『浩然の日々』

「ここって…泳げるのかなあ…。」
陽子が玄英宮の露台に立って頬杖を突きながらつぶやく。
雲海の波が露台の足に打ち寄せる。
「主上、そんな事をなさらないでください。」
後ろからそれを聞きとがめた景麒が答える。
「判っている。言ってみただけ。」

今、慶国女王である陽子は、恋人である雁国王延王尚隆の宮城に滞在している。
春分の祝いに参上し、その祝いの祭りの間滞在するようにと、雁国主従に薦められ、景麒と共に既に3日目になる。
その滞在を勧めた尚隆と延麒六太は、自分の政務で、朝議に出席し、ここには居ない。

「そろそろ主上も我が慶にお戻りになりませんと…。」
景麒が相変わらずの無表情で言う。
「本当は、2日でお帰りの予定でしたのに…。」
「そんな事言ったって、しょうがないだろう?尚隆達も気を遣ってくれるんだし…。」
「しかし、慶では、政務が…。」

だから帰りたくないんだ…。
陽子は心の中で答える。
ここに居ると陽子は客人として楽しく扱われる。
その上、愛する尚隆が時間の許す限り一緒に居てくれる。

ほんの少しの間でも、自分の肩に乗った重い責任を降ろすことが出来る。
自分が甘えていることはよく判っている。
でも…・・。

「え〜〜〜?もう帰っちまうの?まだいいだろ?」
戸口からひょいと顔を出したのは、この国の麒麟延麒六太である。
その明るい声に陽子は救われるように振り向き、
「もう、朝議は終わったの?」
と聞く。
「ああ、もう、帷湍達がうるせ〜から、尚隆が自分達で出来ることまで持ってくるな!って一喝しちまってさあ。」
「え?尚隆が?」
「うん。よくやるんだ。尚隆。自分が面倒になると、他の奴に仕事押し付けてさ。」
「押し付けるとはなんだ。聞き捨てならんな。」
よく響く声と共に長身の偉丈夫が現れる。

雁国王延王尚隆、陽子の恋人である。
「尚隆。」
「待たせたな。陽子。これで今日は御役御免だ。」
嬉しそうに側に近寄る陽子に軽く笑い、尚隆が答える。

「あ〜あ、又帷湍や朱衡が怒るぜ〜!」
「何を言っている。いちいち俺が裁可しなくても良いようなことまで持ってくるあいつらが無能なんだ。」
「そんな事しても良いのですか?」
陽子が驚いて聞く。
「王というのはな、如何に信頼できて、自分代わりに仕事が出来る官吏を探すかが一番の問題だ。」
まじめな顔をしていう。

「で、いかに押し付けてさぼるか・・だろ?」
六太が混ぜっ返す。
「当たり前だ。ある程度国の基礎が固まったら、いちいち王が決断しないと物事が進まぬのはまずい。何をするにも膨大な時間が掛かる。国が纏まってくれば、王というものは、本当に重要なこと以外は決める必要がない。いや、どちらかというと、決めん方が良い。それを補うのが優秀な官吏だ。…・そう言う時に麒麟はあまり役にたたんでな。」
意地悪げな笑みを浮かべ、尚隆は陽子に腕を回し、横に腰掛ける。

「ちぇっ。俺に向かないことばっかりやらせようとするからだろ。」
六太が助けを求めるように景麒を見る。

それには答えず、景麒は
「延王、そろそろ私どもも失礼して慶に帰ろうと思うのですが…。」
「そうか。なら、景麒、お前は先に帰れ。陽子はもう少しここでゆっくりしていくからな。」
「そ、それは…・。」
景麒が慌てて反論しようとする。
「お前はうちの六太より役に立つだろう?陽子がしばらく居なくても上手くやってくれ。」
にんまりと笑う尚隆に景麒も返す言葉がない。

「あ〜あ、又尚隆のわがままが始まった。」
六太が呆れたように言い、陽子の顔を覗き込む。
「でも、陽子はそれが良いんだろ?」
陽子は頬を赤らめながら、答えられなかった。

玄英宮にもう少し滞在することは、自分でもわがままなことはよく判っている。でも、もうしばらくは尚隆の側に居たい。

結婚して一緒に暮らすことが出来ない王同士の恋愛である。
少しでも一緒に居たいと思うのは当然の気持ちであろう。

「判りました。では、私は先に慶に戻ります。主上も、なるべくお早くお帰りください。」
景麒が半ばあきらめたように溜息を吐きながら言う。
「すまない。景麒。」
謝る陽子を見ながら、尚隆が
「まあ、景女王はもうしばらく我が雁で、政について勉強されていく。そう伝えろ。」
といたずらっぽく景麒に言う。

「な〜んの勉強だか…。」
六太が呆れたように言い、尚隆が大笑いする。
陽子は真っ赤になって俯いているばかりである。


その日は、春も終わりの暖かいと言うよりも日差しの強い日であった。
昼下がり、尚隆は陽子の為に雲海の中に船を出させていた。
「ここって、泳げるのですか?」
陽子が再び先ほどの疑問を尚隆に向かって尋ねる。
「ああ、少し波は荒いがな。泳いでみるか?」
「でも…。」
水着が…と言いかけて、陽子は考える。
そう言えば、こちらの人って、どんな格好で泳ぐのだろう?

その考えを察したかのように尚隆が耳元で囁く。
「裸で泳げば良いだろう?」
「尚隆!」
大笑いと共に、見る間に尚隆が着ているものを脱ぎ、海に飛び込む。
「主上〜!!」
側に控えていた侍官達が慌てる。

流石に蓬莱では、瀬戸内の海の近くで生まれ育った尚隆である。
抜き手を切って気持ち良さそうに泳いでいる。
「陽子も来い!」
そう海の中から声が掛けられるが、皆の手前、裸になる訳にも行かず、陽子は躊躇う。

泳ぎには多少自信が有った。
幼い時からスイミングスクールに通い、ある程度の事は出来る。
海での遠泳大会にも出たことがある。

だが…・。
迷っていると、側に居た女官が気を利かせ、
「景女王、上のお召だけをお脱ぎになりお入りあそばしますか?」
と助け船を出す。
あ、そうか…。
頷くと上に着ていた上着の長衫を脱がせてもらい、下着姿となって海に飛び込んだ。

尚隆の側まで泳いでいく。
「ほう、なかなかのものだな。」
尚隆が陽子の泳ぎを見て微笑む。
「小さな頃から泳ぎは習っていたんです。」
「海でか?」
「あ、いいえ、屋根のある…ええと、室内の大きな池みたいな…」
プールをどう説明すれば良いか判らなくて戸惑う。
「では、海で泳ぐのは疲れるぞ。」
そう言って笑うと先に立って泳いで行く。その後を陽子は付いていき、やがて飛び込んだ船が遠くになる。

尚隆の言う通り、プールとはかなり勝手が違う。
遠泳大会の時のように泳ぎやすい水着を着ている訳でもないし、
薄手の衣服は身体にまとわり付き、動きにくい。
波も思ったより荒い。

遅れてきた陽子を待って尚隆は立ち泳ぎで待っている。
「疲れたか?」
「あ…いえ…。服が絡んで…。」
「だから裸で泳げと言っただろうが。」
笑いながらその手はさっさと陽子にまとわり付く服を脱がせ始める。

「え・・。で、でも尚隆、脱いでしまったら船に上がれない…」
慌てる陽子にかまわず、尚隆は陽子の身に付けていたものを全部脱がせてしまった。
「なに、その時は、船から覆うものを降ろさせれば良い。」

確かに服を着ていない方が動きやすい。
だが、雲海の水はあくまでも澄んでおり、うっすらと、自分の体が透ける。

尚隆の身体も透けて見えるので、陽子は何処を向いて良いのか判らずに慌てた。
そんな陽子を見ながら、尚隆は笑って手を伸ばす。
「そんなに逃げんでもいいだろう?」
「え・・で、でも…。」
「今更隠すな。お前の身体は全部、良く知っているぞ。」
そう言うと陽子の背中に手を伸ばし、引き寄せると、唇を重ねる。

海の中で尚隆の引き締まったたくましい身体に触れ、陽子の胸は高まる。
唇は潮の香りがして、暖かい。

「まずい。こんな事しているとその気になってきてしまうな。」
唇を離し、尚隆は苦笑する。
「え…。」
陽子はその意味に気が付き、赤くなって焦る。慌てて、
「尚隆、もう戻りましょう。」
そう言うと、先に立って船の方へ向かう。

その陽子を見ていた尚隆は、やがて、ほんのわずか苦笑し、陽子の後を追って泳ぎ出した。

王としての重責から離れ、少しの間でもただの恋人同士として過ごす短い日々のひとこまである。          
              
                                   
                                           



(続く)