リリー
〜趣味の園芸〜


リリー(Lily):ユリ科の球根草。品種は多様。大まかに原生種と園芸種の
        2種類に分けることができる。
花の時期:梅雨から夏。花持ちは3〜4日。茎丈が高く、頂点部分に花をつ
       ける。色は白、黄、赤、ピンク、橙など品種によって多彩。


      
 
 定例の、街中の巡回。
 あの人の足が止まったのは、花屋の店先。
「隊長?」
「・・・ああ、何でもない」
 あの人の視線の先には、儚げな一輪の花。
 あれは・・・あの花は───


 カーテンを開けると、夏が飛び込んできた。
「わっ・・・」
 明るい日差しに目を刺され、思わず声をもらす。
 降り続いた雨も昨日上がり、空は何日かぶりに笑顔を取り戻していた。
 とたんに活気づく太陽。季節は、それに相応しい熱を伴ってクラインの地を支配しようとしていた。
 鮮烈な光が走る、朝の光景。その中を行く人を見つけて、シルフィスは軽く目をみはった。
「あ・・・」
 長い髪を結い上げていた手が止まる。意識の全てがその人に集中する。慌てて窓を開けて、シルフィスは声を張り上げた。
「お早うございますっ、隊長!」
 二階の窓から突然声をかけられたのに、彼は───レオニス・クレベールは、別段戸惑う風もなく、ゆっくりと立ち止まった。
「ああ、お前か。お早う」
 穏やかな低い声。ややきつめのセルリアン・ブルーの瞳に捕らえられ、シルフィスはわずかに硬直する。
「休日だというのに、早いな」
「習慣みたいです・・・故郷では日が昇るのと同時に起きていましたから」
「そうか」
 微風に揺れる真っ直な黒髪。
 涼しげな目がかすかに細められる―――微笑んだのだ。
(・・・・・・)
 それがどんなに優しい表情であるか、本人は気付いているのだろうか。いつものように見惚れながら、シルフィスはふとそう思った。
 心臓が脈打つ。その音があまりに大きくて、彼に聞こえてしまうのではないか―――あるはずのない思いに捕らわれ、焦って言葉を探す。
「今日は暑くなりそうですね」
「そうだな・・・」
 それだけ言うと、彼は軽く手を挙げて歩み去っていった。裏庭の端には厩舎がある。そこに用事でもあるのだろうか。聞きたく思ったが、結局シルフィスには彼を再び呼び止めることはできなかった。
 鍛え上げられた背中が、遠ざかってゆく。
「・・・・・・・」
 それを見送りながら、シルフィスは大きなため息をひとつ。
 開け放した窓から朝の風が吹き込んできて、金の髪をさらさらと鳴らした。
 人口が多いせいか、王都の夏は故郷の村よりも熱を感じる。
 ふと思い立って、小さな手鏡をのぞき込んだ。そこに映る自分は、まだ『彼』でも『彼女』でもない。
「私はいったい・・・」
 どうなるんだろう───どうなりたいんだろう。
 心の天秤を揺らすのは、ひとりの存在。
 シルフィスはまたひとつため息をついた。

「あれ、シルフィス。出かけるのか?」
 『元気溌剌』を具象化したような声。
 部屋を出て数歩も行かないうちに呼び止められて、シルフィスは少なからず驚いた。
 振り向くと、廊下の端で銀髪の少年がニカッと笑っている。
「ああ、ガゼル」
 優しく微笑む。同じく騎士見習いである友人に向かって。
「どっかいくのか?」
「うん、ちょっとね・・・訓練はお休みだし、気晴らしでもと思って」
 ちょっとした事情から、行き先と同行者についてはぼかす。まあ、知られても問題は───ある意味では大有りなのだが。
「ふうん、そっかあ」
 幸いガゼルはそれ以上突っ込んでこなかった。
 と、いきなり渋い顔になる。
「いーよなー、俺もどっか行きたいぜ」
  これから補習なんだよと、彼は手にしたテキストをいまいましそうに丸めた。
「こないだの語学テストで、俺赤点だったろ。そんで、今から補習授業」
「大変だね・・・」
「シルフィスってさ、あのテスト、見習いの中では1番だったんだろ?すげーよなー・・・」
 あまりに素直に称賛されて、シルフィスは少し照れる。
「前の日に見直ししたところが偶然出たんだ。まぐれだよ」
「謙遜、謙遜。俺なんか見直しすらしてなかったぜ!!」
 不まじめなことを堂々と言って、少年は得心したように頷いた。
「俺なんてさあ、隊長に説教されたんだぜ。剣の腕を磨くのも重要だが、それを支える広い心の器を育てることも騎士として大切だ───少しシルフィスを見習うといい、ってさ」
「・・・・・・」
「隊長ってさ、お前にけっこう期待してるみたいだぜ。俺も頑張るからさ。いつか立派な騎士になって、いっしょに隊長の元で働こうな!!」
 ひとりで決意を固めると、ガゼルはひらひらと手を振りながら駆けていった。
 栗鼠のようにすばしっこい身のこなしを誇る彼である。あっという間に廊下を曲がり、視界から消えてしまった。
「・・・・・・・ふう」
 小さな嵐が去って。シルフィスは再び歩き出した。
(立派な騎士・・・か)
 友の言葉が心にこびりついている───あの人は、『男』の自分を望んでいるのだろうか。そうなるように期待しているのだろうか。
(・・・ううん、以前言ってくれたよね・・・)
 『男』でなければ騎士にはなれないのだろうかと不安を訴えた自分に、あの人は言ってくれた。騎士に形は関係ない、要は心だと。前例が無ければお前が作ればいいと。
 そういう人だ。だから、『男』にこだわりはしないだろう。
 ―――だからといって、『女』になって欲しいと言われたわけではない・・・
 どちらでも構わないと、それだけの意味でしかない───シルフィスの思考はいつもそこでつまずく。心が重くなって、先に進まないのだ。
 考えてはいけないといわんばかりに。
「・・・考えてはいけない、か」
 騎士団寮の正門から外に出ると、強い陽光が瞼を焼いた。
 思った通りの晴天だ。きっと今日なら、と期待が高まる。
「咲いてくれているといいな・・・」
 今日は休日。そして───約束の日。

「シルフィスー、早く早くーっ!!」
「先に行っちゃいますわよー!!」
 木漏れ日の下、妖精みたいにはしゃぐ少女たち。
 きゃらきゃらと華やかな笑い声が、夏の野山に響く。
 踊るような歩調でどんどん先に行ってしまう彼女たちに向かって、シルフィスは声をかけた。
「メイ、姫!!あんまり離れないで下さい!
 山道なんですから、急ぐと転びますよー!」
「へーきへーき・・・っと、きゃっ!」
 言ってるそばからつまずいたらしい。薄い茶色の頭が大きく前のめりになった。
「ああもう。大丈夫ですか、メイ?」
 慌てて駆け寄る。幸い転倒には至らなかったらしく、魔導士見習いの少女は照れくさそうに頭を掻いていた。
「えへへ・・・気をつけまぁす」
 もうひとりの少女がそれを見て、くすくす笑う。
「うふふっ、メイってば案外そそっかしいんですわね」
「あー?ディアーナがそれを言うぅ? さっき水溜りにはまりそうになったのは、ディアーナじゃん!」
「うっ、ですわ」
 騒々しくも楽しい、少女たちの会話。思わず笑ってしまいながら、シルフィスは2人とも気をつけてくださいね、と釘を刺した。
「はーいっ」
「はぁーい、ですわ」
 まるきり生徒と引率の先生である───この場合、あまり大差ないのだが。
 見渡す限り、緑の世界。
 その中を細く続く小道を歩いて、なだらかな山を登っていく。
 振り返ると、さっき通った湖の青が、緑のすき間からかすかにのぞいていた。
「ね、シルフィス。あとどのくらいでその場所に着きますの?」
 瑠璃色の瞳をきらきらさせながら、姫君が尋ねてきた。
「もうすぐですよ。むこうの分かれ道を左に曲がって、その脇ですから」
「ねーねーシルフィス!花、咲いてるかなぁ?」
 好奇心いっぱいの表情で、異世界人の少女も口を開く。
「ええ、多分。いい天気ですし、一週間前に来たときにはまだ蕾ばかりでしたから」
それを聞いて、少女たちは歓声を上げた。
「ひゃっほぅ、早く行こう!!」
「きゃっ!待ってくださいなメイ!!」
 そしてまたどんどん進んでいってしまう。
「ああっ、だから走らないでって・・・」
 しょうがないなと呟いて、シルフィスは手にしたバスケットを抱え直した。
 夏の遠足は、まだ始まったばかり。
 
 毎度おなじみ、姫主催のお茶会の席で。その場所とそこに咲く『花』のことを話したのは、シルフィスである。
 ただしその後の展開は、まったくの成り行きであった。
「よぉし、みんなでピクニックに行こう!!」
 長雨に退屈していたのか、メイが即座に提案した。
「みんな・・・って、この3人でですか?」
「きゃあ、面白そうですわねっ!!」
 面食らうシルフィスとは対照的に、ディアーナはすでに乗り気である。
「そう!お弁当とかお菓子持って・・・山なんでしょ? きっと街よりは涼しいだろーし」
「それはそうですが・・・」
 実際シルフィスがそこを発見したのも、街中の暑さに閉口して湖の辺りを散策していた時である。涼しさという点では問題ない。
 問題はこの3人―――というより、メンバーのひとりの立場である。
「あーらっ、私を仲間外れにする気ですの?シルフィス」
 クライン王国の第2王女殿下が、じとーっと睨みつけてきた。
「い、いえ・・・ただ、殿下がお許しになるかと・・・」
「そんなもの、黙って行くに決まってますわ!」
 さらっと言い切って、怖いもの知らずの少女は優雅に紅茶をすすった。
 絶句するシルフィス。
「お兄様の許可が下りるのを待っていたら、お花の時期が終わってしまいますわ。私も行きます!ぜーったい、行くんですから!」
「ひ、姫・・・」
「まーまー、いいじゃんシルフィス」
 ぽんぽん、と肩をたたくメイ。その笑顔はひたすら呑気だ。
「あんたってばこの間、見習い騎士の剣術トーナメント戦で優勝したんだって? そーんな優秀なボディガードがいるんだもん。へーきへーき!」
「メイ、それ・・・誰に聞いたんです?」
「うにゃ? 隊長さんからだよー!おととい王宮で遭ったときに聞いたんだ!」
「・・・・・・」
 言葉に詰まる。あの人が自分の話をしていた。それだけで何か、胸が苦しくなるのだ。
「あらっ、私知りませんでしたわ。すごいですわねシルフィス!!」
「でっしょー?全然言わないんだもん。まあそこが、シルフィスらしいんだけどね」
 少女2人はクスリと笑って。黙りこくっている見習い騎士にたたみかけた。
「レオニスが誉めるほどなんですものね」
「そーそー、隊長さんお墨付き!」
「頼もしいですわね?」
「うんうん、頼れる頼れる」
「じゃあ、大丈夫ですわね?」
「おっけーおっけー!!」
 シルフィスがハッと気付くと、王女と見習い魔導士は勝手に手を取り合っていた。
 そしてにっこりと笑いながら、異口同音。
「それじゃあ一緒に行きましょうね、シルフィス?」
 ああ自分は生涯この友人たちに勝てないに違いない───シルフィスは、がっくりと肩を落とした。

 そして今日に至る。
 2人の迫力に負けたのか、雨雲さえ逃げてしまった。素晴らしい晴天の中、シルフィスの休日にあわせて計画されたピクニック作戦は、つつがなく敢行されていた。
(この調子だと、花も咲いてるだろうなあ・・・)
 天下無敵を誇る彼女たちが訪れるとなれば。きっと今ごろ花たちは、急いで花弁をほころばせているだろう。
「・・・・・・ぷぷっ」
 なんだか妙に真実味のある想像で、シルフィスはこっそりと吹き出した。
「うひゃーっ、シールーフィースーっ!!」
 先頭を行くメイの声。
 どうやら目的地を発見したようだ。
「すっごーいっ、きれーいっ!!」
「あうう、メイっ!ずるいですわ、私も見ますーっ!!」
 楽しそうな友人の声につられて、ディアーナもパタパタと駆け出した。花は逃げませんよ、とシルフィスは笑ったが、活発な姫は聞いてはいない。
 森の小道を、2、3歩外れて。
 エニシダの茂みを越えた向こう側―――中天に達した太陽が、その夢のような景色をさあっと照らし出した。
 シルフィスは満面の笑顔になった。
「ああ、よかった。ちょうど咲き頃だ」
 群生地―――というのだろうか。
 まず最初に、清々しい芳香が嗅覚を洗う。 
 大きく開けたその草地は、一面のピンクだった。細く背の高い茎の上に、淡い色調の花々が煙るように咲き誇っている。
 剣状の花弁が大きく開かれ、天に向かって咲くそのひとつひとつが、可憐でしかも凛々しい。
 春の花とは一線を画した、鮮烈な夏の色彩。それでいて、どこか無垢で儚い印象を受けるのは───涼しげな色とかたちの所為だろうか。
「すごー・・・これ、ぜーんぶユリの花!?」
 興奮した様子でメイが叫ぶ。
「うきゃあ・・・」
 ディアーナは圧倒されて、ぽかんと口を開いている。
 自然の花畑ともいうべき光景。その見事さに、2人は立ち尽くしたまま動かない。
 バスケットを下におろして、シルフィスはこくりと頷いた。
「ええ、詳しくは解りませんけど・・・ほら、花びらの先がちょっと丸いでしょう?だからオトメユリの一種だと思います」
「ふうん・・・ユリって、白だけじゃないんだあ・・・」
 ふむふむと感心するメイ。
「かわいいですわ・・・」
 花を手にとって、うっとりと呟くディアーナ。その横顔に、長い髪がかかる。
 絹のように滑らかな、その光沢。シルフィスは思わず目を見張った。
(似ている・・・色が・・・)
 何気なく抱いたその感想は、なぜかひどく胸を騒がせた・・・。


 定例の、街中の巡回。
 あの人が足を止めたのは、花屋の店先。
「隊長?」
「・・・ああ、何でもない」
 あの人が見つめていたのは、儚げな一輪の花。
 あれは・・・あの花の色は───








next