Love panic W





 しばらくして、扉がノックされた。
 部屋の主の応えを待たずに、扉が開かれる。
「パーシヴァル、遅かったな」
 ボルスが、入ってきた同僚兼親友兼恋敵を、座ったまま迎える。
 パーシヴァルは、腕に抱えていたいくつものボトルをテーブルに並べた。
「ああ。悪かったな、もっと遅くなくて」
 パーシヴァルが少々意地の悪い笑みを浮かべると、ボルスは言葉に詰って顔を赤くした。
「オ、俺は、そんなこと……」
 思ってなどいない、と口の中でモゴモゴと続ける。
 その前で、クリスが、がばりと顔を上げた。
 パーシヴァルが遅れていたことも、今彼がやって来たことも、頭に入ってないらしい。
「………飲むぞ」
 そう宣言して。
 クリスは手前のボトルに手を伸ばす。
 それを、やんわりとパーシヴァルが止めた。
「まあ、お待ち下さい、クリス様。わたしが今、つぎますから」
 言って、パーシヴァルはクリスが手にもっているのと違うボトルの栓を抜いた。
 すでにテーブルに容易されていたグラスに注ぐ。
 グラスに満ちた透明なそれに、静かに気泡がたった。
「シャンパンか?」
 言いながら、クリスはゴクゴクと飲む。
 ボルスはそれをハラハラしながら、見つめた。
 そして、まだ立ったままのパーシヴァルを見る。
 大丈夫なのか、と問う目で。
「――お前も飲むか?」
 パーシヴァルは椅子に座ると、ボルスの前のグラスにもそれを注いだ。
「あ、ああ」
 ボルスは戸惑ったように言って、それを飲み。
 そして。
 パーシヴァルを驚いたように見た。
「これ……」
「上手いシャンパンだろ?」
「ん、ああ。そうだな」
 ボルスは、そして、すでにカラになったクリスのグラスに同じものを注ぎ足した。
 ――水。
 それは、ただの水に炭酸を混ぜたものだった。香りがする所を考えると、少々柑橘系の果汁も垂らしてあるのかもしれない。
 喉にくる苦味とかすかな芳香が、強い酒を思わせる。
 それでも素面ならクリスが騙されることはなかっただろうが、アルコールが回った舌にはそれが分からないようで。
 相変わらず上手い手を考える奴だと、ボルスは感心する。
「だが、お前はワインの方がよかったな」
 パーシヴァルはわざとらしく言って、本物のワインの方を別のグラスに注ぐと、ボルスに差し出した。
 しばらく酒を飲むだけの(クリスは水だったが)、不自然なほど静かな時間が続き。
 時間がたったせいか、水で薄められたせいか、クリスの目は潤んだままでその頬もわずかに桜色のままだが、彼女に理性が戻ってきたことをボルスとパーシヴァルは気づいた。
 なぜなら。
 少し前から、恥じたように顔を伏せてこちらを見ようともしない。
「あ……あの、クリス様……」
 平手の跡もとっくに消えたボルスが、おずおずと声をかける。
 それに。
 クリスはガバッと頭を下げた。
「――すまん!」
「ク、クリス様! 謝るのは俺の方です!」
「いや、お前はただ正直に話してくれただけなのに、そのお前に手を上げるなど……!」
「…………クリス様、彼が正直に申し上げたこととは何ですか?」
 パーシヴァルが、そっと声をかける。
 パーシヴァルもボルスとクリスの会話を全て聞いていたのだが、どうも彼女がどこに傷ついたのか分からない。
 クリスは、ビクリと肩を振るわせた。
 ゆっくり顔を上げると、クリスはパーシヴァルと、ボルスを見。
 そして息をついた。
「……だから……。私が、その、普通の……魅力ではないということだ」
「クリス様が普通の魅力だなどと、とんでもないことです!!」
「う……そ……そう、だな……」
「お前は黙ってろ」
「何だと、パーシヴァル!」
「話がややこしくなる」
「俺の話のどこがややこしい! 俺は、クリス様の魅力が」
「――もういい!」
 耐え切れないように、クリスがボルスの言葉を遮った。
「……もう、いい。分かってるから……」
 クリスは、そう呟いてから。
 無理に浮かべたのだと分かる笑顔で、不自然に明るい声を上げた。
「そ、そんなことより、飲もう。今日はお前たちと飲むという約束だからな」
 と言いつつまだ舌が麻痺しているのか、水を飲むクリス。
 釈然としないままも、しかたなくパーシヴァルとボルスはグラスに口をつける。
「あの……。分かってる、とは何のこと、でしょうか」
 ボルスが、戸惑いながらもそう口を開く。
 クリスの顔がさっと強張った。
 クリスは、目をそらした。
「だから……私が……私の、お、女としての魅力が、とてつもなくマイナスだということだ……」
 固まる、パーシヴァルとボルス。
 落ちる、沈黙。
 充分、数秒の時間がたって。
「…………どうして、そう思われるのです?」
 声だけ聞けば平静だと思えるが、実はさすがに混乱しているパーシヴァルが、そうクリスを見つめた。
 ボルスにいたっては、やっと脳に言葉が届いた所である。
 クリスはギュッと膝の上で拳を握り締める。
 なかなか言い出そうとしないクリス。
 その場の緊張を和らげるために、パーシヴァルとボルスは一応グラスに口をつけながら待った。
 クリスは顔を伏せたまま、聞き取り難い小さな声を絞り出す。
「だって…………が、そう言ってたし……それに」
 クリスの頬が、羞恥に染まり。
 そして、彼女はギュッと目をつぶった。
「それに、私、今まで一度だって異性に好かれたことがないんだ」
 ブハッ!!
 思わず酒を吹き出したのが誰かは、騎士の名誉のために上げないでおこう。







 ゴホゴホと激しく咳き込むのが聞こえ、クリスは顔を上げた。
 本当はそんなことは言いたくなかったのだ。
 けれど、醜態をさらし、迷惑をかけた彼等には本当のことを言わなければならないと、そんな悲壮な決意でクリスは言ったのだった。
「……お前たちには、気を使わせて悪かったと思っている」
「ク、クリス様! クリス様は、クリス様は」
「我ら騎士は皆、貴女に恋しているのですよ、クリス様。お気づきにならなかったのですか?」
 パーシヴァルは、にこりと微笑む。
「貴女はとても魅力的です。騎士としても、女性としても」
「く……。そ、その通りです、クリス様!」
「…………」
 いつもなら、赤面するだろうその言葉も。
 完全に自分がマイナスだと思い込んでいるクリスには届かなかった。
「……ありがとう、二人とも。だが、もうそうやって気を使ってくれるな」
 クリスは、さらに悲しくなった。
 このままでは、ますます情けない姿をさらしてしまいそうで。
 クリスはすっと立ち上がった。
「……すまん。今日は、やはり休むことにするよ」
「ク、クリス様……」
「――分かりました」
 パーシヴァルが、すっと立ち上がる。
 ボルスは驚いて彼を見上げた。
「おい……」
「ボルス、話は明日だ。クリス様がお休みになるというのに、俺たちがここにいるわけにはいかんだろうが」
「……そ、そうか。そうだな」
 ボルスはしぶしぶ立ち上がった。
 クリスは、そんな二人に、出来るだけ普段の笑顔を浮かべようとする。
「今日は、すまなかったな、二人とも」
「いえ、お気になさらず」
「クリス様、俺に気遣いは無用です」
「ありがとう。……お休み」
「ゆっくりお休み下さい」
「あ、あの……。いえ。……はい、失礼します」
 パタリと扉が閉じ。
 クリスは、貼り付けていた笑顔を消した。
 大きく、息をつく。
 なんとなく、ベッドに行くのも億劫で。
 クリスはボトルが拡がるテーブルの前に、再び腰を沈めた。
 ぼんやりとボトルを眺める。
「…………明日からは、切り替えなければな………」
 リリィには悪いが、いつまでもこんな個人的なことで悩んではいられない。
 いや、悩んでいてはいけない。
 やるべきことも、考えるべきことも、山のようにあるのだから。
 そう思ったすぐあとに。
 しかし、再び重い吐息を吐き出すクリスだった。
 どれほど時間がたっただろうか。
 静かに、扉がノックされた。
 クリスは、はっと振り返る。
「――もう、お休みでしょうか」
 しばらく前に退出した騎士の声に、クリスは立ち上がった。
 扉を、開ける。
「パーシヴァル、どうした?」
「――少し、よろしいですか」
「あ、ああ」
 頷くと、クリスはパーシヴァルを迎い入れる。
「何か忘れたのか?」
「忘れ物といえば、忘れ物なのですが……」
「?」
 部屋に中央まで来て、パーシヴァルはクリスを振り向いた。
「貴女がどうして先ほどのような考えになったのか、そのきっかけを聞き忘れていましてね」
「そのことは、もう……」
 クリスは扉を閉めると、パーシヴァルを通りこして執務室の机の前まで来ると、くるりと彼を振り向く。
 パーシヴァルは、少し苦笑した。
「気になりましてね。このままでは朝まで眠れそうにないのですよ」
「…………」
 クリスは、根負けしたように笑みを落とした。
 そして、先日のリリィとのことをパーシヴァルに話す。
 パーシヴァルは最後まで静かにその話を聞いていた。
「――と、いうわけでな」
「…………なるほど。リリィ嬢がね……」
 パーシヴァルの目は、明後日の方に向けられている。
 口元には変わらぬ笑みがあるが、その目はどこか何かを考えているようで。
 クリスは、かすかに首を傾げた。
「どうした、パーシヴァル」
「……いえ」
 小さく応え。
 そして、パーシヴァルはクリスを見るといつもの笑みを浮かべた。
「クリス様、リリィ嬢は貴女をからかったのですよ」
「そういう慰めは、嬉しくない」
「真実だということを、教えてさしあげます」
 にこりと笑って。
 パーシヴァルは軽くクリスの肩に手をやると、クリスをくるりと鏡の方に向かせた。
 鏡には、クリスとパーシヴァルが映っている。
「なんだ?」
「もう少し、近寄ってください」
 パーシヴァルは、優しい力で彼女を鏡の前まで押しやる。
 鏡に映るクリスとパーシヴァルの顔が、すぐ近くになった。
「クリス様は、美しいですよ」
 パーシヴァルの目は、鏡に映るクリスの目を見ている。
 クリスは、同じように鏡に映る自分を見た。
 とてもそうだとは思えない。
 元々クリスは自分であれ他人であれ、顔の美醜が分かる方ではなかった。
 親しい者は良い顔に見えるし、関係ない者は普通に見える。そういうものだと思っている。
 それが分かったのか、鏡の中のパーシヴァルは苦笑を浮かべた。
「クリス様はそういうことをあまり気になさらないようですが、簡単に分かる方法をお教えします」
「そんな方法があるのか?」
「一つ一つ、細かいところから見ていけばいいのです。いきなり全体を見るのではなく」
「?」
「手で、鏡の貴女の目を指して下さい」
 まるで教師と生徒のようだとクリスは複雑な気分になりながら、言われるままに鏡の自分の目元を指で触れた。
 少しだけ冷たい感触がする。
「こうか?」
「その瞳は、醜いですか?」
「………醜い、ということはないと思う……」
「では、両方の瞳の位置は、おかしいですか?」
「……おかしくはない」
「次は、貴女の眉を」
「こうか?」
「ええ。そうです。その眉は変だと思いますか?」
「………普通だと思うな……」
 そんなふうに、会話は続いた。
 次は髪、鼻、輪郭。唇。
 一つ一つ、映る鏡に触れ、クリスはパーシヴァルの言葉に応えて行く。
 そして。
 鏡のパーシヴァルはクリスに微笑んだ。
「どうです? リリィ嬢が貴女をからかっただけだと分かったでしょう」
「……そう、だな。ありがとう、パーシヴァル」
 よかった、ちゃんと普通だ。
 礼の後に続けられたその小さな呟きを、パーシヴァルは聞き逃さず。
 自分の美しさにはまるで気づかない彼女に小さく苦笑した。
 そして。
「では、わたしはどうですか?」
 さらりと聞く。
 クリスは、首を傾げた。
「? 町の女性たちは皆、お前を誉めているではないか」
「わたしはクリス様にお聞きしているのですよ?」
「そんなこと……」
 クリスは、戸惑う。
 第一、クリスは、そういうことを気にして仲間を見てはいない。
 それが分かっているのか、パーシヴァルは鏡のクリスを見た。
「ご自分で感覚が分かりましたら、リリィ嬢にからかわれずにすむようになりますよ。練習がてらに、先ほどと同じように見てみて下さい」
「それもそうかな……」
 リリィにからかわれなくなるというのは嬉しい。
 それに、パーシヴァルには先日までの傷を救ってもらったという借りを感じて。
 クリスは素直に鏡に指を触れた。
「目は、綺麗なのではないか?」
 自分の時と同じように、一つ一つ辿って行く。
 自分の時と同様なのは、声も淡々としているというところだ。
 眉もすっきりしている。
 鼻梁も整っている。
 輪郭も。
 そしてあげて行くうちに。
 だんだんクリスの声が小さくなっていく。
 さっきまでは気にならなかった鏡に映るパーシヴァルの、やはり鏡に映っているクリスを見つめる瞳に、なぜか居心地が悪くなる。
 それに。
 こうして見ていると、街の女性たちが騒ぐのも分かる気がした。
 パーシヴァルは、こんなにも整った顔だったのかと。
 その深い眼差しは、とても魅力があって。
「く、唇は……」
 そして。
 クリスは鏡に触れる指が、熱を持ったように感じた。
 視覚的には、まるで本当に彼の唇に指をそわせているようで。
 すると、今までスラスラと言っていたことが、実は相当恥かしい内容だということに今更ながらに気づき。
 鼓動が早くなる。
「唇は?」
 鼓膜を振るわせるように低く甘く囁かれる声に、クリスはビクリとする。
「く、唇、は……」
 顔が熱い。
 ひどく頭が混乱する。
 自分の心臓の音が、パーシヴァルに聞こえるのではないかと思うと、今すぐにも逃げ出したい気持ちになる。
 クリスはだが、パーシヴァルの目に動くこともできなかった。



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