紅の夢



 赤い髪が、さらさらと揺れる。
 静かな風が、吹いていた。
 窓辺によりかかって眠っている陽子に気づいて、桓タイは足を止めた。
知らず、笑みがもれる。
「主上」
 桓タイは陽子のそばに寄る。
 陽子が余計な人員を宮に置きたがらないせいか、廊下には今は女官の姿もなく、がらんとしている。
「お風邪を召されますよ」
「……う、ん……」
 かすかに、陽子は寝返りをうつ。壁のない、こちらがわに傾きかけて、桓タイはあわてて陽子を支えた。
 さらり、と緋色の髪が桓タイの頬にさわる。
 肩にもたれかかる陽子の、顔がすぐそばにあって、桓タイはどきりとする。
 抱きしめたい。
 突然沸き上がったその衝動に、桓タイは自身を戸惑った。
 何を、馬鹿な……。
 胸を締めつける衝動を、意志の強さで押さえ込み苦笑にまぎらわせてしまう。
 優しい風が桓タイの頬も撫ぜていた。
 桓タイはしばらくじっとしていたが、陽子を両腕に抱いて立ち上がった。このまま放っておくわけにもいかない。
「……この所、厳しい政務が続いたらしいからな……」
 疲れているのだ、と思う。
 腕の中の軽さに、桓タイは胸が痛んだ。
 あどけなく眠る陽子は、とても王の重責に耐えられるようには見えない。もちろん、王として彼女が優れていることは、桓タイにはよく分かっている。そうでなければ、桓タイはここにはいない。
 桓タイは少々はしたなくも、手近の室の扉を足で開けた。
 空いているその部屋の、長椅子に王を横たえる。
 桓タイは室の中を見回した。何か掛けるものはないかをさがす。





 胸が、痛い。
 陽子の前に、前景女王舒覚が立っている。
『あなたは、私になるの』
「違うッ」
 陽子は、ぎゅっと目を閉ざした。
『違わないわ』
 そう言う舒覚を、陽子は驚いて見た。
 陽子と同じ顔。陽子と同じ声。
 陽子の姿で、彼女は笑んだ。
『この恋は、国を滅ぼすわ』
「違うッ。恋なんかしていない。―恋なんかじゃない」
 陽子は激しく、首を振る。
 陽子の目の前の陽子の姿が、揺らいだ。その姿は、陽子のよく見知った男。陽子は男を、一瞬すがるように見、そして顔を伏せた。そんな陽子を、舒覚の声―いや、陽子自身の声がなぶる。
『どう? 愛しい男を前にした気分は』
「……違う」
『甘えたいでしょ? 頼りたいでしょ?』
「……違う」
『守ってって、言ってみたら? 欲しいって言ったら? 女なんだから、支えてもらえばいいのよ。それで国がどうかなったってかまわないんでしょ』
「黙れ!」
 陽子はキッと顔を上げた。その瞳の苛烈な光に、かき消されるように男の姿が消える。
「女だからとか、そういう事じゃない。私は、私だ。私は自分自身の足で立つ」
 陽子の言葉に応える者はいない。周りに気配を感じなくなって、陽子は思わずほうと息をついた。
 ふいに、さっきの言葉が浮かんだ。
『この恋は、国を滅ぼすわ』
「……恋なんか、していない……!」
 拳を握りしめ、陽子はギュッと目を閉じた。
 でも、胸が痛い。
「……景麒、祥瓊、鈴、皆、どうしたらいいんだ、私は。楽俊、どうすればいい?」
 胸が痛いんだ。
 声が、聞きたくて。その姿が見たくて。自分をその瞳に映して欲しくて。
 ―会いたくて。
 会いたくて、会いたくて。
「―どうすればいい」
 どうすれば消せる。
 胸が痛い。
 …………延王。
 あなたに
 あいたい。





 涙が、零れた。
 桓タイはふいに流れ落ちた、陽子の一筋の涙を驚いて見た。
 ズキリと胸が痛む。
「主上……」
 桓タイは陽子の傍らに片膝をついた。
「……泣かないで下さい、主上」
 小さく、小さくささやく。
 自分は禁軍左軍将軍だ。
 王を守るのが、自分の運命(さだめ)。
「わたしがおります」
 どんな時も、主上のおそばに。
「必ず、お守りします。どんなものからも、貴女を」
 貴女を苦しめる全てから。
 貴女を傷つける全てから。
「わたしが―俺が、守る」
 ……陽子。
 桓タイは無意識に、陽子の頬の、涙の跡に手を伸ばした。
 夢の中まで行ければいい。
 恐らくは、悲しい夢。あるいは、辛い夢。
 もし行けるものならば、夢の内まで駆け行って、貴女を守ってみせるものを。
 ……現実であれば、誰にも彼女を傷つけさせたりしないものを。
「……ん……ッ」
 陽子の、まぶたが微かに震えた。
 桓タイは我に返ると、静かに、だがすばやく部屋をすべりでる。
 自分の王が、こんな姿を誰にも見られたくないだろうことを、桓タイはよく分かっていた。
 部屋の中で、陽子が目覚めた気配がする。
 桓タイは目を閉じた。
 お前は、俺が守る。
 そして、桓タイは静かにその部屋の前を去った。
 桓タイがその想いの名を知るのは、まだ先の事である。






 雁国。
 延麒六太は窓枠に腰掛けながら、椅子に座っている延王尚隆をちらりと見た。
「なあ、尚隆」
「なんだ?」
 尚隆は、珍しく政務の書物に目を通しながら、六太を見ることなく言う。六太は、窓の外を見た。
 快晴である。
「この間まで、けっこう足しげく慶に行ってたのによ、最近ぱったり行かないんだなあ」
「行きたいのか?」
 尚隆はやはり目を上げない。六太は尚隆を見て口をとがらせた。
「そういうワケじゃねーけどさ、やっぱ気になるし。陽子とか景麒とかさ。……尚隆は、行きたくねーのか?」
「……想いを自覚する時間というのをおきたいからな」
「想い?」
「いつも会っていては、気づかんだろう? 会えないほど恋しさというのに気づかずにはおれまい」
「恋だって!?」
 六太は声を上げると、尚隆をマジマジと見た。
「お前、まさか……」
「陽子の俺を見る目は、恋する者の目だ。……あれは俺に惚れてるな。だがまだ気づいてないようだったから」
 さらりと言う尚隆を、信じられないものを見るような目で六太は見る。尚隆はそれに気づかないのか、なんでもないように続けた。
「だから、時間をおいている。……陽子が俺を欲するのは当然だがな。俺がそうなるように振る舞ったのだから」
「尚隆!」
 窓枠から身軽く飛び下りると、六太は尚隆の机の前に立った。
「お前、陽子に恋をしかけたのかよ!」
「悪いのか?」
 尚隆はのほほんとした顔で、六太に目を上げた。尚隆は五百年も生きているのだ。十いくつの小娘を恋におとすのは、造作もないことだろう。
 六太はふるふると震えている。
「悪いに決まってんだろッ! 前女王の事で、陽子は、慶国のモンも、恋愛がまだご法度だって思ってる事分かってんだろ!?  しかも相手が王だなんて、陽子がよけい苦しむだろうがッ」
 六太は、本気で怒っていた。
「人の心を弄ぶなんて、サイテーだぜッ。お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった。なんでそんな事したんだよ!」
「しょうがないだろ、惚れたんだから」
 尚隆が淡々と言うのに、六太の言葉がぴたりと止まった。六太は、ゆっくりと尚隆を見る。
「誰が?」
「俺が」
「……誰に」
「陽子に」
 尚隆は言って、にっこりと六太に笑って見せた。
「……分かったか?」
「………………本気なのか?」
 そう聞く六太に、尚隆は真剣な目を向けた。
「本気だ」
 だが、すぐにその真摯さを隠してしまう。
「まさか、反対はせんだろう?」
 笑みを含んだ声で、言う。
 六太は複雑に、だが笑った。
「止めて聞くお前じゃねーだろうが」
 二つの国を巻き込む恋。
 麒麟の本性が、胸の奥でこれは危険だと告げている。
 それでも。
「陽子を泣かしたら、景麒に殺されるぜ」
 六太は、軽く笑って言った。
 尚隆はニッと笑う。
「大丈夫だろ。麒麟は慈悲の生き物らしいからな」
「馬鹿野郎」
 六太は、机の上に座ると笑いながら尚隆を睨んで見せた。
 六太は思う。
 それでも。
 この恋が実ればいい、と。
 願わずにはいられない。
 二つの国の未来が、二人の王が、幸せであるようにと。
 尚隆はそんな六太に笑ってから立ち上がると、窓に近寄った。
 陽子の姿が、尚隆の脳裏に浮かぶ。
 景王は慶国のもの。延王は雁国のもの。
 だが、いつか手に入れる。尚隆として、陽子を。
 そのかわり、俺をお前にやろう。
 ……だから早く俺に手を伸ばせ、陽子。
「早く……」
 風に揺れ、かさりと机上の書物が音をたてた。

                                                     

<了>



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