レコード・ジャケットの楽しみ



LPレコードのジャケットを見るのが好きだ。ただし、なんでもよいわけではない。そこから音楽を彷彿とさせるデザインでなければならない。CDが当たり前になった現在では、レコードという言葉も死語に近くなっているが、自分の中ではCDよりレコードの方が存在感が大きい。 CDが再生音楽の主流になって、雑音が少い、簡便な装置でも結構良い音がする、LPのように針を使わないのでレコードが損傷しないなど物理的な側面でのメリットは確かにあるが、反面失われたものもある。その失われたものの一つがジャケットデザインの魅力である。LPレコードの30cm四方のサイズを前提にしたジャケットデザインは、CDの12cmのサイズと比べると圧倒的に迫力があり、存在感がある。また、CDのようなプラスチックケースでなく、紙の手触りがなんとも人間的なのである。新しく買ったLPレコードにのジャケットを手にとって眺めるときの期待感は、CDでは到底得ることができない。昔からレコードが好きでレコードによって音楽に接してきた人間にとっては、レコードジャケットは、それを通して中のレコードから発せられる音楽を感じられるくらいLPレコードと切っても切れない関係にある。それだけに、ジャケットのデザインは人一倍気になる。

こういったレコードを見つけると本当にうれしくなってしまう。このジャケットデザインは、もともと英DECCAがベイヌム指揮でシベリウスの「伝説」「タピオラ」を発売したときに使用したものらしい。左のレコードは、後に米LONDONがアンソニー・コリンズ指揮でシベリウスの交響曲全集を作ったとき、その第2のレコード・デザインに英国盤ベイヌムのものをそっくり使用したものである。図柄は、フィンランドの神話<カレワラ>をイメージしたものと思われ、先の「伝説」「タピオラ」のデザインとしての方がしっくりくる。
1950年代のジャケット・デザインは、曲のイメージをデザインしたものが多く用いられた。これは、イッポリトフ・イワーノフの「コーカサスの風景」とボロディンの「ダッタン人の踊り」、「中央アジアの草原にて」を収めたレコードだが、中央アジアのステップ地帯を剣を持った騎馬兵が駆けていく様を描いたデザインが、まさに曲とぴったり。この絵を見るだけで中の曲は聴かなくても良いくらい。1960年以降は、アーティスト写真中心になり、デザイン面での面白さが少なくなったのは残念。
シャンソン歌手イベット・ジローの作品。 水彩画がパリの風景を偲ばせてくれる。 1950年代終わり頃の東芝10インチ盤。 このころのANGELレコードは、良いデザインのものが多い。
ディヌ・リパッティとカラヤンの畢生の名作。シューマンのピアノ協奏曲。
米コロンビア10インチ盤。
デザインは、むしろダフニスとクロエを連想させる。
ジャケットのデザインは、かつてデザインの一つのジャンルとして位置づけられていた。ジャケットデザインだけで展覧会が開かれたこともある。また、学校の美術の教材としてジャケットデザインが取り上げられていたこともあり、私も手持ちのレコードを参考に制作したことを憶えている。美術の先生もレコードに興味があったのかもしれない。正確な曲名は憶えていないが、先生の作品のタイトルは、「… underground」といったものであった気がする。Jazzフルート奏者Herbie Mann のMenphis undegroundであったかもしれない。同級生がどのような作品を作ったか全く記憶がない。唯一、「The Milky Way」と題したものが記憶にあるのみ。それがいかなる曲なのかについては知らない。

このように、LPレコードのジャケットの美術性は認識されていたにもかかわらず、1960年代後半から今日まで演奏家重視のレコード販売の姿勢が強まり、その影響でジャケットに演奏家の写真を載せたものが非常に多くなってきた。レコード会社としては、ジャケットデザインを考えなくても、演奏家の写真を一枚用意すればよいのであるから、ずいぶん楽なものである。このやりかたは、演奏家をスターとして売り出すには都合がよいかもしれないが、レコードファンとしては、甚だ残念な現象である。

1950年代のLPレコードがまだモノーラルのころ、特に初期のジャケットには優れたデザインのものが多い。当時は、レコードは高価な貴重品であり、現在のような大量生産の工業製品としてではなく、音楽愛好家向けの文化的価値観で制作されていたのであろう。そこでは、あくまでも主役は音楽であり、ジャケットもそれが包んでいる音楽のイメージを表現したものが採用されている。デザインの専門家や画家が多く起用され、結果としてジャケットの芸術性が大きく高まったのである。1950年代のこの傾向は1960年代初頭までしばらく続くが、次第に薄らいでいき、演奏家の近影や風景写真を配したものが多くなってくる。しかしながらジャケットデザインの重要性が忘れ去られた訳ではなく、素晴らしいデザインのジャケットに包まれたレコードは、数が少なくなったとはいえ探せばある。そのようなレコードに巡り合うのもレコード収集の楽しみである。

今日、LPレコードが再生音楽の主役から降り、LPレコードを購入しようとすると中古レコード屋に行かなければならない状況になってくると、どのようなレコードに価値があるか一層鮮明になってくる。そこで珍重されているレコードは、例外なくジャケットデザインが優れたものである。それは、再生産できない芸術品に対するのと同様の価値判断が働いているのである。1950年代から1960年代初頭にかけてのものは、Pops,Jazz,Classicいずれのジャンルも素晴らしい。とくにオリジナル盤と呼ばれる当時の外国盤ジャケットの素晴らしさは、それを手に取ってみたものでなくては分からないであろう。レコード自体も厚い重量感のあるもので、近年の薄っぺらいものに比べて遥かに実在感を持つものである。もちろんそこには時代の匂いを懐かしむ気持ちが重なっているのではあるが、とにかく今ではほとんど無くなってしまったレコードに対する憧れの気持ちを誘うものがある。

こういう貴重盤を手に入れたいと考えるのであるが、良いものは高いという経済原則はここでも働いており、高価なのがなんともくやしい。貴重版と呼ばれるものは、4、5千円から数万円もする。まあ、好事家向けの価格であるから価格などあって無くが如しという面もあるが、どういう人がこれを買うのかと思ってしまう。私といったら、貧乏性のせいで、レコード1枚の価格が2000円を超えると抵抗感がある。3000円が許せる限度だ。1万円持っているとしたら、貴重盤を1枚買うよりも、数百円から1000円前後のレコードを何枚か買う方である。それと、名盤と呼ばれるものほど数多く出回っており、探すのも容易で価格も安い。これだから、レコードの枚数は増え続けるものの大部分は専門のコレクターから見ればゴミのようなものである。とはいえ、安くてデザインの良いものを追い求める楽しみは止められない。貴重盤のコレクターではなく、自分の価値基準にあったコレクションが大事なのだと自分に言い聞かせている。貴重盤はお金があれば集められるが、自分の感性に従ったコレクションは、お金では買えない。自分の感性を磨き、信ずるものを購入する。購入したものが自分を表現している。そのような作品を見つけるプロセスを楽しむのが趣味を長く続ける秘訣である。