| 開かれた扉 Y |
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| ランスロットは屋敷の入り口で立ち止まった。 開け放たれた扉。 そこからはランスロットも良く知る、むせ返るような血の匂いがしていた。 一歩そこに足を踏み入れたランスロットの視界に、予想通りの、だがそうであってほしくなかった光景が広がる。 まだ乾ききらない血が、床をじっとりと濡らしている。すでに生命の気配がない身体が、あちこちに転がっていた。その苦痛に歪められた顔は、ランスロットが見知っているものもあった。 知らず、息が上がる。 心臓が痛いほど激しく打ち、頭の奥がズキズキと痛み出す。 「ティ・・・エル・・・」 狂ったように叫び出したい衝動にかられ、ぶるりと身体が震えた。 「―ティリエル!!」 ランスロットは強く何かに押されたように、突然動き出した。近くの部屋に飛び込み、彼女の姿を捜す。折り重なった死体をどけ、辺りを見渡す。そしてすぐに別の部屋へ。 「ティリエル!」 頭の中には何もなかった。何も考えられなかった。ただ、幼い子どもが闇の中で母親の姿を求めるかのように、彼女だけを求めていた。短い間だったとはいえ、これだけの仲間の死体を前に、悲しみは彼の心の表層に昇ってはこなかった。 それだけの余裕はなかったのだ。 求めるのは彼女の姿。 彼女の無事。 彼女の・・・・・・。 出会ってわずかな時間でティリエルはそれほどに大きく、深く、様々な意味でランスロットの心を占めてしまっていた。 幾つ目かの部屋に踏み込んだ時、ランスロットの心臓は跳ね上がった。 部屋の真ん中に転がる、首のない死体。 その身体は女性のものだった。そして固く握りしめられたままの手には、たしかにランスロットの知る彼女の剣が。 ティリエル・・・・・・!! そうランスロットの理性が答えを導き出した時。地の底からわき上がるような、獣じみた咆哮が上がった。 それが自分の喉から発せられたものだと言うことに、ランスロットは気づかなかった。 なぜ彼女の側にいなかったのか。 なぜ彼女たちをこの街から移動させなかったのか。 なぜ、なぜ、なぜ。 頭をぐるぐると回るのは、そんな言葉だけ。 「ティリエルっ」 ランスロットは泣いていた。 ―なぜ。 こうまで運命は、いつも願ったのと反対の方向に進んでいく・・・・・・!! やっと巡り会えた運命の星。未来への道標。 失ったものの大きさに、全てが闇に覆われた気がした。 この時ランスロットは、ほとんど狂いかけていたと言ってもいい。 だが胸を次々とよぎっていく鮮烈なティリエルの姿とともに、最後に会った時の彼女にかけられた言葉が、彼の思考をつなぎ止めた。 『エルリアを頼むわよ、ランスロット』。 エルリア・・・・・・。 小さな花のように、可憐で優しい彼女の微笑みが浮かぶ。 そ、うだ。 ゆっくりと、それがきっかけに彼の強靱な精神は理性を再び構築し始める。 ランスロットは激情を、悲嘆を、無理やり胸の奥へと押しやった。 悲しんでいる暇はない。失った事実におののいている時間はなかった。 ランスロットたちは予言の勇者を失ってしまった。だが決起のための仲間はすでにゼルテニアに集結してしまう。もはや後には引けなかった。 だが勇者の死に、自分たちの士気はガタガタに下がるだろう。そもそもウォーレンは予言の勇者なしに自分たちは望む勝利を得られないと言っていたのだ。 どうする。 どうすればいい。 だがどれだけ考えても、有効な手は浮かばなかった。 「とにかく・・・ウォーレン殿に知らせなくては」 そのランスロットの目が、無意識にティリエルの死体を映した。瞬間、彼の胸を鋭いものが貫く。だがランスロットは、今度は悲鳴を上げはしなかった。 彼の内の空洞はなくなりはしなかったが。 それでも今は理性と義務感が彼を支えていた。 「ティリエル・・・・・・君たちを埋葬することはできない」 許してくれ。 短く、呟くように言う。 ランスロット一人に全ての死体を運ぶことは不可能だったし、彼にはその時間もなかった。こうなった以上急いでゼルテニアに戻らなければならない。 ランスロットはティリエルたちに短い祈りの言葉を捧げ、そして踵を返した。 屋敷を出た時、再びティリエルの声が甦った。 『エルリアを頼むわよ、ランスロット』。 ランスロットは後頭部を激しく殴られたようなショックを受けた。 そこではじめて、ランスロットは自分がエルリアを置いてきたことに気づいたのだ。 ランスロットは来た方に向かって再び駆け出した。 街のあちこちは、未だ燻った煙が上がっていた。帝国兵に会わぬように警戒しながら駆けていたランスロットは、近くで上がった甲高い悲鳴に足を止めた。 小さな家屋の入り口で、中年の女が腰を抜かしている。 「どうした!?」 ランスロットはその婦人に駆け寄った。女は震える手で、部屋の中を指す。 「あ、あたしの家に、死体が・・・・・・っ」 「!」 目をやったランスロットは、衝撃に、一瞬息が止まる。 鮮血に裸身を染め、力なく手足を投げ出している娘は、彼が捜していた娘だったのだ。 「エル、リア・・・」 かすれる声が、ランスロットの喉から漏れる。しかし、娘はぴくりとも反応しない。 ランスロットは彼女に近寄った。 血だらけの彼女の胸は、静かに上下している。 エルリアは生きていた。 男たちは彼女を凌辱した後、剣でごく薄く彼女の身体を刻みつけた。無数に走るそれは、男たちが彼女が痛みに悲鳴を上げのたうつ姿を楽しんだのだと容易に分かる。このまま手当てせずに放っておけば出血多量で娘は死ぬと思ったのだろう。そしてそれは事実で、あと数刻もこのままだったなら、彼女は死んでいただろう。 ランスロットは目の前の惨状に、たまらず顔を背けた。 ・・・ああ・・・! ランスロットは顔を歪め、震える手で自らのマントを脱いだ。 ランスロットは激しく自分を責めていた。 なぜ、彼女を置き去りにしてしまったのか・・・!! エルリアが戦えないということを知っていたのに。 あの時彼女を守れる者は自分だけだったのに。 よりによってこんな状態の場所に、彼女を一人で置き去りにするとは・・・!! ランスロットはエルリアに近寄ると、彼女の傷だらけの裸身にそっとマントをかけた。 エルリアはまばたきするのを忘れたように、ぼんやりと瞳を開いている。 「・・・ティリエルは?」 そのエルリアの感情の抜け落ちた声に、ランスロットはゾッとする。 それはおよそ生者の声ではなかった。 ランスロットは何の感情も浮かんでいない、人形のような娘を見た。 再び、彼女の唇だけが動く。 「ティリエルは?」 「・・・・・・すでに、こと切れていた」 エルリアは泣かなかった。ただ、唇を閉ざしただけだった。 その紅い瞳には、悲しみも驚愕も、何もない。まるでガラス玉のようだった。 ランスロットはマントで彼女を包み込むようにして、その肩を静かに抱く。 「すまない、エルリア」 だが彼女に反応はない。 ランスロットは彼女の肩に顔をうずめた。 「すまない・・・・・・!」 呼んだに違いない。彼女は、助けを、自分を呼んだに違いなかった。 なぜ自分はその時に、彼女を助けられる場所にいなかったのか。 自分は結局双子のどちらも救えなかったのだ。 一度全てを失った昔の日から、ランスロットはいつもこれ以上の絶望はないと思っていた。 何が起こっても、これ以上悪くなりようはないのだと。 それなのに。 明日はいつまでも見えないのに、ただ闇ばかりが深くなる。まるで深淵に底はないのだと言うように。 |