ここ数年「さわったものがくれるもの」と題して展覧会を行っている。 仕上がった作品は抽象的な形態をしているが、制作を始めるにあたりモデルが必要である。
  それはたとえば、花であったり、食べ物であったり、人体であったりする。 それらを見て感じる感動。 また、見るだけではもの足りず、触ってみたり、食べてみたりすると、さらに与えられる発見・喜び・感動。
  絵画というのは「色とかたち」である。 この二つを使って、自由をキャンバスに表現することができる。
  モデルはそのための手がかりとなる。モデルをたよりに制作し、新しい世界を「色とかたち」でつくるのだ。 制作するという作業のなかで、モデルは私にとって必要なものであるが、出来上がった作品の画面 にそれを探すのは意味のないことだ。
 私は私の作品の中に「ゆるんだ状態」を表現したいと思っている。 うれしい、美しい、おいしいなどの感動を感じると、体全体が解放されゆるむ。その瞬間・状態を大切にしたい。

(立石有美) [会場コメントより引用]
 
 
    なめらかな曲線とソフトなあたたかみを感じさせる色彩 ・・・作品を前にすると、その色に照らされて体温が数度上がったような心地よさを感じ、そのフォルムからは種や植物または体の部分といった有機的なものをいろいろ想像して、こちらまで元気になって来る・・・そんな魅力を備えた立石氏の油彩 作品。これほど自然に「女性的、母性、リラックス、癒し」という言葉で語れる作品もそう多くはないのではと、思わせるものがあります。
  と同時に、ソフトにそのように語れるものだけではないかと感じさせる何かを持っているのも立石氏の表現世界といえるでしょう。
  氏は、絵筆を握り始めたのは学んでいたジャーナリズムに「不自由を感じたから」、「絵画というのは・・・『自由をキャンバスに表現する』」もの。と語っていらっしゃいます。そして、そのこだわりを実現するために採用している特色のある色づかいは「文学的な意味をほとんど持たず、感情をあまり伴わない、極端に言うと頭の悪そうな色、なんでもない色」だからだという限定をつけてあります。
  また、過去数回にわたる個展のタイトルに「さわったものがくれるもの」とあるように日常的なさまざまなものがモデルとなってのかたちづくりですが「出来上がった作品の画面 にモデルを探すのは意味のないこと」というきっぱりした位置づけをされています。
  表現は自由であり、その自由は既成の概念を消し去り決して頼らない0地点。と宣言しているような基本姿勢があり、それゆえに生まれて来ている作品のようなのです。(本当の自由っていうのは厳しいものよ・・・といういつか誰かの言葉が聞こえて来るような・・・)
  今回は、「色に頼らず形を追求してゆく」ということをより確認しているという氏。その表現世界はどのようなやさしさ/厳しさを感じさせてくれるのでしょうか。どうぞごゆっくりお楽しみ下さい。

(Zaギャラリー/中村浩子)[会場コメントより引用]