅はあまりにも違うが、レオニスは二人の時はゆっくり歩くためメイは足を運ぶのに苦労することはない。
 騎士団宿舎を出ると、自然と二人は手をとりあった。
 会話の間も、レオニスの優しい眼差しは常にメイの上にある。
 メイはレオニスの腕―肩にはとても届かないので―に、頭をよりかからせた。
「お腹すいた〜」
 口から出るのは、そんな明るい声。
 けれどメイの胸をよぎっていたのは、占術士の言葉。球で見えた自分の姿。そしてあの悪夢だった。

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