天涯比隣 


「延王!」
 陽子は野営地で尚隆を見つけ、駆け寄った。
 尚隆は振り返った。
「どうした?」
「あの……」
 陽子は言って、所存なさげに自分の腕を掴んだ。
「今日は、なにか、失礼な事をしましたか?」
「いや。陽子が気にする事はなにもない」
「ですが……」
「明日はいよいよ征州都維竜。調べでは、そこに景麒が捕らわれているはずだ。今日は早めに休め。明日は日の出より早く攻勢をかけるぞ」
「…………」
 陽子は尚隆をじっと見上げる。尚隆は息をついた。黙っていようと思ったのに。
「……関弓を出る時に言ったはずだ。俺から離れるなと。なぜ、勝手に飛び込む?」
「延王のお気持ちは嬉しいです。ですが、私は守られるためについてきたわけではありません」
「お前が弱いと言っているわけではない」
 尚隆は珍しく、苛々と舌打ちした。
「だが、この戦いはお前が在ってこそだ。万一景王を失うことになったら、何にもならん」
「私の戦いだからこそです!」
 思わず、陽子は叫び返した。
 自分の、慶国の戦いなのだ。なぜ、雁の軍の後ろにいることができるだろう。
 戦いたいわけではない。戦わなければならないのだ。
「私は自分の身は自分で守ります。ジョウユウがついていますから」
「勝手を言うな!」
 反射的に怒鳴り、尚隆はふいと横を向いた。
 俺は、何を苛立っているのか、と思う。大人げなく……。
 陽子の背中に剣が振り下ろされかけた、その場面が頭から離れなかった。ゾッとした。手を伸ばした時に、陽子に届かない苦しいほどのはがゆさ。
 なぜ分からない。
「王の命は、王だけのものではない!」
 こんなに、その身を案じているのに。
 なぜ敵の刃に、一人で飛び込む。
 なぜ、俺が守れる所にいない。
 尚隆は自分でも分からない腹立たしさに、拳を握る。
 陽子もまた、押さえられない激情に流されていた。
「それは貴方も同じはずだ!」
 尚隆を案じられるほどの自分ではない。それは、理性では分かる。
 だが、なぜ彼は自分を庇おうとするのか。戦場でなぜ自分に気を向けるのか。なぜ―隙をつくるのか。一瞬のそれが生死を分けることを、陽子は妖魔との戦いで知っていた。
 延王が陽子の名を呼ぶたびに。戦いの中で彼の視線を感じるたびに、恐ろしくなる。不安になる。延王の強さは分かっている。
 それでも、彼の危険が増すのが恐ろしかった。
 どうして分かってくれないのか。
 こんなに、貴方を案じているのに。
 もどかしさに、陽子は唇を噛む。
 陽子と尚隆は、互いに引かなかった。
 こんなにも、守りたいと思っているのに。
 なぜ、伝わらないのか。
「―失礼、します」
 陽子は先に視線を外すと、踵を返して駆けだした。
 駆けて、駆けて、野営地の外まで出て、その足はゆっくりとなった。
「……馬鹿だな……私は」
 延王に向かって、あんな事を。
「延王が呆れられるのも、当然だ」
 ひどく自分が愚かに思えて、悲しくなる。陽子が深く息をついた時、微かな音が聞こえた。陽子は咄嗟に身を沈める。耳をすます。その音をたどって、陽子は気配を消しながら木々の間をぬうように斜面を下りた。音が、ささやく声になる。三人の男だ。陽子は木陰に隠れて聞き耳をたてた。
「……では、雁国の兵がここまで」
「ああ。即刻お知らせせねば」
「すぐに台輔に維竜から別の場所へ移っていただこう」
 景麒を?
 陽子は内心舌打ちした。明日の朝では間に合わない。
 野営地に戻って延王に知らせ、今夜中に襲撃するしかない。そう思い、そっとその場を離れようとした陽子だったが、三人の男の背後の騎獣に気づいて足を止めた。宙を駆ける騎獣だった。陽子が野営地に戻り、軍が出撃するのを待っていては、彼らの方が維竜に早くついてしまう。景麒が他の場所に移される方が早いかもしれない。かと言って、陽子の足では彼らをつけていくことはできない。
 どうする。
 陽子はめまぐるしく思考を巡らす。
 手はあるが、やりたくはない。とても褒められたやり方でもない。だが、そうは言っていられないことも陽子はよく分かっていた。
 ……やってみるか。
 決心すれば、行動は早かった。陽子は自分の髪を束ねていた紐をはずし、上着を脱ぐ。その二つを手近な枝に結び付けた。こうしておけば、延王(延麒)の使令ならばたやすく見つけられるはずだ。こういう時に字が書ければ、確実に伝えられるのに。陽子は今更思ってもしかたがないことと分かりながら、そう思ってしまう。
 そして、ふらりと三人の前に姿を現した。
「何者!」
 三人が陽子に声を上げる。三人が剣を抜く前に、陽子は大げさに驚くふりをし後ろによろけた。うまくいくことを願いつつ、悲鳴を小さく上げる。三人の男は、その様子と陽子の見た目から彼女を、弱いと判断した。三人の男はだが、剣の柄に手をやったまま陽子に近づく。陽子は内心息をついた。最初に切り捨てる気を無くしてもらえば、第一段階は成功だ。
「貴様、雁の者か?」
 男のその質問を待っていた陽子は、こくりと頷き、そして胸をはってみせた。
「そうだ。私を傷つければ、延王君は決してお許しにならない」
「……延王の女? か」
 疑わしい男の問いに、陽子は内心延王に謝りながら頷く。
「延王は私ためなら、何でもしてくれる」
 言っている自分が嫌になる。言葉遣いも女らしくしたほうがいいとは思ったが、よけい不自然になりそうな気がして、それはやめる。男たちは顔を寄せ合う。戦場まで女を連れてくるとは延王は噂以上の女好きだとか、まるで男の子のようで延王の趣味は変わっているとかいう言葉が切れ切れに陽子に聞こえてくる。しばらくして、男が陽子を振り向いた。
「本当に、何でもするのか?」
「たとえば……戦いをやめることも?」
 陽子はそれにも、頷いた。男たちはそれからも、試す価値はあるだとか、降伏はむりだろうが慶国から去るだけならのむだろうだとか話していたが、陽子をつれて騎獣に乗った。すぐに、大地が遠ざかる。
 陽子は無言で、三人の内で地上に残った一人の男を見ていた。









 駆け去る陽子を見て、尚隆は息をついた。
 自分は何を熱くなっているのだろう、と思う。
「……俺らしくもない」
 そう、ひどく自分らしくない気がした。ここ百年、激昂することなどなかったはずなのに。
 俺もまだまだと言う事だろうか。五百年生きてきた延王は、そう一人腕を組んだ。
 しばらくして。
 野営地がざわめいた。
「何事だ」
 尚隆は将軍の一人に声をかける。将軍はすぐに尚隆に近寄った。
「主上!」
 そして、耳打ちする。尚隆の顔色が変わる。尚隆は静かに頷いた。
「……俺の天幕に通せ」
「……はい」
 言って、将軍はどこかへ駆けていく。尚隆はくるりと踵を返すと、自分の天幕に向かった。通り抜けざまに、置かれている荷を蹴倒そうとして、やめる。
 落ちつけ。
 自分に、そう言い聞かせる。ともすれば一人、維竜に飛び出して行きたい心を押さえた。
 ―主上。
 微かな声に、尚隆は呟く。
「悧角か」
 駆けだした陽子を追わせたのだった。尚隆の足元に陽子の上着と紐が置かれる。
 ―これが枝に結ばれておりました。
「…………」
 尚隆は何か考え込み、そして再び天幕へ歩きだした。
 そして尚隆の天幕にはすでに、陽子が先程会った偽王軍の男が通されていた。
 男の要求は一つ。
 明日の朝には雁の軍は慶国を去ること。それと引換えに延王の愛妾を返すと言うのだ。
 それが景王のことと気づいて、控えていた将軍は顔色をなくす。
 尚隆は一言、その条件をのむ、とだけ言った。男は、すぐに、野営地を去った。
「……愛妾とは……陽子もやるものだ」
「主上! 笑い事ではありません。景王君の身に何かあれば―」
「むろん。笑い事ではない」
 延王の目が笑っていないことに気づいて、将軍は口を閉ざした。尚隆は続ける。
「取り合えず、あの男の要求どおり一度関弓まで撤退する。兵たちに用意させておいてくれ」
「……ですが、主上……」
「もちろん、その時は陽子と景麒を連れて、だがな」
 尚隆の口許が笑みを形作る。しかし、その瞳は鋭かった。