父、母、夫、私の4人家族。
昼食は両親を交え4人での食事。 夕食は夫婦のみの食事である。
昼食は忙しい農作業の合間にサッと食べる、味には保守的な両親のことを思った料理。
夕食は夫婦でゆっくりと酒を呑みながら食べるので酒の肴でもある料理だ。
二つの台所を行き来し、二つの食事の傾向を行き来している。
 
 2005/8月
●色のついた料理の名前をクリックすると作り方のページに進みます    
 
8月1日      

グループ展初日。
早めに画廊へ出かけ、出品者5人の作品を各1点ずつ箱に入れる作業をする。(この箱に入った作品5点
が作品集となるのである)

あの暑いなか、グループ展だというのに観に来てくださった方々に感謝。そしてグループ展ならではの出会いに感謝。そんな方々が、私の作品についていろいろと言葉を与えてくれた。しかも皆さんとても真摯に話してくれた。ありがたいことだ、と胸にしみいり、嬉しくなった。

 

8月2日      

いったん群馬へ戻るため、午前6:59に新宿を発つ高崎行きの電車“湘南新宿ライン”に飛び乗った。この電車に乗ると昼食づくりに間に合うのだ。
乗ったとたんにクーラーの利き過ぎた車内の寒さに驚いた。用心して長袖の上着を着ているが、次の駅池袋あたりで早くも震えが来た。カバンの中にある布という布を首や肩や脚に巻き付けるが、乗車時間は2時間と長い。苦しかった。ここ数日寝不足だったので、この時間を利用して眠る予定だったが、眠ったら死んでしまうような気がした。どうしてこんなにも車内を冷やす必要があるのだろう。憤りを感じる。その憤りで体が熱を発すればいいのに、そうはいかないのだ。
この数日、都会の猛烈な暑さとクーラーの強烈な寒さに翻弄され、体に幾発もパンチをくらったかのような大打撃。夏こそ冷えるのだ。鍋料理でもつつきたくなる。

●豚肉のしょうが焼きキムチマヨネーズソース

 
 
   


 
 
グループ展にいらしてくださった方々、ありがとうございました。
 
   

8月もあと少しで終わりだ。日暮れの時間がずいぶんと早まっている。稲が穂をつけ、頭を傾げはじめた。みょうがも生えだした。もうじき夏も終わるのだ…としみじみ感じてしまい、さみしくなってくる。夏らしいこと、しただろうか? 遠出もしていないし、打ち上げ花火も見ていない。

8月は強烈な蒸し暑い日が続いた。平屋の我が家の西側に位置する仕事部屋にはクーラーがない。うんざりするほど暑くなる。iBookのキーボードに触れる気力も湧かず、制作もはかどっていない気がする。起きているだけで精一杯という時間の過ごし方をしていた。もったいない。クーラーを設置した方が能率があがるのだろうな。来年の夏はクーラーについて真剣に検討しなければならない。

 

   

家の中では過ごしづらいが、外へ出るとそうでもない。
畑で野菜を収穫していると、汗が噴き出てくる。メガネが曇り、目に汗が入るほどの勢いだ。
そうしていると、畑へ風が吹いてくる。すると涼しくなり、気持ちよい。あまりに暑いときは、頭に水をかける。それもあっという間に乾いてしまう。夏を味わう瞬間だ。
きゅうりや茄子の葉の繁みに足を踏み入れると、
小さなカエルが何匹もいっせいに跳び出てくる。緑色の粒が四方に飛び散り、ぱらぱらと雨の降るような音がする。愛くるしい光景だ。

 
オクラ
 

   

98年に描いた作品を、当時アルバイトをしていた店に長い間展示させてもらっていたのだが、その作品を店主さんが買い上げてくださる、という嬉しいことがあった。しばらくは展示されていることでしょう。

西荻窪・ビストロさて 通りからも窓越しに作品がちらっと見えます

 

   

思いがけない収入があって喜んでいると、思いがけない痛い出費がおとずれるものだ。
絵が売れたその日にiPodが壊れた。これで2度目である。使う頻度が高いせいか、新品が2年ともたない。こんなに壊れやすいのならば考えを改めて出費を押さえねばならないと、今回はiPod miniを買うことにした。10GBぶん入っていた数々の曲を6GBにまで削る作業に苦労した。

 

   

iPodが壊れていたので、電車に乗っている時間に河井寛次郎の『火の誓い』(講談社文芸文庫)を読んだ。
冒頭にある『部落の総体』というエッセイは、寛次郎がとある農村を歩き、その美しさに感銘している様子が、なかば興奮しているように書かれたものだ。それを読んでいると、私もまるでその美しい農村を一緒に歩いているような気になっていた。なかでも“…次々に現れる色々なもので、いつの間にか身体中が眼だけにされてしまうのだった…”という表現に心動いた。
身体中が眼だけにされてしまう光景に出くわすことがある。
身体中が耳だけにされてしまう音に出くわすことがある。
身体中が舌だけにされてしまう味に出くわすことがある。
それは美しく、気持ちのよい瞬間である。私のなにかと対象のなにかが響きあう瞬間なのだろうな、と感じる。(そのなにかというのをうまく言葉にできない。魂なのか意志なのか心なのか聖霊なのか神様なのか…そんな領域のものだと思う。食べ物の味にもそんなものを感じるのだ)

私は美術作家なので“身体中が眼だけにされてしまう”光景に出くわしたとき、それを描きたい! と思って絵に描いている。
もしも、描かれた私の作品を誰かが見たときに“身体中が眼だけにされてしまう”瞬間が訪れたとしたら…と想像すると、それは最高に嬉しい瞬間なのだろうなと思うのである。

 

   

本の話になったのでもうひとつ。
今、夢中になって読んでいる本が、保坂和志さんの『小説の自由』(新潮社)
どんな内容なのかを言葉で表現するのはとても難しいのだが、面白い。手応えがある。読んでいると奮い立たされるようなわくわくする感触がある。(それには“私なんかまだまだ甘いな”と痛感してしまうことも含まれる。)
大筋では「小説ってなに?」ということについて書かれているのだが、美術音楽やスポーツの話も出る。それは表現全般につながることだ。
「書くってなに?」だけでなく、「読むってなに?」「観るってなに?」「聴くってなに?」「動くってなに?」ということが書かれているのだと思う。そして、気づくことが多いのだ。「とにかく読んでみて!」というよりほかない内容だ。
きっと私はこの先、何度も何度も読み返すことになるのだろうと思う。
そして漠然と、保坂和志さんは開かれた人、新しい人であるなぁ、と感じるのである。

 

   

そんなこんなで8月ももう終わり。まだまだ先だと思っていた個展まであと2か月だ。
急きょ開催されることになったグループ展(9/7〜19・高円寺studio Zone)の搬入まであと1週間!!
またもやレシピの更新ができずに、8
月が終わるのである。
相変わらず、毎日のようにゴーヤーを食べている。そして、毎日毎日、畑から大量に採れる茄子やきゅうり、オクラを「今日はどのようにして食べようか」と考える日々である。