春の風 月の宴


 拓峰の乱から1年が過ぎた。官の移動で慌ただしい1年だったが、奸臣を罷免し信頼できる官吏を手に入れたことは陽子にとって得難いものとなった。
「陽子、ここに居たのね。」
「ずいぶん捜したんだから。」
 ぱたぱたと駆け寄りながら小言を言う二人の女官に苦笑しながら一応弁解をしてみる。
「すまない。考え事をしたかったものだから。」
「捜す身にもなってよ。ここは広いんだから。」
 群青色の髪が美しい女官は、ふうと溜め息を吐く。
「仕方ないじゃない、祥瓊。陽子は、ここの主なんだから・・・」
「甘ーい、鈴。他の女官はこんなこと絶対陽子に言わないんだから、私たちが注意しなくてどうするの。」
 ぽんぽん物を言う女官を見てくすくす笑いながら陽子は、1年前のことを思い出していた。鈴と祥瓊とは、拓峰の乱のときに知り合って以来よく気が付く女官であり、良い友人でもある。現に陽子に対してこのような口の利き方をするのは、この金波宮内と外をあわせても鈴と祥瓊他数人である。あの乱がきっかけで、陽子はいろいろなことを学び信頼できる味方を手に入れた。
「鈴ねえちゃーん、祥瓊ねーえちゃん。」
 回廊の端から小さな子供が鈴たちを呼びながら走ってくる。その後ろからは十四、五の少年が駆けてきていた。
「桂桂、夕暉。」
 陽子は、駆けて来る桂桂と夕暉に声をかける。
「来てたのかじゃないですよ。鈴たちが呼びに行ったのにいっこうにいっらしゃらないから、僕たちが呼びに来たんじゃないですか」
「すまない、私がこんな所に居たんで祥瓊に文句を言われていたところなんだ。」
 まったくもう、とつぶやきながら鈴を見やる。
「それより鈴、主上に用件を伝たえた?」
「あっ、いけない、まだ。」
「そういえば、まだ言ってなかったわね。」
 小言に気を取られて用件を話すのをお互い忘れていたようだ。
「陽・・・じゃない、主上。」
  呼びなれないのか桂桂はいまだに陽子を呼ぶのにつっかえる。以前陽子は桂桂に名前で呼べばいい、と言ったがけじめをつけるため、と言って人前で陽子の名前を呼ぶことはなかった。。
 ―まだこんなに幼いのに・・・・。
 桂桂の姉、蘭玉は拓峰の乱で亡くなっている。桂桂自身もその時、ひどい傷を負い生死の境をさまよった。乱が治まった後も遠補と共に金波宮に住んでいたが、見知った顔も少なく大人ばかりの王宮ではつらかろうと、虎嘯の弟の夕暉に兄役を頼んだのだ。いまだに桂桂を見るとあの時の悲惨な場面を思い出してしまう。点々と落ちた赤いもの、桂桂に刺さった短刀を見たときのあの背筋をつたう冷や汗、血溜りに倒れたかつて人間だった物。あの時程の自分のいたらなさ、無力さ、不甲斐なさが悔しかったことはなかった。
「・・・・・上?」
「・・・・主上。」
「陽子!」
「・・・え?」
 呼ばれてふと我に返ると憤慨した様子の祥瓊たちが陽子をにらんでいた。どうやら、桂桂が用件を伝えてくれているのを自分が上の空で聞いていたことに怒っているらしい。
「すまない桂桂。もう一度いってくれるか?」
  自分の袖をギュッと握り締めて心配そうな顔をしている桂桂にむかって苦笑いをする。
「疲れてるの?大丈夫?」
「心配性だな桂桂は。大丈夫だ、考え事をしていただけだ。・・・用件を教えてくれるか?」
「延台輔が来られてるんです。」
「延台輔が?」
 たずねるように夕暉の方を見やる。
「なんでも主上に頼みたいことがあるとかで・・・・」
「・・・頼みたいこと?」
 それ以上は聞いていないのか夕暉は、―さあ、というように首をかしげる。
「わかった、行こう。桂桂、伝えに来てくれてありがとう。また、あとでな。」
「うん。」
 まだ少し心配げな桂桂の頭をクシャっと一撫でして夕暉に桂桂のことを頼むと、祥瓊たちの案内で延台輔の待つ部屋へと急いだ。
「よっ。邪魔してるぜ、陽子。」
 室内に入っていくと小さな人影が、あたかも同い歳の親しい友人に話すような気軽さで陽子に話しかけてきた。
「ようこそ、延台輔。」
 延台輔は、慶の北に位置する雁国の宰輔延麒。その名を延麒・六太という。この延麒が仕える王が雁国延王・尚隆である。延王は、希代の名君と世に言われるように500年もの善政をしいているが、この延麒に言わせれば―『王が大雑把だから下の者がしっかりしただけ。実際、朝議なんかほとんどでないんだぜ。』とのこと。
「私に頼みごとがおありとか?」
「ああ、正確には尚隆からの頼みごとなんだけどな。」
「延王からの?」
 お茶を出してくれた鈴に礼を言って延麒に話しの先をうながす。
「うん・・・。」
 延麒は、祥瓊たちの方を気にしながら歯切れの悪い返事を返してきた。
 ―人払いしないといけないような頼みごとなのか?この人にしては珍しいことだな。
「延台輔、彼女たちは私の側近といってもいいような者たち。信頼して下さってもよろしいですよ。」
「悪いな、別にそんな深刻な話ってわけじゃないんだ。今度、雁で大きな祭りがあるのは知ってるだろう?」
「はい。確か在位500年を記念してのお祭りとか・・・。」
「これだけ長く治世が続くと行事も多くてな。・・・で、陽子に頼みたいことってのがこの祭りのことなんだけど・・・・。」
「お祭りのことで?」
「ああ、祭り自体別に問題は無いんだ。問題は、祭りの日に玄英宮でやる内輪の宴なんだ。」
「宴に?いったい、内輪の宴に何の問題があるんです?」
「宴に以前から親しくしている、奏国太子卓朗君が来るんだ。俺らは利広って呼んでんだけど、この利広とうちの馬鹿尚隆がしょうもない賭けをしたんだ。」
「賭け・・・ですか。」
 ─いやな予感が・・・・・。
 祥瓊たちも部屋に自分たち以外の女官がいないのをいいことに、ちゃっかり話しに加わってくる。
「延王は奏国ともお付き合いがあるんですか?」
「一国の王同士は、滅多に親しく付き合うこともないのに・・・。さすがは延王ね。」
「王同士というよりは、利広の方と気が合ってな。何だかんだいいながら、よくつるんでるんだ。」
 祥瓊たちに気さくに答えながら延麒は、目の前の茶菓子をしっかり片づけていっている。それを陽子は端からくすくす笑いながら聞いていた。
「・・・で、その卓朗君との賭けと私への頼みごとと何か関係があるんですか?」
「おおありなんだ。あのおやじ、どこをどうやったらああいう無茶な苦茶な賭けができるのかわかんねえけど・・・・・。今度の宴の席にどちらがより美人な知り合いを連れてこれるか、なんて馬鹿な賭けをしたんだ。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・。」
「・・・・も、もしかして、それを陽子に?」
 あまりにも突飛な頼みごとに陽子たち一同目が点になる。いち早く立ち直った祥瓊が気づかわしげに陽子を見るが、陽子はそんな祥瓊に全く気づくよう様子がなく目の前の延麒をじっと見つめたまま動かない。あまりの突飛な頼みごとに固まってしまったようだ。
「・・・ま、まさか〜。延王なら美女の知り合いの一人や二人いないわけないじゃない。・・・ねえ、延台輔?」
「いないわけじゃないんだが、こんなことを頼めるほどじゃないんだ。」
 すまなそうに、延麒が陽子を見やる。
「玄英宮の女官に頼んだ日には帷湍たちの耳に入っちまうし・・・・いくらなんでも妓楼の女を玄英宮に連れて来るわけにはいかないだろう?」
「・・・・・・・・・・・・で、私にそれに付き合って欲しい・・・と?」
「無理強いするつもりは・・・ねえよ。こんなことになったのもあいつの責任だし、どうなろうと自業自得だしな。」
 ブツブツ言いながら延麒は、溜め息をつく。
「・・・・・・・・・他ならぬ延王の頼みなら・・・しかたありませんね・・・。」
 ─あの延王が・・・常軌を逸している方だとはなんとなくわかっていたが・・・こ、ここまでとは。・・・・・・・・景麒にどう説明するかな。また、嫌な顔をするんだろうな。
 このことを説明する時の景麒の態度が目に見えるようで、陽子は苦笑した。
「何がおかしいの、陽子?」
「いや、このことをどう景麒に説明しようかと思ってな。」
「ああ、景台輔はいい顔しないでしょうね。」
「景麒は真面目すぎるからな。」
 その後しばらく、どう景麒を丸め込むかを相談して後日、宴の打ち合わせをすることを約束して延麒は帰って行った。
 ─さて、どうしたものかな。
 執務室の机に向かったものの、例の宴のことが気になってなかなか仕事に集中できない。祥瓊と鈴は面白がり二人で宴の準備に盛り上がっている。人の気も知らないで、と陽子は溜め息を吐く。
「失礼します。主上、御爾をいただきたいのですが・・・」
 扉から金髪の長身の男が入ってくる。
「景麒か。」
 机の傍らまで来て足を止めた景麒は未処理の書類を見つけ眉をひそめる。
「どこか、わからない箇所でもおありで?」
 未処理の書類を見つめたまま問う。
「いや、今のところはない。」
「では、なるべく早く処理していただかなくては困ります。それでなくとも、主上が大幅な官吏の移動を行ったために政務が滞っているんです。」
「わかっている。だから、こうして・・・・。」
「失礼します。陽子・・・・と台輔、お邪魔でしたでしょうか。」
 陽子の言葉をさえぎるように扉がこんこんと叩かれ、祥瓊と鈴が執務室に入って来た。景麒の説教に辟易していた陽子は、祥瓊たちの顔を見てほっとした顔を見せた。
「いや、かまわない。何か用か?」
「例の宴のことなんだけど・・・・。」
 景麒の眉があがるのを見て気まずそうに鈴が用件を言う。
「宴とは何のことです?私は何もうかがっておりませんが。」
「当たり前だ。まだ言ってない。」
「どういうことか、説明していただけますか?」
 険悪な雰囲気におろおろする鈴たちを自分の自室で待つよう言うと、陽子は机から離れ露台に出て手摺にもたれた。
「どういうことか、説明していただきたい。」
 陽子に付いて露台に出てきた景麒が問う。
「景麒も知っているだろう?雁で祭りがあるのを。」
「在位500年記念でしたか。それが何か?」
 雁と聞いて景麒はますます眉をひそめる。雁の延王とは偽王を討つ際世話になったこともあり、この赤い髪の主は延王に恩を感じ尊敬の念をいだいている。そのことについては景麒も恩を感じてはいるが、実生活についてはあまり褒められたものではないため、やっとこちらの生活に慣れた主に悪影響を与えるのではないかと危惧している。
「その祭りに招待されてな。祥瓊たちと行くことにした。」
「主上!」
 しれっと言う主に景麒は声を荒げる。
「延台輔自ら来られて招待してくださったのだ。断るわけにはいくまい。」
「しかし・・・。」
「もう、決めたことだ。」
 陽子は景麒に最後まで言わせなかった。景麒はしぶい顔になる。この主が、決めたというなら止めさせるには相当な苦労を強いられるだろう。その証拠が、陽子の服装である。
「・・・何か言いたそうだな。」
 官服に身を包む陽子を見ていた景麒は溜め息を吐く。
 ─何故この方は、このような格好を好まれるか。
 官服姿の陽子は、少女というより少年のように見える。拓峰の乱を治める際、諸官に女王だと侮られないために官服を着用して以来、女官たちの猛反対にあいながらも頑固に官服でとおしている。
「景麒!言いたいことがあるならはっきり言え。」
「では申し上げますが、少しは女官たちの意も汲んで頂きたい。度々女官から苦情を言われる私の身にもなって頂きたい。」
「また服装のことか・・・。そうは言うがな、簪だらけにされれば重いし、長い裳裾は動きにくい。おまえもいっぺんやられてみろ、私の気持ちがわかるから。」
「それほどまでにお嫌か?」
 景麒は、げんなりと息を吐く。
「う〜ん。綺麗な格好が嫌なわけではないが・・・・うんざりしているのは確かだな。それに、私が着飾ったからといって民が豊かになるわけでもないしな。」
「主上・・・・」
「女官たちの気持ちも多少はわかる。だが、私だけ見劣りしないようにしたとしても、この国が貧しいのにかわりはない。今は体面を気にしている時ではないのだ。」
 手摺から離れ陽子は、真っ直ぐ景麒を見据える。
「この国が豊かになって、私にも体面を気にする余裕ができたら、その時こそ女官の好きにさせてやるさ。」
 言って陽子は、微笑した。
「そのようにお考えでしたら、女官にもそのようにご説明なさればよろしいものを・・・。」
「言った。言ったが聞き入れてくれなかったので、最近は祥瓊たちに着替えを手伝っ てもらっている。」
 ふいっと顔をそむけてふてくされる。
「私の服装のことはもういい。祭りの件だが、もう行くと返事をしてしまっているからな。反対しても無駄だぞ。」
「また、そのように勝手にお決めになる。」
「景麒。これは、私事だ。おまえを煩わせるほどのことではあるまい。」
「私を煩わせる、煩わせないということを言っているのではありません。主上がお出かけになれば、政務もそれだけ滞りましょう。ましてや、隣国訪問となれば大事ではありませんか。」
「そんなに大騒ぎしなくてもいいだろう。政務が滞るといっても2,3日ではしれている。」
  ─この方は・・・・彼の王に影響されなくてもよいところまで、影響される。
 早春の風が陽子の髪を玩ぶのを見ながら溜め息を吐く。
「護衛はどうなさるのです?」
「いらん。冗祐もいるし、班渠も連れて行くからな。・・・・・そんなに、心配するな。無茶な事をしようというわけではないし、もし何かあったとしても延王もいて下さることだし。」
「そういう問題では・・・・・・。」
「そういう問題だ。」
「延台輔は、内輪の宴だとおっしゃった。そう大袈裟にするものでもないだろう。隣国に行って帰ってくるだけのことだ。」
「いくらこの国が落ち着いてきたからといっても、今だ主上のお命を狙う輩がいないとはいえないのですよ。用心にこしたことはないでしょう。」
「・・・・・何をそんなに心配している?」
 風に玩ばれる髪を右手で押さえながら陽子は、景麒を見つめる。
「・・・・・・・。」
「私が一人で外出するたびに何をそんなに心配する?」
「・・・・それは・・・・主上は、この国にとってかけがえのない方ですから・・・・。」
 景麒は、目を伏せる。あたかも、心の中の不安を見抜かれまいとするかのように。
「・・・景麒、もう少し自分に素直になれ。私が、気づかないとでも思ったか? おまえの悪い癖だ。」
 もう、そんな事はないと思っていたのだが・・・。独り言のように話す陽子を景麒は、胸が締め付けられる思いで見ていた。
 ─私の不安をこの方は、見抜いておられた。
 やっと、見つけることのできた主が一人で出かけるたびに、襲う言いようのない不安、焦燥。原因は、わかっている。だが、彼女は先王とは違うといくら思っても、心の何処かに安心できないでいる自分がいる。また、おいて行かれるのではないか、一人残されるのではないか、と・・・・・。日頃は感じない不安。
「景麒。前にも言ったと思うが、私はおまえを一人残して先に死にはしない。」
 目を伏せたままの景麒に優しく、だが、きっぱりとした口調で告げる。
「心配するな、とは言わんがな。しすぎるのは、あまり体に良くないぞ。」
「・・・私の心配事を減らして下さるなら、お出かけの際には護衛をお連れ下さいませ。」
「・・・・・・・・・・・。」
 話が振り出しに戻ってしまった。
「主上。」
「・・・・・・・・・・わかった。ただし、護衛は2人以上はいらんからな。」
「御意。」
「さあ、この話はここまでだ。仕事に戻るぞ。2,3日留守にするんだ、今のうちに片付くものは片づけとかないとな。」
 両手を上げて大きく背伸びをすると陽子は、露台から執務室へと入って行った。その後を、かすかな笑みを浮かべた景麒が、ゆっくりとした足取りで後に続いた。