廻り始めたもの〜弐〜
| 鋭い息を吐き、龍麻は異形の群れへと突っ込んだ。 全ての攻撃をかわすことはできるはずもなく、腕を、背中を、喰いつかれる。 だが氣を纏い、流れる血を止める龍麻には致命傷にはならない。 反対に、龍麻が群れの中で腕を、足を振るうたびに、悲鳴とともに異形の血肉が散った。 やがて、散乱した肉片の中で、龍麻だけが立っていた。 返り血は、ぐっしょりと龍麻の髪から足の先まで濡らしていた。 生暖かい血は、龍麻の服からかすかに蒸気を上げている。 荒い息が龍麻の唇から漏れ続けていた。 「―――ッ」 龍麻は、血溜まりに足を折った。 行為からか、むせかえる血の匂いからか、龍麻は激しく戻した。 何かがキリキリと胸を締め付ける。 ハンカチで口元を拭い、それを床に捨てる。白いハンカチは、すぐに赤く染まった。 龍麻はふらりと、その血溜まりの中から離れた。 廊下の壁に、よりかかる。 息を。 ――息を、整えなければ。 そう、自分に言い聞かせる。 「―――っ」 身体の奥底から込み上げる何かに、龍麻は胸を押さえた。 声のかぎりに叫びたい衝動。 それを、龍麻はギュッと目を閉じて堪える。 固く唇を噛む。 そうしなければ、泣いてしまいそうだった。 再び、異形の気配がした。 龍麻はバッと顔を上げる。 異形たちの行動には、殺意以外の意志は何もないようだった。 そこにそれらを操る何者の影も見えない。ここを探るのは無駄なようだった。 ――戦いに慣れるのには都合のよい場所なのかもしれなかったが。 龍麻は、必死で氣を整えようとする。 初めての異形との戦いだったからか、無駄に氣を使いすぎていた。異常に身体が疲弊している。 「!」 巨大蝙蝠が、襲い掛かってくる。 龍麻はそれを手刀で払った。蝙蝠は羽を切られて地に落ちる。だが、疲れからか、龍麻の意志に反して足ががくりと崩れた。 体勢を崩す。 しまった、と思う時には遅かった。 四足の獣が、龍麻の眼前に牙を向いた。 「――ッ」 思わず、身を固くする。しかし、目は閉ざさない。どれだけ回避不能な攻撃を受ける場合も、目を閉ざしてはならないと、師に強く教えられていた。目を閉ざせば、生を放棄するのと同じこと。たとえチャンスがあっても、それを見つけられない。 龍麻の視界を、影が走った。 上げられた悲鳴は、龍麻に今にも牙を立てようとしていた獣のそれ。 ――白衣・・・・? 龍麻は、呆然とその背中を見上げた。 「―――あまり、手間をかけさせるなよ、緋勇・・・」 かすかに振り返り、さも面倒そうに自分を見る顔に、龍麻は見覚えがあった。 「――犬神・・・・先生」 転校初日に、職員室で顔を合わせたことがある。 あまりパッとしない、生物教師。それが、龍麻が受けた印象だった。 しかし。 すうっと龍麻の表情が硬くなる。 「犬神。・・・・・お前は何者だ」 「教師に向かって、「お前」とは頂けんな」 犬神は眉をひそめ、そしてまだ残った異形たちに向かって動いた。 龍麻は、目を見張る。 犬神の動きは、およそ、常人のものではなかった。 自分が知る、あるいは師から聞いている<力>とも違う気がする。 白衣に返り血もつけずに、犬神は辺りの異形を一掃してしまった。 龍麻を、振り返る。そして皮肉な笑みを浮かべる。 「――腰が抜けているなら、おぶってやるが?」 「必要ない」 龍麻は、立ち上がった。 手足が重いが、普通に歩くだけなら支障はなかった。 犬神はふい、と唇だけで笑んだ。 犬神の纏う気配に、龍麻の首筋辺りがチリチリとする。圧倒的な力、そして威圧感。 並のものなら腰を抜かしても不思議はない、それほどの存在だった。 「――ならば、さっさと帰るんだな」 「・・・・・・・・・」 「――夜は、闇の眷属の領域だ・・・・」 「答えを貰っていないが?」 龍麻の目は揺らがない。――少なくとも、表面上は。 犬神は眉を寄せる。 とても、旧校舎に入ってすぐ、あれほど怯えていた少年には見えない。 血まみれで、冷たい瞳の、彼。 「――まるで、修羅だな」 そう言って、犬神はその自分の言葉に少なからず衝撃を受けた。 目の前の生徒を、はっと見直す。 黄龍の器・・・・・それも、『陽の器』の方のはずだ。 それなのに、この陰の気配はなんだ、と思う。 「オレは、お前こそ何なのか分からん」 「犬神」 龍麻は言った。 冷たい声のまま続ける。 「お前に答える義務などない」 「・・・・・・・。それなら、オレにも答える義務はないと思うがな」 多少、犬神は気分を害していた。 別段興味があるわけではない。が、龍麻の傲慢さは鼻についた。 「何様のつもりかは知らんが、ずいぶんと自惚れているようだな、緋勇」 「何様?」 クッと龍麻の表情が、嫌な笑みに歪んだ。 「何様かッ」 傑作だというように、龍麻は肩を震わせる。 自分の価値など、よく分かっている。「無価値」だということを。 ――無意味だということ。 ――この世に存在しないモノなのだということ。 犬神は目を鋭く細めた。 龍麻から感じる陰の気配が強くなる。 学園で見る龍麻は、疑うことなく「陽」に見えた。明るく、温和、友を愛し、自分を愛する。 「どちらが、本物のお前だ」 「――分かっているだろ?」 龍麻は、ニッと微笑んで見せた。 心を全く読ませない、顔。鋭く冷たい瞳。頭から浴びている返り血でさえ、意に介していない。 冷酷、残忍、傲慢。 犬神は鼻の頭に皺を寄せた。 「なるほど」 犬神の嫌いな気の風が、目の前の男子生徒から吹いていた。 「オレは余計なことをしたみたいだな」 「・・・・・・・・・」 「これからは、お互い関らないことにしよう」 言外に、自分のことも追及するな、と含ませて犬神は冷たく言う。 龍麻が静かに言い放つ。 「それを望むなら、お前も俺の邪魔はしないことだ」 「・・・・・覚えておくさ」 犬神は言って、去って行った。 犬神の姿が完全に消えてから、龍麻は小さく息をついた。 ゆっくりと、旧校舎を後にする。 犬神の気配はもうどこにもない。 ――助けてくれて、ありがとう。 龍麻はそう、胸の内で呟いた。 「・・・・・・ッ」 涙が、こぼれた。 泣く権利などないのに。泣いて、楽になる資格などないのに。 そう思うのに、龍麻は一度流れ出した涙を止めることができなかった。 血に濡れた髪も腕も制服も、ひどく重かった。 犬神が何者なのかは分からなかったが、自分を助けてくれたことからして、悪い者ではないはずだった。 だから、これでいい。 自分は何も望んではいけないのだから。 「――っ、く・・・」 嗚咽を、抑える。 龍麻は、顔を覆った。 本当は泣いてはいけないのだけれど。 誰も、何も、見ていないのだから。今だけ許してほしい、と龍麻は願った。 明日からは、泣いたりはしないから―――。 「・・・・・・だから、どうしてあいつが泣くんだ・・・・」 校舎の屋上でタバコを吹かしていた犬神は、そう嫌そうに顔をしかめた。 自分の聴覚がいまいましい。普通ならば絶対に――これほど満月が近くなければたとえ犬神であっても捉えられなかっただろう、かすかな龍麻の嗚咽が聞こえる。 必死に声を殺して、泣いている。 「・・・・・・・・・・」 犬神は煙を空にくゆらせながら、 「・・・・・・緋勇龍麻、か・・・・・・」 そう、上っていく煙を眺めていた。 |