天涯比隣 参 |
陽子は維竜の一室に閉じ込められていた。 ここのどこかに、景麒がいるはずだ。陽子を延王との取り引きに使うことを決めた偽王軍たちは、景麒を移してはいない。陽子は扉に耳を当てていた。陽子を妾と侮ってか、武器は取り上げられなかった。 もっとも、水禺刀は陽子以外には飾りの刀にしか見えないせいもあったが。 夜明け近くなって、扉の前には二人の気配しかしなくなった。 陽子は剣を握りしめた。 軽く、扉を叩く。 「何だ」 陽子の前で少しだけ扉が開かれた。陽子はそのまま、扉を蹴倒すように開け放ち、扉を開けた男をその勢いのまま切り倒す。驚きに声も上げられないもう一人の見張りの男を、返す刃で貫いた。二人の男が、床に倒れる。陽子は深く息をついた。 なぜか、ここはひどく冷える気がした。 ―景王君。 びくり、と陽子の肩が揺れる。見知った使令の姿を見て、陽子は反射的に構えた剣を下ろした。 「陽子」 悧角の後に、延王が現れる。ふっと陽子の肩から力が抜けた。延王が笑む。 「我が愛妾を迎えに来たぞ」 「……すみません」 陽子は、赤面する。そして、はっと我に返った。 「どうしてここへ? まさかお一人で?」 「一人のほうが潜入し易い」 「なんて危険な事を」 陽子の声に含まれる非難に、尚隆は笑って眉を寄せる。 「陽子には言われたくないぞ」 「…………」 「まあ、無事でよかった」 尚隆は言って、陽子の肩に軽く手をやった。陽子に会うまで、胸を締めつけた焦りが今はない。手から伝わる陽子の体温に、尚隆は心から安堵していた。 「悧角」 尚隆の命に、悧角は消える。陽子は怪訝に尚隆を見た。それに、尚隆が答える。 「維竜の近くに軍を潜ませている。悧角の合図でここを急襲する手筈だ。それまでに景麒を救出できればいいのだがな」 「貴方が先に一人で来られるのを、反対されなかったのですか?」 「されなかったな」 尚隆は、さらりと言う。 「置き文にしたから」 陽子は驚いて尚隆を見て、そして笑ってしまった。くすくすと笑ってから、傍らの尚隆を見上げた。 「以前も思ったのですが。延王は不思議な方ですね」 「そうか?」 「はい」 陽子はこくりと頷く。さっき延王が現れた時も、確かに感じたのだ。 「貴方からは、太陽のかおりがします」 陽子はそう言って、笑った。延王からは、明るく温かい、日差しを感じる。 「……そうか」 尚隆はぽんと陽子の肩を軽く叩いて、歩くのを促し、陽子とともに歩きだした。 尚隆は、気づいた。 なぜこんなに守りたいと思うのか。なぜ今、彼女を抱きしめたいと思うのか。なぜこんなにも愛しいのか……。 今さら、こんな想いを持つとは思わなかった。やっかいな相手に、とも思う。 だか、しかたあるまい。 「気づいてしまったのだからな……」 「延王?」 怪訝に見上げる陽子に、尚隆は笑って見せる。 「何でもない」 陽子と尚隆は景麒の捕らわれている場所へと向かった。景麒を開放する前に雁の軍がつき、城の内外入り乱れての戦いになる。 合流した使令とともに、景麒の所へと駆けた。すぐに、景麒が閉じ込められた部屋の前につく。その時。陽子は崩れた壁の向こうから尚隆の背中を射ろうとしている兵に気づいた。 「延王!」 「ばっ」 馬鹿な。 尚隆の叫びは、最後まで発せられなかった。 陽子が、尚隆に飛び掛かるようにして覆いかぶさったのだ。 「陽子!」 尚隆は陽子を強引に押し退けながら、短刀を続けざまに放った。弓を射っていた二人の兵に命中する。兵はくぐもった悲鳴とともに倒れた。使令が、その兵を飛び越えてその後ろにいた兵たちに襲いかかる。すぐに、辺りは静かになった。尚隆は陽子を振り返る。 「怪我は……」 言いかけて、青ざめる。陽子の肩に矢が立っていたのだ。陽子はその視線に気づいて、苦笑した。無造作にそれを引き抜く。 「かすり傷です」 「無茶するな」 尚隆は苦い顔で、自らの袖を破くと陽子の傷を手早く応急処置した。守ろうと思う者に守られて、尚隆は内心自分に舌打ちする。そのせいか、尚隆の声は少し厳しい。陽子は戸惑ったように言った。 「すみません。でも、一番いいと思ったものですから」 自分が壁になり、延王が攻撃を飛ばせば一気に倒せると思ったのだ。それを聞いて、ますます尚隆の顔は固くなる。 「それなら反対だろうが。俺がお前の壁になるものだ」 「ですが、延王はあの時背を向けていましたし……」 「だが、俺は男だぞ。陽子は女だ」 その尚隆の言葉に、陽子の表情がすっと消える。尚隆はハッと口ごもった。尚隆の想像どおり、陽子は怒ったような目になる。 「関係ありません」 「それは、そうかもしれんが……その、俺には、この矢など大した怪我にはならんのだ」 「私にも、大した怪我ではありません」 同じ仙なのだから。そう真面目に言う陽子に、尚隆は破顔した。くしゃり、と陽子の頭を撫ぜる。 「―俺の負けだ」 一見危うく、自分に自信がなく弱く見える少女。だがこういう時に透かし見える、炎のような強さが尚隆の目を奪う。揺らめく炎は、時に激しく燃え、―美しくて目が離せない。 陽子はしかし、少し唇を噛んだ。 まただ。 こんなふうに言うつもりはないのに。 本当は、延王が自分を守ろうとしてくれるのは嬉しい。 だけど。 自分もまた、延王を守りたいのだ。 肩を並べていたいのだ。今は、そう考えることがおこがましいのは分かっている。でも、この男の隣で、ちゃんと立っていたいのだ。一方的に庇護されるのではなく、互いに背中を預けあえる仲になりたい。そう、思う。胸を張るこの男の隣で、自分もまた立っていたい。そして男が笑いかけてくれるその位置にいたい。 でも、旨く言えなくて。 延王は差し出した手を払われた気持ちにならなかっただろうか。 伝わらない気持ちが、もどかしくて、そして苦しかった。 「……すみません……」 「何を謝る?」 尚隆は優しげに目を細めた。陽子の胸が、どきりとする。延王の目がまるで、陽子の心を全て分かっているかのようで。 延王の快活な笑顔を、陽子は眩しげに見た。なぜか息苦しくなって、目をそらした。尚隆は陽子をうながした。 「さ、行くか」 そこに、景麒が待っている。 そうして、尚隆の言葉どおり、雁の軍は陽子と景麒とともに一度関弓に戻った。 そして数週間が過ぎ、幾度かの戦いをへて、慶国の乱はほぼ納まった。 |