祈り


他にはいらない。何も望まない。

あなたの苦しみが消えるならば


何もいらない。
私の明日も、



この命も。


「殿下・・・いえ、王よ。本当にそうしなければならないのですか」
 ランスロットの声は重い。
 脳裏に、エルリアの笑顔がよぎる。
「彼女は、今まで・・・我々の、この国の民の・・・ひいては陛下のために、戦って戦って」
「分かっている!」
 トリスタンは叩きつけるように叫んでから、拳を握りしめた。
「わたしが・・・わたしが、平気でこんな事を言っていると思うのか・・・!」
「・・・申し訳ありません」
「もういい。わたしがやろう」
 苦悩に満ちたトリスタンの声が響いた。
 ランスロットは、剣の柄に軽く触れた。
「いいえ、陛下」
 エルリア殿。
「私がやります。私が彼女を殺します」
 その自分の声が、ランスロツトはどこか遠くで聞こえていた。



 カノープスは、傍らから立ち上がった女を見上げた。
「おいおい、もう行くのかよ」
「ええ。ちょうど皆できあがってきたみたいだし」
 エルリアは言って、周りを見回した。
 酒が入って騒ぎ出した兵たちは、もうエルリアたちの方に注意を向けてはいない。エルリアの方に来ようとした兵はカノープスが追い払ってしまっていた。
「あまり遅くなると、静かになって抜け出しにくくなるわ」
「・・・やっぱり、俺はついていっちゃ駄目かよ」
「駄目よ。貴方がいるから、私は安心してこの国を出て行けるんだから」
 エルリアは笑うと、カノープスに小さく巻かれた羊皮紙を渡した。
「後でランスロットに渡して」
「・・・言わなくていいのか」
「何を?」
「あいつに、惚れてるんだろ?」
「なっ」
 エルリアは赤面して絶句する。カノープスは少し笑った。
「バレバレだぜ。あんなあからさまに態度に出てりゃ」
「そそそそんな、私は」
「気づいてないのは、救いようのない鈍さのランスロットぐらいだぜ」
 笑って、そしてカノープスは表情を改めた。
「何も言わずに行くつもりか」
「・・・ええ」
「エルリア、お前それでいいのかよ」
 カノープスはずっとエルリアを見てきた。
 必死で戦って、戦って。皆のために勇者として剣をふるって、血に濡れて。
 それなのに戦いが終われば、まるで罪人のようにこそこそと一人で国を出ていかなければならないとは。
 カノープスにもエルリアの言い分は分かる。トリスタンと彼女がいれば、国は混乱する。だから出ていくのだと言う彼女を、カノープスは止められなかった。
 しかし。
「これじゃあ、お前があまりにも」
「可哀相だなんて思わないで」
 エルリアはにっこり笑うと、カノープスにかがんだ。
「だって私、とてもわがままで勝手なこと、貴方に頼むんだもの」
 エルリアの瞳が、すがりつくように強くカノープスを見ていた。
「エルリア・・・」
「あの人を守って。あの人の命を、心を守って。あの人が苦しまないように、あの人が悲しむことのないように、あの人が傷つくことがないように・・・守ってあげて」
 エルリアはぎゅっと目を閉じた。
「・・・私はもう、あの人の側にいられないから・・・」
 あの人を守れないから。
「ランスが苦しんでいても、手を触れることもできないから」
「・・・どこがわがままだ。わがままってのなら、あいつに、一緒に行ってくれって言やぁいいだろ」
「だめよ。そんなこと言ったら、あの人優しいから、苦しむもの。あの人が苦しいと、私、駄目なの。だめなのよ・・・っ」
 カノープスは舌打ちすると、エルリアの頭を片腕で抱きよせた。
「わがままなんかじゃねーよ。だが・・・バカだ、お前は・・・大バカすぎるぜ・・・」



 がさり、と茂みが揺れたのにエルリアはびくりと振り返った。
 城の裏門までもう少しというところだったのだが。
「ランスロット・・・」
 一番会いたかった、会う気はなかった男を認めて、エルリアは何か言い訳をしようと口を開きかけた。だが、ランスロットの後ろにトリスタンと数人の武装した兵を見つけてその笑顔は消える。
 そういう、事、か。
「すまない勇者殿。この国のため・・・貴公に生きていてもらっては困るのだ」
 トリスタンの言葉に、エルリアはランスロットを見た。
 そう。
 苦しげなランスロットの自分を見る瞳に、エルリアは悲しく笑った。
 私が生きていると困るのね。私が生きていると、貴方が苦しむのね?
 何のために戦ってきたのか、とは思わない。
 貴方に平和な国を残してあげられるのだから。
 なぜ自分がこんな目に、とも思わない。
 エルリアはトリスタンを恨む気持ちはかけらもなかった。
 神から、運命から。自分はもう報償を得ているのだから。一番の願いはかなえられているのだから。
 目の前に生きているランスロットが、その証拠だった。
 ランスロットは剣を抜いた。
「エルリア殿・・・」
 二人の剣の腕は互角に近い。だが一対一の時は、エルリアは負け知らずだった。
 よくて相打ち。
 ランスロットはそう判断していた。
 迷いを、振り切る。
「エルリア殿、お覚悟を!!」
 ランスロットは地を蹴った。
 エルリアは静かに剣を抜いた。



 血が、舞った。
「・・・あ・・・ぁ・・・」
 ぐらり、と倒れ込むエルリアをランスロットは抱きとめた。
「何故っ・・・」
 そのまま、強く抱きしめる。
 ランスロットの剣に、エルリアの剣は簡単にはじけ飛んだのだ。
「何故、剣を引いたのです!!」
 血を吐くような叫びだった。
 彼女を切ったのはランスロットだというのに、その彼の叫びには狂おしい程の切なさと、彼女に対する憤りさえも感じられた。
「・・・わざと、じゃ、ないわ」
 だから、苦しまないで。
 エルリアは瞳を閉じた。
「本当・・・よ・・・」
「エルリア殿ッ」
 嘘だ、と思う。
 彼女がこんなに弱いわけがない。
 何故・・・。
 ランスロットは、彼女の額に飛び散った血を手で拭った。
 エルリアは目を開いた。
 切られた所が焼けるように熱い。そのくせ、体の芯はゾッとするほど冷たかった。身体中が苦痛に悲鳴を上げている。
 だが、それよりも。
 自分を見るランスロットの瞳に、エルリアの胸は苦しいほど痛んだ。
 そんなに辛そうにしないで。
 私は、平気なんだから・・・。
 この人が心安らかになれるなら、どんな事でも平気なのに。幸せで笑っていてほしいと願うのに、どうしていつも自分は彼にこんな顔をさせてしまうのだろうと、エルリアは悲しくなる。
 激しい吐き気がして、エルリアは呻いた。
「エルリア殿!」
 すうっと吐き気が消える。痛みも遠くなる。意識がただ、何かに引っ張られるように落ちていこうとする。エルリアは、死を自覚した。
 必死でランスロットを見上げる。
 彼の姿を、少しでも長く焼き付けたかった。
 エルリアは震える手を、ランスロットの頬に伸ばした。
 精悍な顔。その瞳。
 エルリアの瞳に涙があふれた。
 その姿もその魂もその命も。過去も弱さも強さもその生き方も。
 彼の全てが愛しかった。
 苦しまないで。悲しまないで。傷つかないで。
 祈るようにそう願う。
 罪も苦難も、彼を苦しめる全てが、彼を避けて行ってほしい。
 愛している。
 貴方を愛している。
 エルリアの頬を、涙が零れ落ちた。
 私はいらない。何もいらない。
 神よ。彼に幸福を。
 他には何も望まない。
「ラ、ンス」
 ランスロットは頬に触れるエルリアの手に自らの手を重ねた。
「生き、て・・・」
 生きていて。
 それだけでいい。
 エルリアは微笑んだ。
 こんなにも、貴方の命が、貴方だけが、愛しい。
 神様。神様。神様。
 どうか、この人が幸せでありますように・・・・・・
 がくり、とエルリアの手から力が抜けた。それを、ランスロットは無意識に掴み止める。
「エルリア殿?」
 どれだけ待っても、彼女は応えなかった。
「―エルリア・・・ッ!!」
 ランスロットはエルリアの骸を抱きしめた。





BGM■モデラート/Moderato in G Minor
Copyright (C) 1997 N.Kanesaka

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