王誓


「陽子ッ」
 尚隆が陽子に危険をうながす。
 敵兵の剣が、陽子の髪をかすった。束ねていた紐が切れ、鮮やかな緋色の髪が風になび く。それとともに、敵兵の真紅の血が散った。
 陽子の剣が、敵兵の身体を貫いている。妖魔を倒した時と同じ、肉に埋もる手応え。命を絶つことは、相手が大きくなるほどに辛い。虫よりも小動物、小動物よりも……。陽子 は普通の高校生であった時、小鳥一羽自分の手で殺したことはなかった。だから、妖魔でも初めて殺した時は、ショックだった。
 けれど、今。
 人間を殺したのだ。
 覚悟はしていた。人を殺すつもりでなければ、戦場になど出てこない。
 それでも。
 それでも。
 陽子は思わず、口に手をあてる。ひどい吐き気がした。頭の奥がガンガンする。体温が下がる。冷たいものが、胸の中に落ちた。
「何をやっているッ」 
 尚隆が、陽子を狙っていた敵兵を切り捨てる。陽子はハッと我に返った。
「あ……」
「…………」
 尚隆は陽子の隣に騎獣を寄せた。
「……陽子、お前は戻れ」
「だ、大丈夫です」
「足手まといだ」
 尚隆は冷たくそう言う。
 陽子はキリッと唇を噛んだ。自分の髪が、視界の端に入る。真紅の髪。血の……罪の色。 これは、自分の戦いなのだ。……この戦いで流れる血は、自分のもの。人の手だけを汚し て、自分がキレイな場所にいることを拒んだ時から、この髪のように、自らが血に染まる ことを決めたのではないのか。
 怯えるな。
 自分を哀れむな。
 陽子はキッと顔を上げた。
「戦えます」
 短く言って、陽子は騎獣を走らせた。
 その陽子の背中を見て、尚隆はふうと息をつく。
 その横で、雁の将軍の一人が王を見た。
「主上は、あいかわらずお人がいい」
 雁の気質なのか、上官級は延王にも気軽に口を聞く。
 尚隆はとぼけた。
「なんだ? 俺は陽子に足手まといと言ったんだぞ」
「……人を殺させるのが、お可哀相になったのでしょう?」 
 簡単に見透かされて、尚隆はわざと嫌な顔をする。
「……女王ならば、前線にでない王の方が多いですのに」
「前線に出ようが出まいが、王の手が血に濡れるのは変わらぬ。頭では分かっているのだ ろうが、感情が、他人だけに手を下させるのを許さんのだろう」
 人を殺した陽子を見て、尚隆は哀れに思ったのだ。まだ、『王』としてではなく、陽子を少女としてしか認識していないせいなのかもしれない。
「俺の時は、生まれ育った所が戦乱の世だったからな。……陽子には、辛いだろうに。六太と一緒にいればいいものを……。全く、融通のきかん性格だ」
 だから、痛々しいのだ。
 戦う陽子を見ながら言う尚隆に、将軍は少し笑った。
「真面目な方なのですよ、景王君は。……少しは見習われたらいかがです?」
「……これ以上真面目になってどうする」
 尚隆は快活に笑うと、騎獣を走らせた。
「主上ッ。……」 
 将軍はハアとため息をついてから、延王を追った。








 離れない。  
 この手で殺した男たちの顔が。 
 陽子は雲海を見下ろした。
「……離れなくていいんだ」  
 忘れない。殺した命の、断ち切った人生の全てを背負わなくてはならない。  
 犠牲の上に自分が立っていることを忘れない。 
 陽子は自分の両肩を抱いた。  
 怖かった。 
 王として、生きることが。 
 流した血を贖えるほどの良き王になれるのか。永遠に続く道。死ぬ時は、国を無茶苦茶 にした後だけだ。まだ十数年しか生きていないのに、その何十倍もの時間を、正しいまま に生きられるのか。
 覚悟は決まったはずなのに。やれるところまでやってみようと思ったはずなのに、それでも先が見えなすぎて恐ろしい。自分一人が間違えば、国が荒れ……多くの人が死ぬ。
「…………ッ」
「陽子」 
 陽子は驚いて、振り返った。
「……延王」
 尚隆は言葉につまる。陽子が、今にも泣きそうな顔をしていたので。だが、陽子はすぐ にその表情を消した。王をやってみると言った手前、王である彼の前で、これ以上あまり にも無様な姿は見られたくなかったのだ。
「陽子、あまり考えすぎるな」 
 尚隆は陽子の隣に並んだ。うつむく陽子を見ずに、雲海へ目をやる。
「先のことを考えることも時には大切だが、過ぎると前に進めなくなるぞ」 
 陽子は尚隆の横顔を見る。五百年の治世を誇る、希代の名君。豊かな雁国を築いた延王。 自分が、この男と同じ王なのだということが、陽子には信じられない。
「分かりません。……どうすれば、あなたのような王になれるのか」
「やめとけやめとけ。俺みたいになったら、景麒に―」 
 尚隆は笑って陽子を見、言葉を切った。  
 思い詰めたような、何かに怯えるような瞳に、尚隆の胸がかすかに痛む。この目の前の少女は、まだ十七年しか生きていないのだ。
「……陽子、十七年生きて、長いと思ったか? 十年でも時間にしたら長いはずだが、思 い返せば短いだろう? 何百年といっても同じだ。……長いようで、長くない。一歩一歩歩いて行けば、けっこうやっていけるものだ」 
 尚隆は、優しい目を陽子に向ける。
「それに、陽子は一人じゃないだろう? 麒麟がいる。友の楽俊がいる。それに、六太も俺も、お前の力になってやれる」
 その時、陽子は知った。 
 優しくされれば、弱くなることもあるのだと。
 決して言うまいと思った事も、耐えていたものも、吐き出してしまいたくなる。
「どうして私なんですかッ。どうして勝手に決められなくちゃならないの? ―王になん て、なりたくないのにッ」 
 陽子は叫んでしまってから、ハッと口を押さえた。  
 言ってしまった言葉は、なかったことにはならない。絶対に言ってはいけない言葉とい うものがある。 
 軽蔑された。 
 陽子はギュッと目をつぶった。延王を見るのが怖い。自分がたいした人間じゃないのは分かっていても、この王に軽蔑されるのは嫌だった。
「ご、ごめんなさい……延王、私……ッ」  
 自分への嫌悪で胸が悪くなる。混乱した感情のまま、陽子は首を振る。
「こんなこと、言うつもりじゃなかっ」
「かまわん」 
 尚隆は崩れ落ちかけた陽子を支えた。
「言ってしまえ。今だけ、俺が許す。その方が、楽になる」
  陽子は尚隆にしがみつく。王となっても、救いが欲しかった。陽子はそれを延王に求めかけて、唇を噛む。 その両腕を掴むと、尚隆は陽子の瞳を覗き込んだ。
「言え、何もかも。かまわないから」
「延……延王……」
 真摯な延王の瞳に、陽子は自分が何を言おうとしたのか気づいて、目を伏せた。  
 私はいったい、何を言おうとしたのか。 
 王であることを決めたはずなのに。
「陽子、言うんだ」
 陽子はうつろに尚隆を見上げる。考える前に、言葉だけがこぼれでた。
「……もし、私が道を違いかけたら……」 
 陽子の瞳に、涙が溢れる。
「私を叱りに来てくれますか……?」
「……ああ」 
 静かに頷く尚隆に、陽子は顔を背けると嗚咽を漏らした。
「……申し訳、ありません」  
 最低だ。 
 自分が言ったことに、陽子はぎゅっと目をつぶった。王は常に、自らで正しい道を探し行わなければならない。間違いだと自分で分かる者は 少なく、それを他者に教えられるというのは救いだ。
 けれど。
 私は自分が王の重荷を負うのにおののきながら、この強大な国の王に、さらなる重荷さえ、王としての自らの責任さえ半分負わすつもりなのか。
「忘れてください、延王……!」
「馬鹿だな、陽子は」 
 明るい声に、陽子は延王を見た。
「え?」
「俺は別に、陽子のために言っているのではないぞ? 雁と慶は隣だ。慶がまた荒れるよ うになっては、荒民で俺が困るからな」 
 尚隆は両腕を組むと、ニッと笑う。
「景女王が道を違いかけたら、延王は必ず景女王をひっぱたきに行くからな。覚悟しておけよ、陽子」 
 尚隆の言いように、陽子は唖然とした。
 陽子の胸の中で、何か硬いものが溶けていく。  
 陽子は笑った。
「はい」
「よし」 
 尚隆はうなずく。陽子は表情を改めると、尚隆の手をとった。  
 今は支えられるばかりで。助けられるばかりで。
 何も、できないけれど。
「……いつか、延王と雁国をお助けできるようになってみせます」 
 雁国が慶国の後ろについている、というのではなく。延王が景王を援助している、というのではなく。
 互いに必要な国に、王になりたい。 
 陽子の先程までの脆さと弱さは消え去り、その瞳にはむしろ炎のような強さがあった。  
 尚隆は驚いて陽子を見る。 
 庇護してやりたい思いだけが強かったが、この目の前の女性もまた、王であるのを尚隆 は改めて思い知る。 
 後に尚隆は六太に、思いかえせばこの時に彼女に惚れたのだと、そう語っている。  
 尚隆は笑う。 
 陽子はハッと我に返る。 
 五百年の治世を誇る延王に、大胆不敵な事を言ってしまったと赤面した。
「……え、偉そうな事を言ってしまってお恥ずかしい。……まだまだこれからで、正式に即位もしていないと言うのに……」
 言っているうちに、本当に凄い事を言ってしまったと思って、ますますしどろもどろになる。握っていた尚隆の手を離すと、ぱたぱたと振る。
「延王にはありがたいと思っていて、それで、いつか、お返しができればと、その……」
「最高の友好の言葉だな、それは」 
 尚隆は笑うと、陽子の左手を両手で包んだ。その瞳は、優しい。
 そして真剣な顔になる。 
 陽子はその尚隆の眼差しに、口を閉ざした。尚隆は静かに、だがよく通る声で言った。
「延王尚隆はここに誓う。景女王陽子の治世が続く限り、雁国は慶国を友国とし、いかなる時もその支えとなり、その守りとなることを」
「…………」 
 陽子は右手を、自分の左手を包む尚隆の手においた。
「……景王陽子は
ここに誓う。延王尚隆の治世が続く限り、慶国は雁国を友国とし、いかなる時もその支えとなり、その守りとなることを」 
 二人の王の瞳が交わり、二人の王の言葉が重なる。
「「天命尽きるその時まで、この誓い破れることなし」」 
 そして始まる。 
 永い永い、二つの国の物語が。
 二人の王の、恋が。 
                                                

〔了〕



HOME