2000水墨画研修会の詳細


2000研修会報告【HP版】

 本年は、京都府立丹後郷土資料館の伊藤太技師にお願いして、「蕪村と三丹
(丹波・丹後・但馬)の京都画壇」と題して、講演と三丹地方に残る作品探訪を
行いました。参加者数は、初日の講演は20名、宿泊は15名と小人数でしたが、
参加者のまとまりもよく、楽しいものとなりました。伊藤先生の蘊蓄を傾けた解
説は、講堂でも車中でも、あるいは実作の前でも、冴え渡り、参加者に深い感銘
と喜びを与えました。今回は、2泊3日の日程となりましたので、宿泊所での夕
食を兼ねた懇親会もなごやかに、思い出深い旅となりました。
 それでは、楽しかった研修会の模様をご紹介しましょう。




「与謝蕪村と三丹の京都画壇」


この講演は、翌日・翌々日に見学する名画の予告編を兼ねたものです。

【講演要旨】
 私は、実は、関東地方の出身、多摩地区の人間です。関東をはじめとする太平
洋側の住人からすると、この丹後が位置する日本海側は、「裏日本」として経済
的に取り残された地域というイメージがあるのではないでしょうか。私もこちら
へ来るまではそういう先入観を持っていました。しかし、この「裏日本」という
言葉が日本語に登場するのは、ここ100年、明治20年代以後のことだそうで、
謂わば一種の「新語」です。最近、その名も『裏日本−近代日本を問いなおす−』
と題する岩波新書(古厩忠夫著97年刊)が出されてこの辺の詳しい事情が記さ
れていますが、事実としても、それ以前は決して日本海側は「裏」ではありませ
んでした。
 では、この100年でいったい何が変わったのでしょう。
 現在の物流の主役は、トラック輸送になっていますが、これも本格化したのは
高速道路網が全国に整備されたここ20〜30年ほどのことです。それ以前は
いうまでもなく物流の主役は鉄道でした。明治になってから鉄道が敷かれ、日本
経済の「近代」が始まります。英米が交易相手国の中心になり、この鉄道の敷設
が太平洋側を中心に行われたため、日本海側は急速に「裏」化してしまいました。
こちらを走っている山陰本線など福知山あたりまで電化されたのはようやく4年
前の96年の春のこと、また、ごく一部を除いて現在も単線です。
 では、鉄道より前はどうだったのでしょうか。馬車や人力による荷車で運べる
数量はたかが知れています。大量の物資の輸送はあくまで船が主力でした。北前
船と呼ばれる大型帆船が、太平洋より波静かな日本海を行き交い、交通の主役・
経済の大動脈をになっていました。東北・北海道の米や海産物をはじめとする様
々な物資が北前船に積み込まれ、日本海の港々に立ち寄りながら関門海峡を経て、
さらに瀬戸内海を航行し、「天下の台所」たる大阪へ陸揚げされ相場で取り引き
されたのです。
 その大阪から、さらに江戸へ輸送された物資は、その質の高さから「下りもの」
と称され、そうでないものを「下らないもの」と呼ぶことは今でも日常用語とし
て生きているとおりです。
 今では信じられないかも知れませんが、明治もはじめのうちは新潟県の人口が
東京府の人口を上回っていたなど、日本海側の経済的優位性は現代の私達が想像
する以上のものがあったと考えておいた方がよいようです。
 また、一方で、丹後は、京大坂からの日本海側の窓口にあたっています。丹後
で陸揚げされた物資が河川交通や陸路で京大坂へ運ばれるルートもありました。
丹後は、まさに当時の交通の動脈たる日本海流通と経済の中心たる京大阪とを結
ぶ十字路に位置したのです。
 丹後は、古くは丹波国に属していましたが奈良時代に分割されて丹波・丹後の
二国になります(しかし、本来の丹波の中心は、「丹波郡丹波郷」が丹後にある
ことからも明らかなとおり、丹後の方でした)。これに西に接する但馬を合わせ
て、三丹と呼んでいます。
 桃山時代きっての文化人武将でもあった細川幽斎によって近世の幕を開けた丹
後12万石は、1669年以降は3藩と幕府領に分割されますが、それでも宮津藩は
7万石という大きな石高を誇っていました。近畿全域の諸藩と較べても、彦根の
30万石、小浜10万石などの政策的に大きな石高を持つ藩を除けば、もっとも
大きな藩のひとつと言ってよく、港を控える城下町も殷賑を極めました。
 三丹は、こうして物流の要として豊かな富を蓄積していきました。この経済力
を背景に形成された文化的な蓄積が、今も三丹に残る文化財群と言えるでしょう。
皆さんとご一緒に明日からその作品群の一部を見てまわりますが、きっと日本海
側に対する認識を改められることになるだろうと思います。

 さて、この資料館のある、まさにこの地が、かつての丹後の国府が置かれた場
所、和泉式部も丹後守であった夫藤原保昌とともにトップレディの生活を送って
いたところで、現在も府中と呼ばれています。そう言えば、東京の府中市も、昔、
武蔵国の国府が置かれた場所で、国分寺市も隣接していますね。
 この府中・宮津を含む地の郡名を与謝郡と言います。また同じ郡内になります
が、ここからしばらく行った大江山の麓の加悦(かや)町に字与謝(よざ)、む
かし与謝村といったところがあります。ここに、今も蕪村の母の墓と伝承される
墓石があります。蕪村本人は1716年摂津国(大阪府)の淀川畔の毛馬村の生まれ
であることが明らかになっていますが、お母さんが与謝村の出身だったのではな
いかとの説を唱える向きもあります。
 蕪村の出生から若い頃の消息はよく分かっていませんが、20代で江戸へ出て、
芭蕉門で忠臣蔵でも有名な其角の弟子巴人(夜半亭)に入門します。蕪村は、後
年、丹後から京都へ帰ってから夜半亭二世を襲名して名実ともに俳諧の宗匠とな
ります。文字どおり画俳両道の人であり、俳諧でも巨人と言うべき人物ですが、
在世当時は、むしろ画業の方が有名であったと言えると思います。俳人として再
評価し、彼の名声を確固たるものにしたのは、『俳人蕪村』を著してその近代性
に注目したかの正岡子規であり、明治以降のことになります。

 20代前半で師を亡くし、その後結城・宇都宮などへ遍歴し、地方の素封家に
養われて絵を残しています。芭蕉を慕って奥の細道の跡も歩き、30代半ばに京
に入ります。39才から3年間ほどこの丹後にも滞在して、たくさんの絵画作品を
残しています。
 何事にも早熟の天才と大器晩成型とがありますが、蕪村は典型的な大器晩成型
の人で、20代のころにはまだ本格的な作品は登場していません。蕪村は近世の
画家としては、かなりの作品が重要文化財や国宝に指定されていますが、それら
はいずれも50代以降に描かれたものです。
 蕪村芸術の胎動期は、不惑前後に滞在したこの「丹後時代」であったとは研究
者の見解が一致するところです。『芥子園画伝』など明清(みんしん)画の絵手
本などを入手して多分に独学的に画家としての蓄積を重ねたことが残された丹後
時代の作品から確かめられています。
 蕪村は俳画を完成したことで知られていますが、狩野派的な漢画をも京都の寺
院の襖絵などを実見して学び、また、当時ようやく日本に紹介され始めた明清画
の風を取り入れて日本の文人画、いわゆる南画を大成します。
 蕪村の絵は、実は素人っぽいというか、あんまりうまくないんですね(笑)。
「文人画」とは本来、職業画家ではない余技として画作の謂いですから、蕪村画
のそうした味わいこそ、文人画の本質と言うべきでしょう。
 中国では文人画の担い手は、士大夫という謂わば官僚階級でしたが、日本では、
武士ばかりでなく、蕪村のような庶民階層出身の知識人も担い手となります。
 これは、御用絵師である狩野派の画風に飽きたらなくなった知識人たち、特に
京都の文化人が、明清画に新しい方向性を見出したものとも言えるでしょう。

 話が前後しますが、江戸時代の京都画壇について少しお話ししたいと思います。

 京都画壇は、竹内栖鳳、川合玉堂、上村松園ら近現代の日本画においても中核
的な役割を果たしてきた大きな流れですが、その起点は江戸中期の五大家(円山
応挙、与謝蕪村、池大雅、伊藤若冲、曽我蕭白)らによる絵画の革新運動とでも
いうべきものから始まります。
 桃山期から江戸時代を通じて、日本絵画のアカデミズムの地位を独占していた
のは、言うまでもなくなく狩野派です。彼らは幕藩体制から確固たる地位を与え
られた御用絵師として、お城や御殿、寺院、御所などの襖絵、障壁画の制作を請
け負い、いわば公共建築の絵画の受注を一手にしていました。したがって、「狩
野派にあらずんば絵師にあらず」というのは決して大げさな表現ではなく、地方
の町絵師に至るまで狩野派門下を名のらねば生計が成り立ちませんでした。勢い
どこへいっても目にするのは狩野派ばかりという有りさまになります。

 ここで、江戸時代の絵師の身分について、おおまかにモデル化してみますと、

  御用絵師 − 町絵師 − 浮世絵師  /  文人画家
  
とまとめられると思います。言うまでもなく、江戸時代は身分制社会ですから画
家の序列にも厳然たるものがあったのです。武士階級からの御用に応えるのが御
用絵師であり、町衆・上層商人の需要に応えるのが町絵師。庶民階層の要求を満
たすのが浮世絵師。そして、そうした身分から超俗して、職業画家以外の生きか
たをとるのが文人画の世界というわけです。

 ところで、東京あたりでは、普通の住宅で床の間に掛け軸があるというお家は
なかなかありませんが、京都近郊では、この宮津あたりでも、ちょっと旧家へう
かがうと、必ず床の間に軸物が掛かっていて、それがまた、当たり前のように、
呉春であったり、岸竹堂であったりするので最初のうちは驚いたものです。
 歴史的に考えると、人口の圧倒的多数が庶民層であった江戸では、絵画の需要
も大量消費に応える「印刷文化」としての浮世絵が中心でしたが、古くから町衆
〜ブルジョアジー文化が花開いた京都では、あくまでも肉筆画が尊重されたとい
う違いが歴然とあったようです。
 さらに京都文化は、サロン的とも言うべき性格を備え、身分の枠を平気で乗り
越えるようなところがありました。琳派の創始者である俵屋宗達や尾形光琳らも
京都町衆の出身者ですが、見事な王朝文化の継承者でもあったことはよくご存知
のとおりです。
 結局、生活レヴェルでの文化的蓄積の程度が高く、公家や僧侶、町衆の間にも
文化的な交流のあった京都では、人々の目が肥えていて、狩野派一辺倒の絵画状
況に飽きたらなくなってきていたわけです。
 絵描き達の方でも、狩野派の粉本主義に飽きたらなくなった者たちが出てきま
す。狩野派は、公共事業の受注権を独占していたわけで、御用絵師として生きて
いくためには、必ず狩野派に属さねばなりません。町絵師のような人たちもはじ
めは狩野派の門を叩き、そこで学び、まずは門人としてデビューするのが常でし
た。そこでは、粉本という流派の絵手本の敷き写しをやらされます。もの自体を
見ずして、師風をのみ学ぶ。マンネリズムの極致です。
 当然、創作意欲の強い絵師ほど不満が鬱積することになります。江戸中期の京
都を中心に起こった同時多発的な画壇の革新、すなわち、応挙の写生、蕪村・大
雅の南画、蕭白・若沖・蘆雪の奇想は、いずれもそうした狩野派アカデミズムの
マンネリズムを打破しようとする猛烈な創作意欲のなせるわざと言えるでしょう。
 いま、ちょうど没後二百年を記念して京都国立博物館で、伊藤若冲の展覧会が
開催されていますが、改めてその作品をまとめて見るとやはりすごい。お時間が
あれば是非見て行かれると良いと思いますが、かきつばたの絵など、茎が生き物
のようにグルグルと円弧を描いてくねっているというダリも真っ青の異様さです。
この絵が200年以上前に描かれたと言うのですから驚かされます。まさに現代
の芸術家の感性、いやそれをはるかに乗り超えた突出した創作者の表現です。
 京都では、すでに250年前に、少なくとも絵画の分野では、「近代」が幕を
開けていたたことを実感せずにはおれません。
 そして、それは表現者だけにとどまらず、当時の京都には、実際、このような
絵を町衆や寺院が好んで購入して支えていくという文化的な土壌が確かに存在し
ていたわけです。

 さて、話を蕪村と応挙に発する京都画壇と三丹との関わりに、少し引き戻しま
しょう。
 明日から見て行く作品の中に、呉春の絵があります。彼は、蕪村に俳諧と絵を
学んで、最初はその敷き写しと言ってもよいほど蕪村流に忠実な文人画や俳画を
描いていました。ところが、蕪村の死後、応挙に近づいて、円山派の画風をも吸
収し、蕪村流の文人画の要素を組み合わせた四条派を創始することになります。
 これについては、面白い逸話がありまして、呉春は応挙から、文人画では勅命
を受けても撰に入らないぞ、つまり御所の仕事を受けられないと言われた。それ
では絵師として喰っていけないので、改めて応挙派に鞍替えしたというのです。
師の蕪村ほどの天才であれば、文人画でも十分にやって行けたのでしょうが、そ
れでも実際にはなかなか大変で、絵を描くから金をくれと無心する蕪村の手紙が
たくさん残されています。呉春は画技の点では、蕪村よりよほど巧いとも言える
のですが、あり来たりの秀才派では独立独歩の文人画ではたつきが得られなかっ
たのでしょう。応挙一門に客分のような形で属すことになります。
 円山応挙の偉いところは、こうした呉春を快く迎え、しかも「蕪村高弟」と名
乗ることさえ許しています。あさって見学する香住の大乗寺の襖絵の落款にもそ
れが確認できます。またここでは、2部屋分の襖絵を呉春は応挙から任されても
います。
 応挙は、非常に弟子が多く、しかも、たくさんの俊才を抱えていたことでは、
絵画史上で筆頭に位置する存在と言えます。そのなかでも流派を代表する者をあ
げて、「孔門十哲」「蕉門十哲」になぞらえて「応門十哲」と呼ばれているほど
です。
 そのなかでも、特に長沢蘆雪(ろせつ)は、蕭白や若沖と並ぶ天才肌の奇想派
の画家として、むしろ欧米での評価の方が先んじた感がありますが、応挙の一番
弟子として重要な仕事を任されていました。明日見学する慶徳院の襖絵を描いた
蘆洲のお義父さんにも当たります。ここに今春、千葉県立美術館と和歌山県立博
物館で開かれた長沢蘆雪展の図録がありますが、ここに出ている蘆雪の虎の絵と
同じポーズの虎や、枝振りが同じ構図の梅などをそこで見ることが出来ますので、
ご注目ください。また最終日には、大乗寺二階の蘆雪の猿の襖絵も特別に拝観で
きることになっていますので、楽しみにしていてください。
 円山応挙は、1733年丹波穴太村(亀岡市)の農家の生まれで、最初狩野派鶴沢
家の画人石田幽汀の門に入ります。江戸時代の狩野派十六家は江戸に大名のよう
な大きな屋敷を構え、幕府の御用を受けていましたが、御所の御用のある京都に
も出張所を置いていました。それが、狩野探幽の流れを汲む鶴沢家です。石田幽
汀は、鶴沢探鯨の門人で、すなわち狩野派京都出張所の画家というわけです。こ
うして、応挙は、狩野派のパスポートによって、御所の仕事に携わる資格を得た
ことになります。
 応挙による画壇の刷新は、一に狩野派の粉本主義を「写生」の精神と実践で革
新していったことにあります。実際、応挙の写生帳は数多く残され、重要文化財
に指定されているものもあります。この応挙の「写生派」の画風が、町絵師とし
ても、狩野派に飽きたらぬ京都の人々の好評を得て大きな需要に応えていくこと
になります。やがて多くの弟子を抱え、円山派を確立し、御所の仕事も派をあげ
て請け負うするようになりました。
 本来、応挙の師家筋にあたるはずの京都の狩野派の方でも、これ以降、ついに
は画風が円山派化してくるという現象も起こります。これは、応挙の「写生派」
のインパクトがどれほど大きかったことかを物語っており、江戸後期においては、
応挙流が狩野派自体を換骨奪胎して乗っ取ってしまったというのが事態を正確に
表現しているかもしれません。
 そして、円山派と四条派は、京都画壇の中心的存在となり、その影響は現代ま
で続いています。日本画の近代は、すでにこの時から始まっていたのです。

 明日ご覧になる宮津・智源寺の天井画は、当時の京都画壇の縮図として、謂わ
ば京都画壇曼荼羅ないし番付として非常に貴重なものであるということが、最近
の研究で注目されるようになりました。この天井画は、1区画一辺1メートルほ
どの格天井(ごうてんじょう)で20の区画に20人の画家が一作ずつ得意な草
花の絵を描いたものです。
 レジュメの4枚目をご覧いただくとわかりやすいのですが、描かれた草花を季
節別に見ると、仏間に向かって手前から春夏秋冬の順に、5枚ずつ横4列に整然
と配置されていることがわかります。
 また、画家の流派別に見ると、円山派がもっとも多く9人。四条派が4人。岸
派が3人。土佐派が2人。狩野派と原派がそれぞれ1人となります。
 さらに、その並びかたですが、縦5列のうち中心の1列が、手前から土佐派の
土佐光孚(みつざね)、円山派の円山応瑞、狩野派(鶴沢派)の石田友汀、そし
て四条派の呉春と各派の領袖クラスが揃っています。土佐派は中世以来の大和絵
の宗家として、この天井画においても光孚は「絵所預」と宮廷絵師たることを自
ら表明しています。応瑞は、当時はすでに物故していた応挙の嫡男、円山家2世
です。石田友汀は、応挙の師、幽汀の嫡男にあたり京都の狩野を代表する形にな
り、呉春が蕪村の高弟で四条派の開祖であることは前述したとおりです。
 この「中心軸」を囲むように当時の最大派閥であった円山派の画家が主として
配置され、円山派の友党とも言える四条派は、最も奥の列に横4人が並んでいま
す。また、縦の列の左端は手前から岸派2世の岸岱(がんたい)を含む岸派3人
と原派の開祖である原在中が並び謂わば「外様席」を構成しています。岸派も京
都画壇のなかで枢要な地位を占めた画系で、岸駒(がんく)によって始められ、
代々虎の絵を得意としたことで有名です。4代目の岸竹堂(きしちくどう)は、
明治の京都画壇を代表する画家のひとりでシカゴ万博にライオンを描いた屏風を
出品したりしていますが、丹後にも永らく滞在して数多くの作品を遺しています。
また、原派は幕末に至るまで宮中関係の仕事をよくした画系です。
 このように、この天井画が、20面の画面を、画題・季節・流派・画壇での地
位などをすべて総合して矛盾なく、まるで高等数学並みの手際の良さで見事に配
置した「画壇曼荼羅」だということがおわかりいただけたかと思います。
 こうした配置方法のヒントとして、江戸時代当時、さかんに行われていた相撲
見立て番付の影響があるのではないかとも言われています。相撲の番付は今でも
ありますが、それに見立てて、当時は役者や名所、温泉などあらゆるものの人気
を番付に配置したものが刷り物として大量に作られていたのです。当然、絵師の
番付もありました。相撲の番付表では、中心部分に縦に貫く枡がおかれて、そこ
には、行事・勧進元・差し添え人など、いわば相撲取りとは別格の「スタッフ」
が記載されます。この形式が、そのまま智源寺天井画の配列に持ち込まれたとも
考えられているのです。
 レジュメ5ページに文化十年頃の「平安画工硯相撲」があります。見ていただ
くと分かるように智源寺天井画の作者達は、番付の最上段にずらりと並び、中央
部分の行司のところにも円山応瑞、松村景文の名が見えますし、勧進元には土佐
家、差添人には狩野家が置かれています。呉春没後の番付で、その名はありませ
んが、彼を加えればそのまま智源寺の天井画中央列になります。

 このような応挙・蕪村亡きあとの京都画壇第2世代の当時の勢力をそのままに
反映した作品群が宮津に現存しているというのは実に興味深いことです。京都に
おいてさえ、「御用」の根源たるそのものずばりの京都御所を除くと、この手の
作品は遺されていないのですから。江戸時代の宮津が、京都文化圏に属するとと
もに、7万石の城下町、丹後縮緬と北前船の寄港地として繁栄した経済力を背景
に、そのかなり枢要な都市であったことを物語る文化遺産だと言えるでしょう。
 このように当時の画壇の勢力をそのまま反映した天井画を作り上げるには、画
壇に精通し、有力な画家に呼びかけることが出来、丹後ともつながりの深いプロ
デューサーとでもいうべき人物がいたはずですが、それが誰だったか、気になる
ところです。現時点では推測の域を出ませんが、制作当時の最長老で宮津とのゆ
かりの深い蕪村の一番弟子でもあった四条派の祖たる呉春が最有力ではないかと
思われます。                      (講演要旨以上)


 この講演のあと、同資料館に収蔵されている与謝蕪村の作品3点(一点は双幅)を間近に見せていただき、また館内展示室で、雪舟作の 天橋立図の実物大複製画を前に、歴史資料としてみる天橋立図のポイントや、雪舟の視点がどこにあったかという興味深いお話をうかがいました。
 また、夜は、天橋立に程近い宿舎で伊藤先生を囲んでの懇親会。解禁されたばかりの蟹づくしのご馳走に、皆さん、大はしゃぎで舌鼓を打っていらっしゃいました。焼き蟹、茹で蟹、蟹鍋、蟹の刺身と蟹だけでお腹が一杯になりました。
 翌11月5日は、伊藤先生の案内で、蕪村ゆかり見性寺・旧廻船問屋三上家和貴宮の松川龍椿(四条派)横山崋山(岸派)の大絵馬・宮津カトリック教会・講演で触れた智源寺の天井画慶徳院の長沢蘆洲の虎の襖絵を見学しました。特に、見性寺・和貴宮・智源寺・慶徳院などは、観光地でもないので、個人で旅行しても訪ね難いところであり、研修会ならではの見学地だったと好評でした。
 この日は、貸切バスで城崎温泉へ移動して宿泊。志賀直哉ゆかりの地で、外湯めぐりを楽しみ、夜は、またまた蟹をふんだんに使った会席料理を味わいました。  11月6日は、城崎文学館を見学したあとバスで移動し、香住大乗寺の円山応挙一門の最高傑作群及び長沢蘆雪襖絵を見学しました。大乗寺では、宝物館の建設を進めており、本堂に建築当時と同じように据え付けられた状態で鑑賞できる最後のチャンスだったと、こちらも大好評でした。
                      (文責 全国水墨画協会事務局)




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